名前と原稿用紙(1)
「鈴木さーん、この資料の数字訂正しといて」
上司に名前を間違えられた。
鈴本加奈は、都内の大学で事務の仕事をしていた。契約社員だが、ずるずると毎年更新していた。職場はいわゆるホワイトで、全く問題はないが。
「はい」
そう言うしか無い。ここで「本当は鈴本です」とは言えない雰囲気で、ディスクで黙々と数字を打ち込んでいた。
こうして静かな事務所で働いていると、自分がどんどん透明になっていくように感じていた。大卒後、うっかりブラック企業に入り、身体を壊していたので、今の環境は誰にも文句は言えないわけなのだが。あの頃と比べたら、恵まれていると言っていい。
今の悩みは、上司に名前間違えられている事だった。人からは、下らない悩みだと思うだろうが、これは子供の頃からの問題だった。
加奈はとにかく存在感が薄かった。幼稚園の時は、よくバスに置いて行かれた。危うく熱中症になり死にかけた事もある。それでも担当の教師は「ごめーん、加奈ちゃんは存在感が薄いから気づかなかった!」と言われた。
小学校でも中学でも似たような事があった。ナチュラルにグループに入れまかったり、名前を間違えられたりした。決まって相手は悪気がなく、「気づかなかった、ごめんね?」と言われるだけがだった。
高校に入り、メイクなどの気を使ってみたが、まるで効果はない。成績優秀者を目指して一位になっても、なぜか先生は二位の子を褒めていた。
まるで、透明人間。そう思うようになっていたりした。
そして、透明人間はブラック企業でいいように使われて、再び死にかけたわけだが、医者や看護師にも名前を間違えられていた。
こういう運命なのだろうか。
今の仕事には不満がないが、そろしろ三十になる。婚活でもした方がいいんだろうか。
「鈴木さん、このやり方であってますか?」
そこにバイトの大学先がやってきた。ナチュラルに名前を間違えられていた。もう訂正する気にもなれない。
「ええ。でも、もう少し早くできない?」
ついついキツい口調で注意してしまうが、全く相手はダメージを受けていないようだった。
本当に透明人間になった気分だった。存在感みたいなものは、一体どこでつけるのだろう。背が低く、痩せ型なのも存在感を薄めているのだろうか。
「はぁー」
加奈は再びため息をつき、仕事に戻った。
ふと、頭に思いついた「婚活」という言葉。誰かの妻になれれば、透明人間から脱却できるのかもしれない。名前を間違えられないのかもしれない。
首からはネームプレートが揺れていたが、きっとこんな物は誰も見ないのだろう。殺風景でシンプルな自分のディスクを見ていると、さらに透明人間になっていくように感じる。