2.白線を越える子どもたち
6.『白線を越える子どもたち』
山本は、小学校教員になって十五年になる。
春になると決まって思うのは、
「子どもたちの目が、少しずつ変わってきている」ということ。
昔はもっと、目が泳いでいた。
不安も、期待も、嘘も、すべて目に出ていた。
けれど今の子たちは、大人のように目を伏せて、感情を管理している。
ある日、給食を終えた春野という少女が、
箸を持ったまま手を止めて尋ねた。
「先生、夢って、どうやって見るの?」
山本は一瞬、意味がわからずに聞き返した。
春野はもう一度だけ、同じ言葉を繰り返したあと、
静かに、箸を置いた。
保健室の記録には、
別の子の名前が何度も記されていた。
手の甲、指先、二の腕。
自分で切ったらしい、浅い傷がいくつも。
注意して見てみると、どの子にも“印”のような痕がある。
一見いたずらの落書きのようでいて、
どこか図形的に秩序立っている。
養護教諭は言った。
「最近の子たち、オーバードーズとかもSNSで見て知ってるんですよ。
誰かが“やってる”のを見ると、自分もやっていい気になっちゃうんです」
山本は曖昧にうなずいた。
それは確かに理由の一つだろう。
でも、何かが引っかかっていた。
その数日後。
旧校舎の資料室で古い教材を探していたとき、
ふと、壁の裏に奇妙なものを見つける。
剥がれたベニヤの隙間に、チョークで書かれた何本もの線。
それは“枠”のようなものだった。
そして、その中央にひとつの言葉。
「白い部屋」
見た瞬間、胸が痛んだ。
懐かしい。けれど、なぜ懐かしいのかがわからない。
その夜、山本は夢を見た。
教室。
子どもたちはいない。
真っ白な光だけが、窓の外から差し込んでいる。
教卓の上に、春野のノートが開かれていた。
中には、子どもの字でこう書かれていた。
「わたしたちは、もう白線の外にいる。
先生も、もうすぐ来るよ。」
目が覚めたとき、山本の掌には、
なぜか白いチョークの粉が付着していた。
【モノローグ|教師・山本】
子どもたちが壊れていく。
壊れているように見えないから、もっと怖い。
教師として、彼らを守りたいと思う。
でも――
彼らが今、何を見ているのか、
自分にはもうわからない。
了解しました。
では、前話で「白い部屋」という言葉に触れた教師・山本が、
封じていた**“ある記憶”**を思い出す場面を描いていきます。
これは、彼自身の少年時代に体験した“ある少女”との出会い。
その記憶は、彼の現在の職業観と、子どもたちに対する異様な感覚の根源にもなっています。
6.5.『白い部屋の少女』
「……山本裕介くん?」
保健室のベッドに寝かされた少年は、
聞き慣れない名前を呼ばれて、ぼんやりと返事をした。
熱ではない。
風邪でも、腹痛でもない。
ただ、教室の空気が耐えられなくなって、机を飛び出した。
誰も何も言わなかった。
先生も、友だちも。
彼はもともと、誰の記憶にも残らない子どもだった。
保健室には、もう一人、女の子がいた。
カーテンの向こうから、白い脚だけが見えた。
「ねえ、こっち来て」
声をかけられて、山本はカーテンを開けた。
そこにいたのは、同い年くらいの少女。
けれど、肌はやけに白く、目の奥に光がなかった。
「ここはまだ中。わたしたちは、外に行けないの」
山本は、何のことか分からずに黙っていた。
少女は、小さなメモ帳を彼に差し出した。
「この世界は終わらないの。
だから、だれかにバトンをわたさなきゃいけないの。
わたしは、つぎの子を待ってる。」
そのとき、ベッドの下から何かが這うような音がして、
山本は恐怖に突き動かされるように保健室を飛び出した。
翌日、あの少女はもういなかった。
誰に聞いても「そんな子はいなかった」と言われた。
けれど山本は、家に帰ってランドセルを開けたとき、
あのメモ帳がそこに入っているのを見つけた。
そして、あるページにはこう書かれていた。
