第6話 ピヨピヨ
5月8日
朝6時
ピヨピヨ。ピヨピヨ。病棟内に小鳥のさえずりと朝の音楽が流れる。
(起床時間ね。)
夜勤の看護師さんがやってきた。
「おはようございます。点滴しますねー。森林さんは、8時半になったら5階西病棟の眼科診察室に行ってくださいね。」
「わかりました。」
今、眼科の病棟は満床で、私はベッドが空いていた整形外科の病棟にとりあえず入れてもらえたということのようだった。そのため、教授回診や朝の診察がある日には、入院患者用の診察室がある眼科病棟まで出張しないといけないのだ。
8時30分になった。
「5階へいってきまーす」
ナースステーションに声をかけて、自動ドアの外へ行き、エレベーターで5階へ降りた。
(診察室ってどこだ?)
5西病棟に入り左へ進み、右へ曲がる。3つほど病室の前を通り、もう一度右へ曲がると、診察室があった。薄暗い診察室へ入ると、左側に眼帯をした中年女性の患者さんが待っていた。膝が痛そうでもなく、三角巾をつけたりもしていない。
(これぞ私の仲間だ!)と感じた。
入って右側の椅子に座るといかにも医者らしい男性に名前を聞かれた。薄暗い診察室には医者が4人いた。若くて美しいキラキラした女医さんが私のところへ来た。
「主治医になります。渡辺です」
(おー、昨日会った指導医の女医さんですね。)
「よろしくお願いします」
「はいでは、まっすぐ前見てください。上見てください。右上、右、右下、下、左下、左、左上。。。。まずは2週間点滴になりますね」
診察は5分ほどで終わり、整形外科の病棟へ戻った。
(しばらく入院になりそうだから、ご近所にも連絡しておこう。)
ご近所ママLINEグループに、目の病気で入院したことを送ると、早速ものすごくたくさん反応がきた。
「彩音ちゃん、だいじょうぶですか?何かやれることがあれば言ってください!」
「登校班の送り当番、代わりにやっておきます!」
(皆さん、本当にありがとうございます。)
本当にありがたかった。
9時 検温と血圧測定。
14時 「点滴しますねー」と看護師さん
15時 深志病院の後輩である石坂さんが早速お見舞いに来てくれた。必要なものはありますか?と事前に聞いてくれたので、
「安くていいから化粧水と乳液をたっぷりお願いします」
と頼んでいた。病院というのはとても乾燥している。顔がカサカサだ。もっと言うと全身カサカサだ。踵はざらざらになっているし、前腕や下腿は白くなっている。・・・・とこんな時も医療従事者っぽい名前で身体部位を呼んでしまうのが性だ。
足りない物ばかりだったので本当に助かった。気を利かせて、お風呂や売店に行くときに使えそうなトートバック、ベッド柵にかけられるS字フック、私が大好きな旅行の雑誌を持ってきてくれた。
石坂さんが持ってきた旅行雑誌。本文の小さな文字は左目では今はもう全く読めない。中サイズの文字もあやしい。表紙の大文字はまだ見えている。
18時 夕ご飯。昨日、売店で買ってきたお箸とスプーンでいただく。深志病院では病院食にお箸やスプーンがついていたので、入院の荷物にお箸とスプーンがいるとは思わなかった。それはともかく、ごはんはおいしい。何よりだ。本当によかった。
22時 「点滴しますねー」
1日の最後の点滴は、消灯後だった。
夜、眠れないので、点滴棒を押しながら静まり返った病棟の廊下に出てみた。右目を閉じてみる。左目から見る景色は茶色に濁っている。泥水の中を泳いでいるようだ。
(左目は失明するのかな。今くらいならハヅキルーペがあれば大丈夫そうだけど・・・。もし右目も発症したら、点字を覚えるのか。。。今から覚えられるのかな。覚えないといけないだろうな。仕事には戻れないだろうから、視覚障碍者のために何か働こうかな。できるかな・・・。家のことはできるのだろうか。彩音とパパにはいつも物は同じところに置いておいてもらうようにしないと。料理?できるのかな。。。)
5月9日
6時 ピヨピヨ、ピヨピヨ。
夜勤の看護師さんがやってくる。
「点滴しますねー」
7時 朝ご飯。
14時 「点滴しますねー」
16時 退屈なので2号館の外来受付の前にあるタリーズコーヒーへ行ってみた。外来の患者さんが多い。私のようなパジャマ姿の入院患者は少ないけれど、他にも2人来ていた。
「カフェラテのトール。持ち帰りでお願いします」
「ありがとうございまーす。」
若い健康そうな店員さんにとても明るい声でお礼を言われ、レシートとカフェラテを受け取った。入院してきた時と同じように、左に大通り、右にアパートとそこに住む人たちを見ながら、長い渡り廊下を進み、病棟へ戻った。
タリーズへのお買い物は10分もかからずに終わってしまったけど、少しだけ気晴らしになった。病室のカーテンの中でカフェラテを飲んだ。これまで飲んできたのと同じカフェラテとは思えないほどおいしく感じた。
18時 夕ご飯を食べていると深志病院の長谷川先生が現れた。
「森林さん!」
「わー、先生~!」
「心配だったんでね。来てみたよ。ぶどう膜専門の准教授にも会ったよ。深志病院へ帰ったらレーザーやった方がいいって。ん-。少し腫れているねえ。どう?見え方は?」
「だんだん悪くなってます。左目はあんまりよく見えません。茶色く濁っています」
総回診や大学病院の勤務日ではないはずなのにわざわざ来てくれたのだ。悪くなっている自分の状態を話せただけで少し安心した。本当にありがたい。。。
そんな中、以前勤めていた病院の先輩からは、急性網膜壊死に関する文献がたくさんメールで送られてきた。心配してくれているようだ。でも読む気持ちにはならない。きっと怖いことばかり書いてあるにちがいない。そうだきっと。。。読むのは怖い。失明も怖い。手術も怖い。怖い。怖い。とりあえず、今日は読むのをやめておこう。