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ドアマットヒロインの妹の場合

 アントニーの母親は王都の仕立て屋(ブティック)で針子の仕事をしている。もちろん母娘(おやこ)ともに平民だが、二人は王都の一軒家に住んでいる。母親は腕の良い針子だが、その稼ぎでは家賃は払えない。家賃を払っているのは普段は同居していない父親だった。

 父親は普段は家にはいないが、ときどき家を訪れてはアントニーを可愛がってくれた。家に一泊すると、またどこかへ行く。父親が普段どこに住んでいるのか、アントニーは知らなかった。

 母親に父親のことを聞いても、母親はほとんど答えてくれなかった。ただ母親がこう言ったことは憶えていた。

「お父さんは伯爵様なのよ。今はまだ無理だけど、私たちもいずれ貴族になれるのよ」


 父親はおよそ十日から一ヵ月に一度のペースで二人の家を訪れていた。だが二ヵ月ほど訪れないことがあった。アントニーはそのことを母親に訊ねてみたが、母親も何も知らないようだった。

 二ヵ月ぶりに訪れた父親は、これまで通りアントニーを可愛がってくれた。久しぶりの父親にはしゃいだアントニーは遊び疲れて、いつもより早めに寝床に入って眠りについた。そのせいか、夜中に目が覚めてしまった。

 寝床から上半身が起き上がったアントニーは、扉の隙間から光が漏れているのに気づいた。両親はまだ眠っていないらしい。好奇心にかられて扉に近づくと、両親の話し声が聞こえる。アントニーは扉の隙間に耳を当てて盗み聞きを始めた。


「実は、アンソニアが死んだ」

「奥様が? 良かった!」

「良かっただと!?」

「ええ、これであなたは私と再婚できるじゃない。私は伯爵夫人、アニーは伯爵令嬢になれるのよ!」

「はあ……何を勘違いしている。そんなわけないだろう」

「えっ? まさか、再婚しないの? 私たちを捨てるつもり?」

「捨てるつもりはない。私と一緒にヘイスティング領に来てほしい」

「ヘイスティング領?」

「辺境伯家の領地だ。王都から五千ジスタンス離れている、ガイセン王国との国境にある」

「田舎じゃない!」

「確かに田舎だ。だが住めば都というだろう」

「そんなの嘘よ。あなただって望んでいないんでしょう。顔を見れば分かるわ」

「他に選択肢がないんだ」

「……」

「ヘイスティング領に来てくれるのなら、おまえの(ブティック)を持たせてやる」

「店って……再婚してくれないの?」

「再婚はできない」

「何故よっ!」

「俺は婿養(*1)じゃない、入婿(*2)なんだっ!」

 アントニーは今まで聞いたことがない父親の大声に驚いた。どうやら扉の向こうの母親もそうらしい。

「俺は貧乏な子爵家の次男で、文官としての才能を買われてヘイスティング辺境伯家に入婿で入った。辺境伯家の正当な血筋はアンソニアとアンソニアが産んだアイリーンで、俺には辺境伯家の家督を継ぐ資格がないんだ」

「でも自分のことを伯爵だって言っていたじゃない」

「それは代理で名乗っていただけだ。ガイセン王国は男尊女卑の国で、国境を守る辺境伯が女伯では侮られるから、対外的にはそういうことにしておいただけだ。貴族籍上は辺境伯はアンソニアだったんだ」

「でも奥様が亡くなったのなら……」

「同じことを何度も言わせないでくれ。次の辺境伯は娘のアイリーンだ。俺は引き続き代理で名乗るだけだ」

「……」

「おまえと再婚するためには、辺境伯家との姻族関係を終(*3)しなければならない。そうすれば俺は実家に戻ることになるが、子爵の爵位はすでに兄が継いでいるから、俺は平民になって実家を出なければならない。そうなれば仕事も収入も失う。そんな俺と再婚してどうする? おまえが針子の仕事で俺を養ってくれるのか?」

