第二十九部
141.教室
チャイムの音が鳴る少し前、三人はばらばらに教室へ入った。
誰もがそれぞれの“居場所”を選ぶように、自然と離れた席へ。
教室には、話し声と椅子を引く音、シャーペンの芯を出す音、窓の外の鳥の声。
日常の音が混ざりあい、流れていく。
ゆず
窓際の席で、ゆずは頬杖をつきながらクラスの空気を読んでいる。
机の上には何冊かのノート、開いたままのスマホ。
“ちゃんと馴染んでる”ふりは、もう板についていた。
(この空気が、たまにうんざりする)
視線をなつみに流す。
隅の席でじっと下を向いている。
昨日、声をかけたことを後悔はしていない。でも――
(距離の詰め方、間違えると、すぐ壊れる)
一瞬、なつみと目が合った。
でも彼女はすぐに逸らす。
その動きに、なぜか胸がチクリとする。
あき
教科書を開くふりをしながら、あきは気配だけでクラスの動きを探っていた。
まるで獣のように敏感に。
隣の席の椅子が引かれると、そっと目を向ける。
そこに座ったのはなつみだった。
少しだけ髪の毛が揺れて、あきの机に触れそうになる。
(あの子も、がんばって来てるんだ)
「おはよう」と言ってみようかと思ったけれど、
その言葉は喉の奥で詰まった。
代わりに、消しゴムを貸してみる。
さりげないふりで、そっと机の上に置く。
なつみ
気配に気づいて、なつみは小さく目を上げた。
そこにあったのは、使い込まれた消しゴム。
何かを試すように、それを手に取ってみる。
(ありがとう、って言わなきゃ)
でも声にはならなかった。
それでも、あきが小さく頷いた気がして、
なつみの胸の奥がふっとあたたかくなる。
(…なんか、悪くないかも)
142.昼休み(なつみの視点)
お弁当を開く音が、四方から響く。
その音だけで、心臓が跳ねる。
隣のあきが箸を持つ。ゆずはもうパンの袋を開いている。
なつみは、自分の弁当箱に手をかける。
でも、開けられない。
母親が作ってくれたおかずが、そこにあるだけで、罪悪感に変わる。
(どうしても食べられない)
「なつみ、食べないの?」とゆずが静かに聞く。
一瞬、心がびくっと揺れる。
でもなつみは、小さく笑って言う。
「今朝、ちょっと食べすぎちゃって…」
嘘。
でも、ゆずはそれ以上なにも言わなかった。
ただ、その視線が優しくて、痛かった。
143.昼休み ― 教室にて
教室の窓辺には春の陽射しがやわらかく差し込み、弁当のふたを開ける音が一斉に響いた。箸が鳴る、笑い声が上がる。ふだんどおりの昼休み。
けれど――その中心から、ひとつだけ音がしない。
なつみは、自分の席で、弁当箱を机の端に置いたまま動かないでいた。開けるそぶりもなく、ただじっと目を伏せている。
ゆずはちらりと横目でそれを見た。
(…また、食べてない)
彼女の弁当は、毎日ほとんど減らない。中身はきれいに詰められていて、母親が毎朝早く起きて作っているのが伝わるようなものだ。それでも、なつみはそれに箸をつけることなく、「食べたふり」をして昼休みをやりすごす。
ゆずは、深く言葉を飲み込んだまま、ただパンの端をかじる。
あきも、なつみの様子に気づいている。
でも、それを言葉にしてしまうことの重さを知っているから、言わない。
見なかったふりをして、弁当の中身に視線を落とす。
(どうして、わたしは何もできないんだろう)
ふと、なつみが箸を持つふりをして、少しだけ卵焼きをつまんだ。けれど、それは口に入ることなく、そっと戻された。
「ねえ、なつみ」
ゆずが静かに声をかけた。
「今日、天気いいね」
その声に、なつみは少しだけ顔をあげる。
視線が合って、微笑みがかすかに揺れる。
「うん……あったかいね」
それだけの言葉。でも、そこには確かな気配があった。
“わたしは、見てるよ”
“あなたのまま、ここにいていいんだよ”
――そう伝えるようなまなざし。
あきは、小さく息を吐いた。
今日もまた、うまく声にはできなかった。
けれど、ゆずのとなりで、それを受け止めようとしている自分がいる。
弁当箱のふたが、そっと閉じられる音がして、昼休みが終わっていく。
144.モノローグ ― なつみ
お腹は、すいてない。
いや、すいてるのかもしれないけど……。
でも、それが怖い。
何かを入れるってことは、何かで自分を満たすってことで。
でも私は、満たされてしまうのが怖いんだ。
お腹も、心も。
誰かの声で、誰かの優しさで。
もし、それで満たされたふりをしてしまったら、
次にそれがなくなったとき、わたしはきっと――また、壊れてしまう。
だから、空っぽのままでいたい。
そうしてれば、何かが消えても、失っても、
最初からなにもなかったんだって、自分に言い聞かせられるから。
でも……。
さっき、ゆずが声をかけてくれた。
「天気いいね」って。
ほんとうに、それだけの言葉だった。
なのに、わたしの胸の奥が、ひどく騒いだ。
なにか、ゆるんだ気がした。
それはこわくて、でも、
ちょっとだけ……あたたかかった。
あきちゃんも、わたしを見ていた。
あの目。何も言わないけど、知ってる目。
似てるのかもしれない、わたしたち。
わたしは、なにかを言いたい。
でも、口を開くと、
なにかがこぼれてしまいそうで……こわい。
――でも、
もしも、あのひとたちが、ほんとうにそこにいてくれるなら。
わたし、もう少しだけ……食べても、いいのかな。
145.放課後までのジリジリとした時間(視点:なつみ)
五時間目。
黒板の文字がまるで水の中で揺れているみたいに、ぼやけて見える。
先生の声も遠くて、ところどころしか聞こえない。
それでも、手元のノートにだけは律儀にペンを走らせてる。
なにかしてないと、心の中がざわざわするから。
気になる。
ゆずのことも、あきちゃんのことも。
でも、それを見てしまったら、気づいてしまったら、
きっともう、前と同じふりはできない。
わたしは誰にも気づかれないように、
少しだけ横目であきちゃんを見る。
彼女もまた、ゆずを見ていた。
ゆずは、前の席でじっと窓の外を見てる。
まるで逃げ出すみたいに、でも動かないで。
なんだろう。
この感じ。
似てるようで、違う。
違うようで、でも、やっぱり似てる。
たぶん、それぞれが、それぞれの穴を抱えていて、
それでも今日だけは、互いの影がかすかに重なってる。
あと二時間。
あと二時間だけ我慢すれば、
チャイムが鳴って、わたしたちは自由になる。
いや、
自由になんてならない。
でも、「近づく自由」だけは、少し、あるかもしれない。