光の天使とサインペン(3)
数日後、歌子は軽い不眠症になっていた。毎夜のように天使がやってきて契約するようにせがまれた。自分と契約すれば、成功やお金を与えると約束もされた。その口ぶりは、天使というよりは熟練された営業マンのようだった。
うっかり契約もしたくなったが、頭の中の冷静な声が否定する。何の対価もなく、営業をかけてくる天使は本物だろうか。「詐欺」という言葉が頭に浮かんだりする。何年か前、女子高生だった時、道を歩いていたら脱毛やエステの営業を受けた事も思い出す。最初はいい事しか言っておらず、お試し価格も安いかったが、蓋をあけて見たら、何百万円もの契約だったりもした。それを思い出すと、天使の契約をやすやすと受けて良いのかわからない。
ただ、断ると、決まって悪夢を見るようになった。夢の内容は、幸絵がより成功しているシーンだったり、自分は落ちぶれている様子だったりした。金縛りにあう事もあり、すっかり寝不足だ。悪夢を見た時は、全く眠った気がしない。
こんな夢を見ると、本当に天使なのかわからない。悪魔と言われた方が納得できるものがあり、契約にはなかなか踏み出せない。
寮に帰る気にもなれない。どこかから天使が監視している気もして、全く落ち着かない。決まっていた仕事を全部片付けたら、しばらく実家で休む事にした。
実家は都心から少し離れた場所にある飽田市という場所にあった。駅の周辺には風俗街やパチンコ屋も多く治安も良く無いが、実家がある住宅街の方は概ね静かな土地でもあった。幸絵もこの土地の出身だった。飽田市の駅前にあるCDショップには、彼女のサイン入りポスターなどが貼っていたりする。ネットでは評判も悪い所がある幸絵だが、こうして見ると、地元で嫌われているとは言い難かった。
やはり、こうして成功している幸絵ものポスターを見せられると、歌子の心中は穏やかではない。やはり、天使と契約すべき?
『契約しなよ、そうしなよ』
誰かの声が聞こえる。まるで、悪魔の囁き声で、歌子の心はグラグラと揺れていた。
このままCDショップで幸絵のポスターを見ていたら、余計に病みそうだ。歌子は早歩きで店を出て、実家に帰る事にした。
本当は大通りの道を使うのが一番良かったが、一刻も帰りたい歌子は、近道を使うことにした。南口のパチンコ屋や風俗街がある方へ行く。この辺りは治安は悪いが、この道を使うと早くつく。
まだ昼間なので、大丈夫かと思ったが、すれ違う人は明らかにキャバ嬢といった雰囲気の女性も多い。道はゴミが散らかり、カラスや野良猫が彷徨いていた。猫自体は可愛いはずだが、この辺りにいる野良猫は、目が鋭く、どうも可愛くない。やっぱり人に飼われ、愛されている黒猫は、目が穏やかで雰囲気もおっとりしている。
そんな事を考えながら歩いていると、目の前の風景がガラリと変わっていた。汚らしい風俗街を歩いていたはずだが、なぜか海辺の道を歩いていた。防波堤があり、道からは砂浜や海が見えた。海は静かな波音が響き、潮の香りがした。海の色や空の雰囲気からして、日本かアジアかと思われるが、なぜこんな風景が?
自分は汚らしい道を歩いているはずだった。あの辺りに海があるとは聞いた事がない。
まさか死んだ?
不眠がつづいているので、夢でも見ているのかもしれない。天使の姿を見るようになってから、非科学的な事もだいぶ受容できるようになってきたが。
ライトノベルやアニメで人気の異世界転移や異世界転生のような状況にも思えた。あるいは、神隠し? ここは、かくりよだったりするのだろうか?
全く意味がわからないが、とりあえず道を歩いた。誰か人がいたらどういう事が聞くつもりだったが、辺りには誰もいない。
「もしかして、天使? 天使が何かやらかしているの?」
歌子は辺りをキョロキョロしながら、天使を呼ぶが、返事はない。天使が引き起こした事では無いようだった。
だとしたら異世界転移だろうか。ライトノベルやアニメは流行っているが、現実に起きるとは考えにくい。頭の中は混乱している。スマートフォンの電源も落ち、なぜか作動しなかった。本格的にピンチな状況だとさとる。海辺の静かな風景を見てみるが、家や街らしきものは見えない。ただ海だけが広がっているように見えた。
「わからない」
天使が見せてる幻の可能性も大だったが、その割には穏やかすぎる。
波音に紛れ、何か音楽のようなものが聞こえる。少し先にあるカフェから聞こえてきる音楽だった。
他に行く所も思いつかない。歌子は、カフェに向かった。
お手紙カフェ・ミコトバというカフェだった。青色の屋根は空の色とそっくりで、ちょっと境界線が曖昧だ。アイボリーカラーの壁も雰囲気が開放的に見えた。大きなカフェではなさそいだが、店の前にある立て看板を見ると、手紙が書けるカフェらしい。確かに店名通りの店だった。
「あれ?」
さっきの風俗街で見た野良猫が、辺りをうろうろしているのに気づく。店の近くにあるポストのそばで休んでいた。あの猫がここにいるとするなら、やっぱり異世界転移のような状況だろうか。ポストは一般的な赤いもので、なぜか「天国行き」と書いてある。
「どういう事よ?」
野良猫は、それには答えず、ミャーミャー鳴いているだけだった。汚らしい毛並みの三毛猫だったが、元いた土地にいた時よりもね目が穏やかだった。
いつの間にか店から聞こえる音楽がやみ、中から人が出てきた。
お手紙カフェ・ミコトバからは、店員らしき女性が出てきた。アラサーぐらいの女性だが、頬にそばかすがあるせいか、何となく鈍臭そうだった。田舎娘っぽい雰囲気もある。白シャツ、ジーパンで、黒いエプロンをしていた。胸元には「店長・葉本美琴」というネームプレートをつけていた。この美琴さんが、店長らしい。
美琴さんは、皿に盛った猫まんまを持っていた。それを野良猫のそばに置き、餌を与えていた。
「あ、あの。ここはどこですか?」
「ここはお手紙カフェ・ミコトバの前ですよ」
美琴さんは、歌子の質問のは答えず、野良猫の顔を見ていた。野良猫はガツガツと餌を食べていた。
「なんか、道に迷ってしまったみたいなんです」
「あー、あるあるですね。こも地図通りに歩けば帰れますから」
「本当ですか?」
「ええ」
美琴さんは、エプロンのポケットからハガキサイズの地図を渡してくれた。半信半疑だ。ユルイ雰囲気のイラスト風の地図で、どうも怪しい。
「ねえ、あなた。うちでお茶飲んでかない? 少しお疲れのようよ。ここは奢るから」
「え?」
「今の時間は、お客さんいなくて暇なのよね」
歌子は断る暇も与えられず、美琴さんに腕を引っ張られてお手紙カフェ・ミコトバに入店する事になった。何となく怪しい事は否定できないが、美琴さんは田舎娘みたいな雰囲気で、詐欺師には見えなかった。それに喉が渇いているのも事実だった。確かに連日の寝不足で、疲れている事は否定できなかった。