2 紅茶
時刻は18時10分。
放課後の職員室ではまだ沢山の先生達が仕事をしている。
日は既に落ちかけていて、空はだいぶ暗いオレンジ色になっていた。
黙々と一人でパソコンを打つ人、数人と談笑している人、電話対応をしている人。生徒達が帰った後の職員室はかなり自由に働くことができる。
ごちゃごちゃに書類が乗った机を通り過ぎ、桃花は給湯室へと向かった。給湯室は職員室の端の通路を抜けた所にあり、職員室まで声が届くことはない。
そのため北中では、聞かれたくない話などをするスポットになっていた。
桃花が給湯室に入ると、一人の男性がティーカップにお湯を注いでいた。
古谷 「あ、関先生。ここにいらっしゃったんですね。2年の島に全然いないから何処にいるのかと思っちゃいました」
関 「え? それって私のこと探しにきたってこと?? いや、嬉しいね桃花先生に探して貰えるなん…」
古谷 「そういうわけじゃないです」
呆れたように冷たく返す。
関 尚武。専門は「理科」
北中2年の学年主任であり、桃花の直属の上司である。
年齢は45歳で、センター分けがトレードマークの男性である。
関 「あれ? 何か冷たくない? 私がいなくて島が寂しかったってことじゃないの??」
古谷 「いや違います。関先生がいないから凄く仕事が捗って良かったなって意味です。いつも関先生がいるとおしゃべりばっかで仕事が止まっちゃうんですもん」
関 「またまたそう言っちゃって。いやだなぁ、本当はちょっと寂しかったんでしょ」
古谷 「…。」
関 「本当に違うみたい」
関は普段からおちゃらけている。学年主任を任されるくらい先生としての力はあるのだろうが、桃花はいまいちまだその力を理解できないでいた。変に気を遣わなくてはいけない上司ではないため、学年の先生から好かれている。
古谷 「フフッ、冗談ですよ。さっきから島に関先生がいないから大谷先生の話し相手がいないんですよ。最初の方はゆきちゃんでなんとかなってたんですけど、だんだん私に話しかけてきて。このままじゃヤバいって思ったので一端避難して来ました」
『島』とは職員室に並べられた机のグループのようなものだ。桃花は2年生の島に属しており、関を含め6人の先生がいる。
関 「ハハハ、大谷先生が饒舌になってるのか、そりゃ多分今日良いことでもあったんでしょうなぁ、あのおばちゃん。で、今は誰が犠牲になってるの?」
古谷 「今はゆきちゃんです。大谷先生、山田にも話しかけに来てたんですけど、あいつはタイミング見計らってイヤホン着けやがりました。信じられないです」
関 「おぉ、相変わらずの山田ムーブだね。空気の読めなささが半端じゃない。ゆきちゃんには申し訳ないけど、もう少し大谷先生に付き合って貰おう」
そう言うと関は、再びティーカップへと視線を向ける。
古谷 「で、関先生は何やってるんですか?」
関 「ん? 今日美味しい紅茶の入れ方を聞いたからさ。さっきから挑戦してるんだ。ホラ見てみ、紅茶はこうやってお湯を入れた後カップに蓋をするんだよ」
古谷 「蓋をすると何か美味しくなるんですか?」
関 「なんか噂によると、蒸らすことで紅茶の風味がより引き出されるみたいでさ。ーーよし、丁度時間だ。桃花先生飲んでみて」
差し出されたティーカップを受け取り、一口飲んでみる。
恐らくアールグレイだろう、ほのかな香りが口を通り、鼻へ抜けていく。
古谷 「おいしいです…。でもいつもと何が違うのかな…? あまり変化がわかんないです」
関 「そうだろ、私もなんだよ。確かに若干香りが強くなった感じがするんだけど…いつもと何か違うのかってなるとよく分からないんだよ」
関は顎に指を当てジッと考え込む。かつてこんなに考え込んだ関を、桃花は見たことがあっただろうか。そしてセンターパートに分けた髪をグッとかき上げる。
関 「ーー私も別に紅茶が特段好きってわけじゃないんだよ。ただ美味しい入れ方を考えてみると、以外にも楽しくってさ。気づいたら時間が経ってたんだ」
古谷 「確かに面白いですね。私もなんか独自の入れ方試してみたいです」
関 「今度は少し砂糖でも入れてみようかな。甘みがあることで何か変わるかも知れない」
古谷 「何か聞いたところによるとお湯の温度でも変わるみたいですよ」
関 「おお! 桃花先生流石だ! 早速やってみるぞ……」
□□□
桜木 「桃花せんぱい…」
古谷 「お、おつかれさまゆきちゃん。大谷先生は??」
桜木 「さっき丁度帰られました。あの人話したいだけ話して、帰っていきましたよ…」
職員室に戻ってきた桃花と関。
そこで島にぐったりとしている彼女の姿を見つける。
彼女は桜木 雪。専門は「社会」
中学2年担任であり、桃花の1つ下の24歳である。
焦げ茶のショートカットをした小柄な女性である。
