7話【屋敷での生活】
「よっし、だいぶ調子出てきたかな?」
そう言って体を伸ばすハルト。
ハルトが屋敷に来てから10日ほど、ハルトの腹部の傷はもう完治しかけていた。
前屈姿勢になっても痛みは無く、飛んだり跳ねたりも問題はない。復調したと言って差し支えない状態となった。
この10日間、ハルトはこの屋敷での生活に慣れる事に追われていた。
正確には、異世界での生活に適応するために必死で毎日を生きていた。
時計は読めるようになったが文字は相変わらず、ハルトにはさっぱり理解ができない。
なので、まず文字を習得しようとしたのだが、屋敷の構造や、生活に必要な設備の場所などを覚えるのも並行しているため、成果は芳しくない。
そもそも貴族の家に「はじめてのもじ」、というようなコンセプトの本があるわけが無いので、現状暇な時にティーゴに教わっているだけである。
そのティーゴの部屋に立ち入るのにも面倒がある上、客が来るようになって嬉しいのか、立ち入る毎に前回と同じ出口は使えないようになっている。
ヴランといいティーゴといい、タチが悪いことこの上ない。
救いなのは、二人とも話はちゃんと通じることか。実際、ティーゴも文字に関しては、きちんと分かりやすく教えてくれる。
そのおかげで分かったことと言えば、この世界の文字は日本語より英語に近いということだ。
これは英語が苦手なハルトにとっては悲報となったが、全く未知の文法では無い、ということが分かっただけ重畳だ。
文字の理解についてはその程度だが、毎日徘徊している成果か、トイレや食堂、風呂場などの必要最低限の設備の場所は把握できた。
ルミリからもらった見取り図を見た時点で判明していたことだが、この家のトイレは10数個存在する。
家の規模からしたら当然だが、一つの家にあるトイレの数としては異常である。
また、食堂の位置は覚えたが、一堂に会して食事をする、というわけではなかった。
食事の時間になると、使用人らしき人がハルトの部屋に食事を持ってきてくれるのだ。
なんでも、食堂を使うのは他の貴族をもてなしたり、何か祝い事があった時ぐらいだそうだ。
ティーゴもヴランも仕事があるので、わざわざ作業を止めるのも、という点で言えば仕方のないことだろう。
それと、この世界の食事は、当たり前というべきか、日本食とはかけ離れている。
サクサクしたパンらしきモノ、程よく暖かいスープっぽいモノ、彩りを添えてくれるサラダであろうモノ。
色々な食事が代わる代わる出てくる。
今は食べたことのない新鮮な味に舌鼓を打っているが、これが長く続けばハルトの舌が日本食の味を求めて暴走してしまうかもしれない。
近いうちにこちらに日本食を持ち込むのも良いかもしれない。
味噌とかあるのだろうか。
色々と知らないことばかりだが、なんだかんだで異世界の生活を楽しんでいるハルト。
この10日で、この屋敷での生活も慣れてきたな、ハルトがそう思った時。
「ハルト、入っても大丈夫?」
コンコン、と2回ノックの音がした後、そんな声が聞こえてきた。
ルミリの声だ。相変わらず、聞くだけで心が安らぐな。俺の心の安定剤だ。
「大丈夫、入っていいよ」
「失礼しまーす」
ルミリはこの屋敷の主人なのだから、失礼する必要はないのだが、礼儀正しいな。
だが、語尾を伸ばしてしまうところに可愛げがある。
ガチャリと音を立てて、ルミリが部屋に入ってくる。
「ハルト、怪我の調子はどう?」
「大丈夫大丈夫、ほれ」
そう言って、腰を回して健在ぶりをアピールする。
「良かった、思ったより治りが早かったね」
「毎日ルミリが心配しに来てくれるから、もうちょっと怪我しててもよかったんだけどな」
「もう、調子いいんだから」
実際のところは、毎日のように「大丈夫?」
「何かできることある?」「買ってきて欲しいものとかある?」と言われて、何だか申し訳なさでいっぱいだった。
なので早く治ってホッとしている。何か買いに行って、ルミリがまた変な事に巻き込まれるのも怖いし。
「元気になったばかりで悪いんだけど、側近さんにお仕事だよ。」
