名前と原稿用紙(4)
お手紙カフェ・ミコトバの店内は、外観に比べて広々としていた。
カウンター席と中央に大きなテーブルがあり、ここで飲食ができるようだ。感染症対策は全くしていないようだった。入り口のアルコール消毒液もなく、アクリル板もない。マスク着用のポスターもなく、思わず、加奈は顎マスクにしていた。これでだいぶ呼吸が楽になってきた。さっきみたいに熱中症になりかけていたのに、頑なにマスクをし続けた自分は、どうかしてうる気がした。
なぜかカフェなのに文房具コーナーがあり、便箋やシール、テープなども売られていた。しのそばには掲示板コーナーもあり、便箋やメモ帳などがたくさん貼られていた。どうやら店主が客のお悩み相談をやっているらしい。変なカフェだと思ったが、他に行き場もない。
「お客様。いらっしゃいませ」
そこに店員らしき女性が現れた。胸元のネームプレートには「店長・葉本美琴」と書いてあった。そういえば、久しぶりに誰かの名前を認識した気がした。自分も透明人間として名前を間違えられていたが、コンビニ店員や清掃業者の人の名前をいちいち覚えていたといえば、別にそうでも無い。
「あ、あの。実は迷ってしまって。確かに飽田市って所の駅前にいたはずなんですが、ここはどこですか?」
店長の美琴さんは、薄く笑いながら、加奈の質問には答えなかった。そばかすが浮いた崩で、お世辞にも美人とは言い難かった。アラサーぐらいの女だが、どうも客商売向いていないような不器用さは感じた。それが返って素朴で優しい雰囲気を演出していた。配膳ロボットには無いような魅力はあった。白いシャツにジーパン、その上に黒いエプロンをしていたが、清潔感はあった。
「あら、迷ってしまったんですね。このカフェは、迷っている人しか訪れる事ができないんですよ」
「え?」
「大丈夫です。帰れます」
美琴さんは、自信満々に言い切り、ハガキサイズの地図を手渡してくれた。手書きnイラスト風の地図を印刷したもので、怪しい雰囲気はあったが、今は帰る方法はこれ以上わからない。スマートフォンもなぜか電源が落ちて、作動していなかった。
このまま帰るのも気が引け、少しここで休憩することにした。喉も乾いているし、ここが異世界なのか何なのか気になった。
「どうぞ」
美琴さんに案内され、大きなテーブルの方に座った。メニューとグラスに入った水も持ってきてもらった。
水はほんのりとレモンの香りがし、飲んでいると生き返りそうだった。ここはどこなのか理解は出来ないが、水の味が感じられる。死んではなさそうだった。
メニューは、シンプルなものだった。ランチセット2000円とケーキセット1300円。あとコーヒー、紅茶、ハーブティーなどのドリンク類が色々とあった。
ランチセットもケーキセットは日替わりで、店主のおすすめのものが出てくるらしい。メニューには、その詳細は載っていなかったが、オーガニック食材で全て手作りらしい。
ランチセットもケーキセットもちょっと高いと思ったらが、どちらも店内にある文房具が使い放題らしい。文房具コーナーには、色とりどりの便箋やシール、マスキングテープナどがあった。ボールペンや消しゴムなどの筆記用具は貸し出しで、自由に使えるらしい。お手紙カフェというのは、本当のようだ。
ただ、加奈はこういったものには興味がない。仕事で使う付箋やクリップなどもシンプルで地味なものばかりだった。派手で可愛いものにする意味もわからない。
ランチセットやケーキセットのは、ちょっと惹かれるが、長居する気分でもない。加奈は、美琴さんを呼び出すと、アイスコーヒーだけを頼んだ。
「あの、飲み物単体だと文房具は使えませんが、よろしいですか?」
「ええ。使う用事もないですし」
美琴さんは、コーヒーしか注文しない加奈に明らかに残念がっていた。おそらく、そういった客は少ないのだろうが、今は文房具を楽しみたい気分でもない。メールやチャットでも十分なのに、わざわざ手書きの手紙を書くのもアナログ過ぎるのでは無いだろうか。
「かしこまりました。少々お待ちください」
美琴さんはしゅんとしながらも、厨房の方に行ってしまった。ちょっと悪い事をしてしまったような気もして、立ち上がり、文房具コーナーを見てみる事にした。
確かに華やか便箋類だった。今はレトロな喫茶店もブームなのか、そういったテーマでデザインされた便箋類がある。「お手紙カフェ・ミコトバ」と印刷されたオリジナルの便箋もあった。確かに可愛い文房具が好きな人は楽しめるカフェかもしれないが、婚活相手にすっぽかされ、熱中症になりかけた加奈としては、華やか文房具を見ていても、心は浮き立たない。
文房具コーナーにある掲示板も目を向ける。そこには、便箋で書かれた客のお悩み相談が、店主の美琴さんが回答していた。回答も綺麗な便箋で書かれ、掲示板に貼り付けられれていた。美琴さんはかなりの達筆で、綺麗な日本語が綴られていた。それになぜか聖書の言葉を引用していた。宗教ばどに馴染みのない加奈は、全く意味がわからないが、こうして綺麗な文字で見ると違和感はなかった。宗教だと思うと気持ち悪いが、聖書の言葉自体は、さほど悪い印象は受けなかった。名言集の一つと言われたら、そうなのかもしれない。
そんな事を考えながら、席に帰ろうとした時だった。
「きゃ!」
ちょうどアイスコーヒーを持っていた美琴さんとぶつかり、加奈のピンク色のカーディガンはコーヒー色に染まってしまった。