関 「ゆきちゃん大変だったね。でも美味しい紅茶作ってきたから飲んでみて。私と桃花先生で協力して作ったんだ。普段とは全く別物だぞ」
桜木 「もう私は大谷先生の話でお腹いっぱいなんですけど…」
関 「まぁ、そう言わずにさ」
関は構わず、桜木の机にティーカップを置く。
この一杯は関と桃花が研究し尽くして生まれた究極の一杯である。
桜木 「あぁ、良い匂い。じゃあお言葉に甘えて頂きます」
流石というものなのか香りを嗅いで、惹かれた桜木は紅茶を飲み始めた。
桜木 「美味しくはあります…。でも普段と何か違うんですか?? ってあれ? 関先生!? 桃花先輩!? なんか目線が冷たくないですか! なんでそんな無表情なんですか!?!?」
古谷 「いや、いいのゆきちゃん。ゆきちゃんは悪くないの。ただあなたは分からない人ってことだけ」
関 「ううん。残念だよ桜木君。この違いに気づけないなんて」
桜木 「なんか私だけ置いていかれてる!? え、違いが分からないだけで! いやですいやです置いていかないでください!! それなら山田先輩も飲んでみてください」
桜木はそう言うと、対角線上に座る山田の方を指さした。
山田 俊。専門は「算数」。
中学2年担任であり、桃花と同期の25歳。
クルクルの天然パーマが特徴の、ボサッとした男性である。
山田 「…。」
古谷 「ーー山田あなたいつまでイヤホンしてるのよ!」
イヤホンをしてパソコンを打ち続ける山田に、桃花はイヤホンを外させる。
山田 「おぉ! 関先生どこに居たんですか? 桜木先生大変だったんですよ」
こちらに目を向けた山田は、驚いたように立ち上がる。
関 「うん。知ってる。というか今のやりとり見てなかったんだ。というか気づいてなかったんだ。凄いね君…。マイペースすぎるよね。うん」
山田 「え? 何がですか??」
古谷 「もういいわよ山田。これ以上ややこしくしないで。大谷先生から卑怯なやり方で逃げたくせに!」
山田 「別に逃げたわけじゃないですよ! 効率を考えた結果です。それに卑怯でもないです!定時は過ぎてたわけですし、イヤホンして業務するのも集中するための正当な手段です」
古谷 「だってさ、ゆきちゃん。どう思う?」
桜木 「ーーあれは完全に逃げてました。効率とか考える前に本能で逃げてる感じでした」
山田 「桜木先生まで! 違いますよぉ…」
古谷 「私も見てたけど、ありゃないね。そんな感じでした関先生」
関 「へーそうなんだぁ…」
冷ややかな目で山田を見る3人。
山田 「なんで関先生まで…?」
桜木 「もういいんで、とりあえず山田先生! この紅茶飲んでみてくださいよ。普段飲んでるやつと何が違うか考えてみて下さい??」
山田 「紅茶?? 自分は普段紅茶飲まないんで味とか全然わかんないんですけどそれでもいいですか??」
桜木 「も~そんなこと分かってます! いいから飲んでください! そして山田先生もこっち側に来て下さい!」
山田 「え? なんですか? こっち側?? ん?」
何を言ってるのか分からない様子の山田。それに対し桜木は「いいから」と紅茶を飲ませようとする。
向かい合わせで並んでいる職員室の机。桜木の机に対し山田の机は対角線上にある。そのため桜木は机を回って山田の元へ届けようとする。その時、
桜木 「ーーあ」
桜木の小さな声と共にティーカップの紅茶は床に飛び散る。
幸いにも人にはかからず、机の書類にかかることもなかった。
桜木 「ご、ごめんなさい」
申し訳なさそうに謝る桜木。
彼女。桜木雪はポンコツなのである。
古谷 「ゆきちゃん大丈夫!? いまぞうきん持ってくるからね!! 直ぐ拭くから!」
関 「あ~私の自信作がぁ…!!」
山田 「?? よ、よく分からないですけど、誰にもかからなくてとりあえず良かったです! 桜木先生大丈夫ですか」
関 「わ、私の数時間がぁ…」
桜木 「ごめんなさいぃぃぃ」
関 「あぁ…あ、あぁぁぁ…!」
古谷 「関先生こんな所でかがまないでください! 拭きにくいです!! 紅茶なんてまた作れば良いじゃいいですか! とりあえず拭きましょ!?」
関は余程の自信作であったのか職員室の床にかがみ込む。
かがみ込む関を横に紅茶を拭き始める桃花。
桜木 「いつも仕事でもミスばっかだし。いつもいつも私のせいで皆さんに迷惑かけちゃってぇぇ…」
古谷 「もーーゆきちゃんもいいから!! これは仕事とか関係ないし! いいから一端拭こ!?!? ね!!!」
桜木 「ごめんなさいぃぃ!」
焦った様子でペコペコと頭を下げる桜木。桃花は桜木をなだめながら床を拭き続ける。そしてその様子をボーッと見ている山田。
古谷 「ほら! 山田も突っ立ってないで拭きなさい!!」
山田 「え、あぁ…うん!!」
状況が分からず困惑する山田だったが、桃花からぞうきんを受け取ると紅茶を拭き始めた。
こうなるなら紅茶なんて作らなきゃよかった……。
そう思う桃花なのであった。