「お、来たか初仕事!」
ようやくルミリの役に立てる時が来た。
とは言っても、異世界特典能力の未来視も、制御ができていない。そもそもこの10日間、役に立つタイミングで発動したことがほぼない。
だが、一つ分かったこともある。
例えば、自分が昼頃に廊下を歩いている未来を朝方に見る事もあれば、食事中、数秒後に手を滑らせて服にスープをこぼす未来が見えて、見事未来を捻じ曲げてみせた事もある。
つまり、見える未来がどれだけ先のものかは決まっていないらしい。
発動タイミングも、見えるのが近い未来か遠い未来かもわからない。
せめて重要なことは確実にわかるようにしてくれると嬉しいのだが…
「んで、俺の初仕事はどんなの?貴族のパーティにでも行く?もしくは危険な旅に俺と二人で珍道中?それとも上等かましてくれた犯人に殴り込みかける?」
「いや、お買い物だよ」
「ただの日常の1ページ!」
「そんなに頻繁に事件が起きたりしないよ…」
また怪我をしたい、というわけではないが、入れた気合いの行き場が無くなってしまった。
「ま、ルミリと二人でデートってんなら悪くないか。ささ、行きやしょう」
「でえと?」
「デートってのはね、好きな相手と二人でお出かけすることだよ。デート中に起きる出来事は恋の女神のみが知っているのさ…ああっダメ、ルミリ、そんな大胆な…」
「早く着替えて玄関まで来てねー」
「あれ!?初めから聞いてなかったよね今!」
妄想の中でルミリとキャッキャウフフしていたら、現実のルミリはドアを開けて部屋から出ようとしていた。
ルミリのハルトへの対応も、段々と塩になってきた。
構ってもらえなくて寂しい気持ちもあるが、熟年夫婦みたいな感じでこれも悪くない…ルミリの反応的に嫌われてはないらしいので、これからもアタックし続けよう。
さて、俺の着替えについてだが、数日前にルミリから執事服のようなものを受け取っている。
もらった際に一度着てみると、なんとびっくりサイズがピッタリだった。
まさかとルミリが採寸を?と思い、「いつの間に採寸したんだ?」と聞いたところ、
「ボクじゃなくて、ヴランが測ったんだよ。キミが寝てる間にね」
期待をバッサリ切り捨てる、げんなりする答えが返ってきた。
言われた瞬間の体のゾワゾワは忘れられない。
本当は、ルミリが夜な夜な部屋に忍び込んで、俺の体をまさぐって採寸していた、というのを望んでいたのだが…
何でも、服を仕立ててくれたのもヴランらしい。
人形師なのだから服も作れて不思議はないが、なぜ寝てる間に採寸を?とか、この服変な効果練り込まれてないよな?とか、採寸した時に体に変な事されてないよな?とか、喉に押し寄せてくる言葉が多すぎて、その場では
「ヴランアリガトウ」
と、その場にいない相手への感謝をカタコトで述べるのみとなってしまった。
今度きちんと本人に礼を言うとしよう。
礼と共に、何か変なものを仕掛けていないかも問いただそう。
と、そんな事を考えているうちに、着替えが終わった。
ルミリの側近として付き従うにあたって、身なりを整えるのは当然なのだが、やはりどうも落ち着かない。
日本じゃこんなもの着る機会そうそうあるものではないし、仕方がないか。
「よし、じゃあ向かうか」
呟いて、部屋の外へ出て歩みを進める。
俺のあてがわれた部屋は玄関からそう遠くない場所にある。
怪我をしていたので、とりあえず近くの空いている部屋で休ませた方が良い、と考えてくれたのだろう。
その心優しい配慮のおかげで、外出、帰宅するのに無駄に歩く事がなくなるので地味に嬉しい。疲れてる時にあの廊下を歩くというのは、考えるのも億劫だ。
「お、来たね。じゃあ行こっか!」
玄関にたどり着くと、ルミリが笑みを浮かべて出迎えてくれる。俺は「承知しました、ルミリ様」とふざけつつ、この世界に来て初めてきちんと外を歩くという事実に胸を躍らせる。
俺の発言を受け、ため息をつくルミリの横に並んで、ドアへ向かって歩く。
玄関のドアを開き、吹き込んでくる風の匂いを感じつつ。
屋敷の外へと、一歩目を踏み出した。