「なんてこと言うのよ!」

「これが現実なんだ。受け入れてくれ」

 そこからしばらく沈黙が続いたが、扉の向こうの緊張感はまだ子供のアントニーにも十分感じられた。

「アンソニアがいなくなった分、俺はヘイスティング領の統治に力を入れなければならない。王都には年に一回来れるかどうかだろう。だから一緒にヘイスティング領に来てくれ」

「……本当にお店を持たせてくれるの?」

「約束する。だから一緒に来てくれ」

「……今のお店と相談してみてるから、すこし待って」


 母親とアントニーは父親について辺境の領地へ引っ越した。父親は約束通り店舗となる建物と当面の運営資金を母親に与えたものの、ブティックの経営は苦労の連続だった。

 まず従業員が集まらない。針子の求人を出せばそれなりの人数は集まるのだが、母親の期待する水準の人材はなかなか見つからなかった。

 次に裁縫道具や材料となる布や糸の調達がままならなかった。領内にはそれらの産地はなく、領外から取り寄せなければならなかった。そのため時間とコストがかかった。

 だが何より需要がない。主な顧客は貴族や大店の商人などの富裕層だが、辺境ではその人数が少ない。顧客を増やすために中間層の地主向けに安めの商品も作ったが、それらの商品は利益率が低く、手間がかかる割には儲からなかった。

 ヘイスティング領に引っ越してから前世の記憶を取り戻したアントニーは、母親を助けるため色々と知恵を出した。その一つに古着のリサイクルショップがあった。

 母親は最初は反対した。仕立て屋が古着屋の真似なんかするな、という態度だった。だがはアントニーは仕立て屋がやるからこそ利点があると粘り強く説得した。当時のブティックは十分な注文が取れず、せっかく雇った針子を遊ばせてしまうことが度々あり、深刻な問題になっていた。なら手の空いている針子に、仕入れた古着の修繕をさせればいい。古着の中にはボタンが取れたものやかぎ裂きができたものも混じっている。他の古着屋は仕入れたものをそのまま売っているだけだから、買った客がそれらを直さなければならない。自分たちのリサイクルショップでは修繕済みであることをアピールすれば、他の古着屋に対して優位に立てる。

 また古着にちょっとした刺繍も施すことも提案した。ブティックにとっては腕が未熟な針子たちに刺繍の練習をさせることができるし、リサイクルショップにとっては商品に付加価値をつけることができる。

 アントニーの説得に応じて母親はリサイクルショップを認めた。ブティックの店舗の一部をリサイクルショップに割く代わりに、リサイクルショップの経営はアントニーが責任を持つということで落ち着いた。

 店の経営が安定軌道に乗るまで十年かかった。その間に父親は亡くなり、姉の女伯のアイリーンは外から婿を迎えて表向きの辺境伯に据えた。こうしてアントニーと辺境伯家の関係は、完全に消滅したかに見えた。

 長年の針子の仕事による酷使と加齢によって視力が衰えたことを嘆く母親を労りながら、アントニーは店の経営に奔走した。そうした忙しい日々を送る中、突然事件は起きた。


 アントニーがバックヤードで古着の在庫を確認していたら、店番をしていた店員が慌てふためいて飛び込んできた。

「副店長、大変です!」

 貴族相手の商売は利幅も大きいがリスクも大きい。なにか重大なトラブルでも発生したのかと不安になりながら、アントニーは店員に訊いた。

「落ち着いて。何があったの?」

「りょ、領主様がご来店になってます!」

 領主が店舗を直接訪れることは滅多にない。欲しいものがあれば館に商人を呼びつける。ブティックはこれまで領主の服を何着か作ってきたが、館には従業員を派遣して、アントニーや母親が館を訪ねたことはない。母親は高齢を理由に、アントニーはリサイクルショップの経営者でブティックとは無関係なことを理由にしてきた。もちろん本当の理由は別にある。父親の存命中は父親がそれを嫌ったからで、父親の死後は後盾なしで領主と会うのが怖かったからだ。

