7.お嬢様は決意する
いよいよ大詰め。
バールグラウ子爵家としての全ての書類や手続きをウィステリアに押し付けてきたエーニオ。
結婚以来、一枚たりとも書類に手をつけていないのだから、使用人ですら見下げ果てたものである。
領地経営に関わることもなく、かといって宅内の人事管理をやるわけでもない。
そもそもほとんど家にいないので、家令も執事もエーニオには一切仕事を持っていかなかった。
無論本来であれば、共に運営に関わるべき位置にいる。
だがやる気の無い無能に任せたところで、足を引っ張るか、どこかで資金をちょろまかすだけなのも分かっていた。
だからウィステリアも、彼を教育することは諦めていた。
ウィステリアが亡くなってから初めて王都邸に帰宅した日も、自分と愛人が結婚するための書類すらアルカーシアに任せた愚か者である。
前妻との娘がなぜ種馬と不貞相手との再婚手続きをすると思っているのか、考える脳すらない。
アルカーシアが素直に手続きを引き受けたのは、エーニオに戸籍を触らせないためだ。
自宅に戻った時点のエーニオは「先代女子爵唯一の実子にしてたった一人の次期子爵たるアルカーシアの実父」であることにより、一応まだバールグラウ家に籍があった。
当然ながら貴族籍にも入っている。
エーニオの予定では自分の籍に、愛人ヘレネとその娘アイリーンを入れさせ、二人を貴族にしたつもりだった。
そのためウィステリア亡き後、自分が子爵家当主になったと思い込んでいたし、愛人改め後妻は子爵夫人に、不貞の娘は子爵令嬢になったと信じ込んでいた。
それにより、自由になる金は自分の恩給と支度金だけでなく、ヘレネとアイリーンの分も支給され、これまでの三倍派手に暮らせる予定でいた。
実際、家令から毎年渡される金貨袋には三人分相当の額が入っていた。
金のことしか考えていないので、そこに矛盾がない以上、何も疑問に思わなかった。
その間、面倒な社交界のパーティーも、別邸に届く招待状が自分宛ではないことに気づかない。
腹の探りあいや商談もしなければいけない、かったるいパーティーに出たがらないからだ。
ヘレネもアイリーンも、公爵夫人や公爵令嬢にでもなったならともかく、社交界では出費と苦労ばかり多い下級貴族の名義でパーティーに出たいとは思わなかった。
せっかく平民から貴族になれたのだからチヤホヤされたいのであって、自分が高位貴族をチヤホヤする側に回らないといけないのであれば出たくない、と素直に思っていた。
だから彼らには、気づくチャンスはなかった。
――真実は、三人以外に共有されている。
アルカーシアは、バールグラウ家の籍からエーニオを抜き、平民であるヘレネの籍に入れた。
この時点でエーニオは、バールグラウ家の人間ではなくなった。
ただし辛うじて「現在は未成年である次期当主の、実父である親権者」の立場で、貴族籍に名前が残る。
所属家を持たない暫定貴族扱いではあるが、ここではまだギリギリ平民ではない。
アルカーシアが成人すると親権者という地位が消滅するため、彼女が十六歳の誕生日を迎えた日にエーニオは平民落ちした。
もちろん、ヘレネとアイリーンは最初からずっと平民のままだ。
その事実については、入籍手続きを取った日にアルカーシアからグジ男爵家に伝えてあったので、仮にヘレネと離婚したところで戻る家はない。
平民と結婚するというのはそういうことだ。
グジ男爵家は、アルカーシアの勧めに従い『男爵家の籍に、エーニオという次男がいた事実』すらも抹消した。
これについては、本当の意味での抹消はできないが、内務局戸籍課に抹消を申請した事実が記録される。
死んで戸籍から消えた者や、婚姻に伴う養子縁組により戸籍から抜けた者は、名前に線が引かれて理由が添えられるが、在籍事実の抹消というのは『最初から生まれてなかったことにする』処置のため、不可視魔法がかかる。
当主の秘儀を済ませた者以外は見ることができなくなる、条件型隠蔽魔法の一種である。
この処置自体は、平民との結婚を望んだために廃嫡された子女の処理によく使われるため、そう珍しいものでもない。
新聞に取り上げられればスキャンダル不可避の親族を切り離すために使われる、貴族の常套手段である。
次期子爵からそれを勧められた男爵家としては「それを切り出されるほどウチの次男は馬鹿だったのか、申し訳ない……」とお通夜ムードで従った。