「あなたが教師になったら、また会いましょう」
【モノローグ|教師・山本(少年時代の記憶)】
あれは夢だったのか。
それとも、誰にも言えない現実だったのか。
でも、あの子の目を見たとき、
いまの子どもたちと同じものを感じた――
“この世界に居場所がない”という、透明な絶望。
7.『アキと透明な階段』
アキは、いつも教室の一番後ろの席に座っていた。
目立たないけれど、どこか“場の空気”を調整するような子だった。
怒っている子がいれば、そっとティッシュを差し出し、
泣いている子には、鉛筆を拾って手渡した。
でも、誰も彼女のことを“好き”とも“嫌い”とも言わなかった。
存在感が希薄なのだ。
まるで彼女だけが、薄いガラスの向こう側にいるみたいだった。
ある日、廊下の突き当たりに階段があった。
そこには扉も標識もなく、普段は物置になっているはずの場所だった。
でも、その日は違った。
アキは誰かの声に導かれるようにして、その階段を昇った。
段差はやけに浅く、足音がまったく響かない。
息をするたびに、空気が白く濁る。
やがて、たどり着いた先には真っ白な部屋があった。
その部屋には誰もいない。
ただ、床にノートが置かれている。
めくると、そこには子どもたちの名前が並んでいた。
その名前の横には、小さな図形のような“印”。
アキは知っていた。
それは、リストカットの跡や、
過呼吸のときに握っていた爪の痕と同じ形だった。
ページの最後には、こう書かれていた。
「この部屋に入った者は、しばらく忘れられる。
でも、大人になったら思い出す。
そして、つぎの子を探す。」
アキは自分の名前を、その下に書いた。
印も、自分で記した。
そうして、ページを閉じたとき、背後に足音がした。
「ようこそ」
白いセーラー服の少女が立っていた。
かつて山本が見た、あの少女とよく似ていた。
【モノローグ|アキ】
わたしは、世界の重さをすこしずつ受け取っている。
ほかの子が壊れてしまわないように、少しだけ分けてもらう。
それでも全部を受け止めることはできないから、
いつか誰かにバトンを渡さなきゃいけない。
きっと、わたしも忘れられる。
でも、それでいい。
忘れても、ここで待ってる。
8.『アキの裂け目』
アキの家には、窓がなかった。
正確に言えば、カーテンがずっと閉じられている。
昼も夜も、部屋の中には蛍光灯の青白い光だけが落ちていた。
「目に悪いからやめなさい」
母親はそう言って、テレビをつけっぱなしにする。
チャンネルは常にニュースかワイドショー。
芸能人のスキャンダルと誰かの訃報が交互に流れていた。
父親の姿は、ほとんどなかった。
アキは食事を一緒にとらなかった。
夕飯の時間になると、テーブルの上に“自分の分だけ”が置かれ、
それを静かにラップで包んで冷蔵庫に戻す。
それが“普通”だった。
おなかが減ると、たまに舌をかんだ。
軽く、だけど確実に。
そうすると、少し“重さ”を忘れられた。
ある日、クラスメイトの一人――ナツミが泣いていた。
給食の時間、机に突っ伏したまま戻ってこない。
誰も声をかけようとしなかった。
先生さえ「そっとしておこう」と言った。
アキは席を立った。
そっとポケットから白いキャンディを取り出して、ナツミの机に置いた。
「甘いもの、なめると、泣くの止まるかも」
ナツミは、はっとして顔を上げた。
泣き顔のまま、ぽつりと聞いた。
「アキちゃんって、ほんとに生きてる?」
アキは少しだけ笑った。
その夜、アキは久しぶりに夢を見た。
白い部屋。
あの少女が、また立っていた。
「あなたはまだ、“中”だよ」
「バトンは渡せない。まだ、自分の傷を隠してるから」
アキは黙って下を向いた。
少女の手が、彼女の頬に触れた。
「でも、そろそろ見つけるんじゃないかな。あなたの“次の子”を」
【モノローグ|アキ】
わたしの中には、いつからか裂け目があって、
そこに、よその人の涙がすとんと落ちるの。
