名前と原稿用紙(5)
「申し訳ありません!」
美琴さんは、可奈が恐縮するほど謝っていた。カーディガンは、美琴さんが染み抜きを試みたが、全く色が抜けなかった。
「もう、いいですから」
加奈は苦笑しながら、黒く染まってしまったカーディガンを着込んだ。カフェで一服一休みというのもできないようだった。上司に名前を間違われ、常々透明人間扱いされて、婚活相手にはすっぽかされ、異世界みたいな変な場所に迷い込んだと思ったら、コーヒーをぶちまけられた。
ふんだり蹴ったりとは、この事かもしれない。そんな状況に怒るどころか苦笑する他なかった。
一方美琴さんは、目に涙を浮かべながら謝っている。まだ客商売も慣れていないのかもしれない。配膳ロボットには決して出来ない態度で、逆に苦笑したくなる。
「お詫びにクリーニング券を送りたいです。住所と名前を教えてくれませんか?」
「え、そこまでするのは……」
「いいんです。私、世間知らずですし、客商売も始めてで……! ですので、お詫びさせてください!」
必死に頼み込む美琴さんに、これ以上否定するのも違う気がした。加奈は、美琴さんから渡された白いレポート用紙に、自分の名前と住所をか書き込んでいた。ボールペンは、このカフェに文房具コーナーにあるもので、やたらと書き味が滑らかだった。自分の文字は子供っぽい丸文字で、少し恥ずかしくなってきた。
ボールペンの側には、試し書きの紙も何枚か置いてあり、客同士で文通みたいな事をやっているようだった。確かにお手紙カフェというのは、本当らしい。
「鈴本加奈さんって言うんですね。綺麗な名前です」
美琴さんは、書いたものを見ながら、深く頷いていた。こんな事を言われたのは、始めてだった。それどころか、名前も「鈴木」と間違えられなかったのは、初めてのような気がした。
「そうですか? いつも鈴木って間違えられるんですよ」
「そんな事はありません! 名前は神様からのプレゼントです」
「親ではなくて?」
確か加奈の親はお寺に行き、住職に姓名判断をして貰い、名付けしたそうだが。
「詳しい事は省きますが、神様が親にインスピレーションを与えて、名付けするんですよ」
美琴さんの言っている事は、よくわからなかった。そもそも神様という存在がいるのかも理解出来ないのだが。
「それに名付けは、人が神様から与えられた最初の仕事ですし。人の名前をぞんざいに扱う人は、それなりの扱いを受けるから、大丈夫です」
「そうですか?」
「ええ。神様がそう言っていますから」
イマイチ信じられない。美琴さんは、いわゆる不思議ちゃんなのかもしれない。それでも配膳ロボットよりは信頼出来る気がした。
その後、カフェを出てから地図通りに道を辿ると、飽田市の駅前に出ていた。まるで手品みたいな状況で、加奈は首を傾げていた。
同時にスマートフォンも復活していた。可奈は駅のベンチに座ると、「お手紙カフェ・ミコトバ」について検索していたが、何一つ有益な情報が出てこない。見せのホームページやSNSもない。客の口コミがSNSにまばらにあるだけだったが、どのコメントを読んでも要領を得ない。店の写真も見つけられなかった。
「もしかして、やっぱり異世界転移? 神隠し?」
そんな事を考えてしまうほどだったが、答えは出なかった。