ここですんなり従わなかったら、自分たちがエーニオをけしかけていた、積極的に関与して利益を得ていたと疑われてしまう。
その疑惑を手続きひとつで晴らすことができるならと、喜んで次男を売ったものである。それが貴族というものだ。
これにより、思い上がったエーニオが何をしようが、バールグラウ家はもちろんグジ家にも何の咎もない。
仮に平民落ちしてから、貴族であるアルカーシアに手を上げたとしても、どの貴族家にも属さないのだから連座する家はない。
あえて言うならヘレネの実家くらいのものであるが、平民の命など元々軽い。
なにより、ヘレネとアイリーン自身がアルカーシアを虐げていたので、エーニオの連座どころではなく本人たちに極刑レベルの罪があるから、その実家が九族皆殺しになろうと問題はない。
ヘレネの実家からすれば、娘を弄んで子供まで作らせ、一応いい生活はさせてくれていたお貴族様が、妻の死をきっかけに幾ばくかの財産を持ち込んで、娘とついに結婚してくれたのである。
クズであるとは思っていたが、金を運んでくれる上で正式に結婚するなら歓迎であった。
もちろんその財産というのは、アルカーシアが用意した代理人が実家に持っていっただけである。
この件――貴族が平民と結婚すること――については、貴族的には不祥事になるし、お宅も『英雄』が死んですぐ自分の娘が再婚相手になったんじゃ人聞きが悪いでしょうから、と箝口令を兼ねて金を握らせた形になる。
この辺りはさすがに子どもに思い付けることではなく、家令や執事がたくさん助言してくれたものだ。
そうして外堀を埋め、出るはずのない恩給と支度金の相当額を、あえて毎年三人分渡した。
領民から集めた税で豪遊させるために渡すのは気が引けたが、理由はある。
エーニオが真実に気づけば、今度こそ取り返しのつかない逆上でアルカーシアに命の危機があること。
金で安全をコントロール出来るならそうしておいた方が得策だと考えたのだ。
これには「子供は悪気なく嘘をつくので、未成年の証言は取り合わない」という司法局の原則も影響した。
アルカーシアがこの時点でヘレネたちへの無礼討ちを申請しても、その正当性を説明する段階で「でも子供の言うことだからなぁ」という扱いをされてしまう。
平民がわたくしにこんな失礼なことを! と当主代行が説明しても、それが未成年であれば絶対に許可が降りない。
なんなら親権者であるエーニオへ「子供が変なスキャンダル起こさないように、よく教育してくださいね」と『善意で』報告されてしまう。
当然、そんなことをしたのが伝わったらアルカーシアの命はない。
法に欠陥があるとしか言えないが、法を作る人間はマトモな家で育った平均的な感性をしているから、ここまでのクズは想定できないので仕方ないと言えば仕方ない。
クズが法律を作る側に回ることはないので、こればかりは構造的にどうにもできないことであった。
ともあれ、エーニオは仕事を一切しない。
そのくせ使用人が多く豪華な邸で暮らしたがる。
王都邸には当主の仕事部屋である執務室があったのに、偉い気分になりたいからというだけで仕事をしないエーニオが執務室にきてふんぞり返るのである。真実ただのムダであった。
それでも、アルカーシアが仕事道具と執事と侍女の一部を引き連れて分邸に引っ越すのを認めたのは、自分は仕事をしたくないためだ。
仕事は誰かがしないと、子爵家として恩給を貰う資格がなくなるので、贅沢ができなくて困る。
毎年貰っている個人支度金は、子爵位と子爵領に伴う権利財産なのだから。
領主の仕事など何も知らないエーニオでもその程度は分かるだろう、と思っていたから、アルカーシアも堂々と人員や書類を持ち出せたのだ。
だからエーニオには、書類が分からない。
特にあの不貞の娘を嫡子長女が籍に入れてくれるわけがない、ということすら気付かない。
アイリーンは、入婿の種馬と愛人の平民が親なのだから、子爵家の血が一滴も入っていない娘である。
そんなモノが『バールグラウ子爵令嬢』を名乗るのは法に触れる。
青い血というのは、正しく継がれていることの正当性が保証されるために、婚姻関係や養子関係が管理されているのだから。
中興の祖にお引き立て頂いて騎士爵から子爵家にまでなれた由緒あるバールグラウ家に、汚らわしい不純物を入れるわけにはいかない。