それを静かに飲み込んで、笑ってみせる。
誰も気づかないように。
誰も泣かないように。
でも――
わたしの裂け目も、たぶん限界があるんだと思う。
9.『ナツミの声』
ナツミには「声」がなかった。
話せないわけじゃない。
ただ、言葉を口に出すと、“何か”が壊れる気がした。
「うるさい」
「いちいち面倒くさい」
「そういうの、気にするなって」
家でも、学校でも、ナツミの言葉は“響かない”ように扱われてきた。
だから彼女はしゃべるのをやめた。
キャンディをくれた子――アキのことは、なぜか覚えている。
目立たないのに、存在が消えない。
いつの間にかそばにいて、
いつの間にか何かを渡して、
そして、また静かにいなくなる。
ナツミはふと、放課後の帰り道、アキを追いかけた。
まるで引力に引かれるように。
すると、知らない道に出た。
空き地の奥に、小さなブランコがあって、
アキはそこで、一人で揺れていた。
「……しゃべると、こわれる気がするんだ」
ナツミが、ようやく口を開いた。
アキは何も言わなかったけれど、
足元に置かれた紙袋の中に、白いノートが一冊入っていた。
ナツミはそれを受け取った。
ページには、すべての言葉が“図形”で描かれていた。
言葉じゃなく、丸、三角、波線――
不思議と意味が伝わってくる。
「これ、アキちゃんが書いたの?」
アキは首を横に振った。
「前の子から。わたしは、もらっただけ」
その夜、ナツミは夢を見た。
白い部屋。
何もない床に、ひとつだけキャンディが置かれていた。
その包み紙には、図形でこう書かれていた。
「しゃべれなくても、聞こえるよ」
ナツミはその瞬間、泣いた。
声もなく、静かに、けれど確かに。
【モノローグ|ナツミ】
しゃべれないって、思ってた。
でも、わたしが黙っていたのは、
誰にも壊されたくなかったから。
もし、“次の子”がいたら。
今度はわたしが、キャンディを渡す。
それが、たった一粒でも。
それで、足りなくても。
10.『白いノート』
ナツミは学校が終わると、アキと空き地のブランコで会うようになった。
おしゃべりはしない。
代わりにアキは、白いノートを毎日一ページだけナツミに渡す。
ナツミは、帰ってからそれをなぞる。
図形の意味を、静かに感じ取りながら。
ある日、ページに小さな鍵のマークが描かれていた。
その夜、ナツミはまた“白い部屋”の夢を見た。
扉がひとつだけ浮かんでいる。
でも鍵穴には、鍵が差し込まれていない。
次の朝、アキが言った。
「“開けたくない扉”って、どこにあるか、知ってる?」
ナツミは黙ってうなずいた。
アキは、ナツミの家に行こうとしなかった。
けれど、ナツミのほうから話した。
「…お母さん、たまに全部の音に怒るの」
「テレビも、電子レンジの音も、わたしの足音も」
「うちも、似てる」アキがぽつりと答えた。
「だから音のないノートにしたの」
その日、ふたりは学校帰りに廃屋の窓から漏れる光を見つけた。
中には、古いソファと崩れかけた本棚、
そして床に落ちていた、もう一冊の白いノート。
開くと、そこにも図形が描かれていた。
でも、アキのノートと違って、濃い赤い線で何かが乱れていた。
ナツミは手を伸ばしかけて、アキに止められた。
「これは、“わたしの前の前の子”のノート」
「……壊れたの?」
アキは少し考えてから、こう言った。
「ううん、いまも“中”にいる。ずっと」
【モノローグ|アキ】
わたしたちは、キャンディの包み紙みたいなもの。
きれいに包んでも、なかが壊れてたら――
次の人には渡せない。
でも、ナツミは大丈夫。
ちゃんと、苦くても甘いものを、誰かに渡せる子になる。
【モノローグ|ナツミ】
アキちゃんの言葉は、声じゃなくて、手触りで届く。
だれにも届かなかったわたしの気持ちを、
図形みたいに、静かに読み解いてくれる。
わたしも、いつか。
だれかに「ノートを渡す」番が来るのかな。