神様の定規(3)
目の前にあるカフェは、「お手紙カフェ・ミコトバ」という名前らしかった。レトロな書体の看板が出ていた。おそらく平屋の一軒家を改造したと思われるカフェだった。
紺色の屋根やアイボリーカラーの見た目が、鮮やかなカフェだった。お手紙カフェという名前のせいまのか、赤い郵便ポストも目の前にある。ポストがなぜか「天国行き」とも書いてあり、マキは思わず後ずさっていた。
「て、天国?」
意味がわからない。もしかしたら自分は、かくりよか異世界にでも迷い込んでしまったのかも知れない。治安は悪いとはいえ、繁華街からこんな長閑な海辺に行くのは、そう考えた方が一番辻褄が合ってしまった。しかも「天国行き」って?もしかしたら、死後の世界だろうか。再び頬をつねるが、ヒリヒリと痛みを感じた。口の中も、歯を噛み締めていたせいで少し痛い。という事は、自分は死んではいないようだ。
カフェの前には、立て看板とのぼりもでていた。のぼりは、「店内の文房具は全部自由に使えます!」とある。立て看板は黒板状で、メニューや金額がでていた。ランチセットは二千円らしい。メニューは店主のおまかせだが、オーガニックのこだわりの和食という。飲み物は色々選べて、コーヒーや紅茶だけでなく、ガーブティーも豊富に種類があった。ホットかアイスかも選べる。少し値段は高いが、お手紙カフェというだけあり、店内の文房具(便箋やシールなども)使い放題らしい。
コスパが良いのか悪いのかはわからない。文房具が好きな人なら、安いのかも知れない。かくいうマキも可愛いものが好きなので、気になってしまう。黒板式の看板の文字を見る限り、女性が書いたものに見える。ちょっと道を聞く為にカフェに入ろうとしていたが、普通にこのカフェに入りたい気分になっていた。
マキは、ドキドキしながらカフェの扉を開けた。壁と同じアイボリーカラーの扉だったが、「Open」というボードもかけてあったので、入っても大丈夫だろう。
「わぁ」
店内は、マキの想像以上に雰囲気がよかった。インテリアはシンプルな白を基調としていて、見た目よりはゆったりとした雰囲気だ。中央に大きなテーブル、カウンター席もある。感染症対策はゆるいらしく、アクリル板やアルコール消毒液などは置いていなかった。窓も大きく、静かな海も見える。開放感もあり、悩んでいた容姿の事などは、忘れてしまいそうだった。
それに文房具のコーナーも充実していた。銃器には、色とりどりの便箋や封筒、シールがぎっしりと詰まっていた。ボールペンもサインマーカーなども全色あり、見ているだけでも目がキラキラしてくる。マスキングテープや付箋の種類も豊富で、どれも可愛いデザインのものばかりだった。この空間だけが素敵な文房具屋のようだった。自由に使えるらしく、試し書きや持ち運び用の小さなバスケットも置いてあった。
その文房具コーナーの隣には、掲示板コーナーもあり、何やら色んなメモ帳が貼ってある。客のお悩みを書いたメモに、店長の美琴さんという人が答えているようだった。美琴さんの文字は達筆で、聖書の名言を引用しながら、アドバイスしてあった。綺麗な文字を見ていると、マキに背筋も伸びる。何故聖書の名言なのかは謎だが、こうして言葉だけ見ると、宗教くささは感じなかった。書店によくある名言集の一説のような印象も持った。
「お客様!」
そこにメニューを持った店長らしき女性に声をかけられた。年齢はアラサーぐらいで、決して美女ではない。頬にはそばかすが浮いているし、髪も若干プリン状態になっていた。それなのに、笑顔は柔和で優しそうだった。客商売のような笑顔というよりは、もっとナチュラルで不器用そうに見えた。紺色のエプロンの下は、シャツにジーパン姿だったが、爽やかで清潔感はあった。エプロンには「店長・葉本美琴」とあるので、この人がその美琴さんらしい。
「どうぞ、お客様。この大きなテーブルにどうぞ」
「え、ええ」
マキは美琴さんの雰囲気に押され、大きなテーブルの席につき、メニューブックを開いた。メニューはシンプルで、店主おすすめの和食のランチプレート、2000円とアフタヌーンティーケーキセットが1300円。どちらも店内の文房具や便箋、付箋などが使い放題で、時間制限もない。飲み物だけはお代わりするたびに課金されるというシステムだった。
ランチメニューは、特に選べないようだが、店の前にある看板に書いてあった通り、オーガニック食材らしい。確かにこの店の雰囲気では、そういったメニューの方が合いそうだ。飲み物の種類も豊富で、ランチセットを注文するち、一つ選べるようだった。
マキはぐるぐると迷いながら、結局ランチセットとオーガニックのカフェインレスコーヒーを注文した。さっきまで道に迷い、この場所も現世なのかよくわからないが、店主の美琴さんの素朴な笑顔を見てたら、ちょっとホッとしてきた。それに、今は美味しいご飯を食べ、文房具も楽しんだら、気が晴れそうだった。値段は安くはないが、可愛い文房具が使い放題というのは、惹かれる。気づくと、容姿や整形の事も少し忘れていた。
「お待たせしましたー!」
しばらくすると、美琴さんはトレイを持ってきて、マキの前に置いた。
「文房具は自由に使ってくださいね。文字を書くと、心が整います」
「そ、そうですか?」
「ええ。手紙は相手に伝えるものですねが、半分ぐらいは、自分の気持ちに整理をつける為に書いていると思います。では、ごゆっくり」
美琴さんの言うことは、イマイチしっくりこない。子供の頃からスマートフォンやタブレットがあり、手紙を書く事なんてなかった。それでも、美琴さんの素朴なルックスを見たり、落ち着いた声を聞いていると、そんな気もしてきた。食事が終わったら、何か書きたくなってしまった。
「いただきます」
それにランチプレートも、美味しそうだった。真ん中にある大きな皿には、おにぎりが三つ、唐揚げ、キャベツのサラダが載っていた。小鉢にはしじき、卯の花、味噌汁もある。このメニューだったらコーヒーは合わなかったかもと後悔しかけたが、意外とマッチしていた。刺激は少ないが、じんわりち身に染みるようなランチプレートだった。おにぎりは玄米ご飯で、片手でも食べやすい。何か書きながらでも、食べられるように配慮しているのだろうか。
想像以上に美味しいランチプレートで、これで2,000円は、そきまで高くない気がした。味噌汁の具も野菜が多めで、意外と満足感もあった。無農薬なのかわからないが、特にキャベツは甘みがあった。
「美味しかった」
小さな声で呟くが、美琴さんはカンターの内側でコップを熱心に磨いていて、時にマキの方に気にかけてくる様子はなく、かえって安心してきた。
「ごちそうさま」
しっかりとそう呟きたくなるランチプレートだった。身体が喜んでいるのはわかる。何故か今まで抱えていた不安やストレスなぢは蒸発していた。このカフェが現世ではないどこかにある気もしたが、なぜか怖くない。むしろ、帰りたく無いような気持ちもあった。お腹も満たされて、気が抜けているのかもしれない。
カフェに窓からは、静かな波音が響いていた。時間はゆったりと流れているようだった。