 だが来てしまったものはどうしようもない。アントニーは大慌てで身繕いをすると、店舗に向かった。

 アントニーは領主とは初対面だが、すぐに分かった。父親と髪の色が同じだったし、なにより着ているものが一人だけ違う。

「いらっしゃいませ、領主様」

「あなたが店長……にしては若いわね」

「店長の娘の副店長です」

「名前は?」

「アントニーと申します」

「そう、あなたがアントニーなのね」

 領主が自分の名前を知っている? アントニーの背中に冷や汗が流れる。

「新年の王都の夜会で着るドレスの注文をしたいの。落ち着いて商談ができる場所はないかしら」

「ご案内いたします」

 アントニーは領主と従者を一番高級な商談用の部屋に案内した。領主は迷わず一番高級な椅子に座る。椅子を押してそれをアシストした従者は、そのまま領主の後ろに立った。

「では店長を呼んで参ります」

「その必要はないわ。私はアニーと話がしたいの」

 アントニーの心臓が止まりそうになった。

「とりあえず扉を閉めてもらえるかしら」

 アントニーは言われるまま扉を閉めた。中の会話が外に漏れないようにと配慮して造られた扉は分厚くて重かった。

 アントニーが着席するのを待たず、領主は話しかけた。

「そんなに怖がらなくていいわよ。私たち姉妹じゃない」

 アントニーの冷や汗が止まらない。

「……なんのことでしょう」

「とぼけなくていいわよ。全部知っているから。今さらあなたたちをどうこうするつもりはない。あなたたちだって辺境伯家の乗っ取りはとっくに諦めているでしょ?」

「そのような大それたことは考えたこともありません」

「あら、そう? でもあなたの母親はどうだったかしら。父に説得されて諦めたはずだけど」

 アントニーの脳裏に、あの夜の盗み聞きの記憶がフラッシュバックする。

「……それはいつ頃の話でしょうか?」

「ふーん。あなたは子供だったから、知らなくても不思議じゃないわね」

 アイリーンが指を軽く動かすと、後ろにいた従者が最近王都で流行りだした紙巻煙草を差し出した。アイリーンがそれを受け取って口にくわえると、従者が煙草に火をつけた。

 アイリーンは軽く息を吸ってから、煙草を口から手に持ち替えて息を吐く。その息が白い。

「あなたたちがヘイスティング領に来たのは何年前かしら」

「十年前です」

「十年で店をここまで大きくしたの。大したものだわ」

「恐れ入ります」

「ヘイスティング領の経済のため、領民の生活のため、これからも頑張ってほしいわ」

「ありがとうございます」

「でも今日は、領主ではなく姉としてここに来たの」

「……は、はい」

「この世でたった一人の妹だもの。一度は顔ぐらい見ておかないと、死ぬときに後悔するかもしれないと思ってね」

「……左様ですか」

「夜会のドレスの話は本当よ。後で都合を知らせるから、採寸のための人を寄越して」

「かしこまりました」

 アイリーンは立ち上がると、半分以上残っていた煙草を床に捨てた。従者がそれを踏んで火を消す。

「先触れもなしに来て迷惑をかけたから、見送りはいいわ」

 着席する機会を与えられず、立ったままだったアントニーは深くお辞儀をした。アイリーンは従者が開けた扉を通って部屋を出る。扉が再び閉まる重々しい音を聞いてから、アントニーは頭を上げた。

 アイリーンは自分は姉だと言ったが、アントニーに対して肉親の情を持っていないことは明らかだった。あれは妹に会いに来たというより、動物園にパンダを見に来た人間の態度だとアントニーは思った。もっとも肉親の情がないのはアントニーも同じだった。二人の間には貴族と平民、領主と領民という他人の関係しか存在しない。

 アントニーの視界に踏まれた煙草が映った。興味が湧けば手を出してみるが、気に入らなければさっさと捨てる。たぶん姉にとって(じぶん)はそういう存在なのだろう。なんだ、ドアマット(ふみつけられるの)は私の方じゃないか。

*1 結婚と同時に養子縁組を行ったケース。妻と同じ相続権が与えられる。

*2 結婚のみを行って妻の家の姓を名乗るケース。相続権は与えられない。

*3 いわゆる『籍を抜く』手続き。

いずれも小説独自の定義です。

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