そんなことさえ分かっていないのだ。
仮にも本人は男爵家の子供だったはずなのだけど。
どうせ自分が継げるわけがないからと、知識を得ず何もかもをいい加減にこなしてきたのだろう……とアルカーシアは考える。
せめて長男を陥れて自分が当主になる! くらいの気骨があれば、真面目に勉強もできたかもしれない。
そんなことすらしない骨無し野郎であった。
(どうせ私の誕生日どころか年齢すら、覚えてないかもしれないわ)
何を隠そう、先月アルカーシアは十六歳になったのだ。この国で爵位を継げる条件を満たしている。
ので、子爵位を継承した。
つまりエーニオは貴族で在れる唯一の公的立場であった『次期バールグラウ子爵ご尊父』の立場を失い、平民落ちした。
だがそれに気付いて殴り込んでくる様子もなかった。一応、分邸の護衛を増やして警戒はしていたのに、拍子抜けであった。
自分が養子縁組されていないことも気付かず、子爵様だと思い込んだまま、何一つ現実を確認していないことは誰の目にも明らかだった。
襲爵の公式な祝いは、年が変わって最初の式典で、前年の襲爵分が一斉に行われる。これは新聞にも掲載される。
アルカーシアが何もしなければ、式典の記事を書いた新聞でようやく十六歳になったことに気づくとか、そんなところだろう。
酒浸りの脳にまだ新聞を読む知性が残っていればだが。
先月までの、アルカーシアの公的な立場は『バールグラウ子爵令嬢にして唯一正当なる子爵家当主代行』。
実に長い、三年半にも及ぶ当主代行期間であった。
そう、やっと、『代行』の文字が取れたのだ。
長い長い雌伏の時。
あと四年早く生まれていればしなくて済んだ苦労。
自分のせいではないけれど、だからってどうにもできない、年齢の壁。
(ずっと、我慢してきましたわ)
(わたくしを愛さないアレらが、本邸に住むことを許してきましたもの)
(けど、それももう終わりですわ)
(わたくしは、気づいてしまったのだから。)
当主権限で、あの種馬と愛人と不貞の娘を追放しよう。
それから、罪の告発を。
未成年の内は何を言っても告発に有効性がなかったけど。
成年になれば、証言に正当性が認められるから。
どうせなら『貴族の屋敷に不法滞在していた平民』『貴族を虐げた平民』として、重罪で突き出すのがいい。
前者はムチ打ちと領地追放で済むけれど、後者は極刑になる。
平民が貴族を虐げるなんて、そんなことを許せば社会体制が崩壊する。社会体制を揺るがすことは王家への反逆であり、ゆえに大逆罪と等しく極刑しかあり得ない。
でも、国法に制裁させるだけではアルカーシアの気が済まない。
幸いこの国では、国法に問うまでもないこまごまとしたことは、領主裁判権を使える。
つまり子爵領の領主であるアルカーシアの判断で、余罪を追及していい。
これはかなり強力な権限だ。
具体的には「あの時の態度は無礼でしたわ」とか「平民のくせに、親権者の前で立場の弱い私に無理やり頷かせて、お母様の遺品を奪いましたわよね」とか、そういったことを。
領主が被害を訴えて、
領主が被害届を受領して、
領主が起訴して、
領主が有罪の判断をして、
領主が量刑を決めて良い。
身も蓋もない言い方をすれば、領地貴族家の当主には、私的制裁が許される。
もちろんなんの罪もない領民にそんなことをすれば反乱は必死だから、普通はやらない。
(でも、平民が貴族家を乗っ取っている現状は、普通ではないものね?)
やっちゃいましょう。今日から。
意気揚々と席を立つ。
託宣の女神たちに何かお礼がしたいけど、通りすがりの貴族から急にケーキを奢られたってビックリするだろう。
彼女は確かハンナ嬢と言ってただろうか。
役所勤めで法に携わる部署のようだから、子爵家程度の力でも、法案提出の力添えくらいしてあげられるだろう。
パトリシアにハンナ嬢の身元を詳しく調べるよう頼み、アルカーシアは痛む足を急かして分邸に戻った。
生家すらも種馬を見捨てるよう、しっかり手を回してある子爵令嬢。
優秀なブレーンが揃っております。
関係者一同、事情は知っていて「Xデーはアルカーシア嬢の成人した日か…」と思っていたから、当日になにもなくてずっこけたかもしれない。
まぁでも納税シーズンは忙しいから仕方ないね!