精霊と魔術師②
自然には心と身体を癒す効果があるというけれど、我が家の居心地の良さはまた格別だった。ここには気心知れた精霊たちしかいないので、メアリは子どものようにベッドに飛び乗ると、ごろごろと転げ回った。
――何だか、ものすごくほっとするわ。
ここにいると、皇城での暮らしが遠い出来事のように思えてしまう。
アルガも精霊の姿に戻って、生き生きと周辺を飛び回っていた。
ひとしきりごろごろすると、埃っぽさが気になってきて、やむなく身体を起こす。
汚れてもいい服装に着替えて、箒を手する。窓と扉を開けて換気をし、埃や木くず、暖炉の灰なんかも、全部外へ掃き出してしまう。それから川から水を汲んできて、古い布で水拭きを始めた。
家の掃除が終わったら、外へ出て、久しぶりに畑仕事に没頭する。
雑草を抜いて、肥料を与え、水遣りをする。
収穫できるものは収穫して、今夜の夕食の材料にするつもりだ。
『げっ、あいつまだ生きてるよっ』
『森に入ってもう七日目だっていうのに……』
『魔物にいくら攻撃させても無傷だし』
『全部、跳ね返されてるよね』
『携帯用の食料も水も、とっくに尽きているはずなのに』
どうやら、森に侵入者がいるらしい。
精霊たちの会話に聞き耳を立てていたメアリは、ふと顔をあげた。
『……あいつ、人間じゃないよ』
『だね、人間じゃない』
『だったら何だ?』
『さあ? 何だろう?』
「私が正体を探ってきましょうか?」
提案すると、
『さては面白がってるわね、メアリ』
アルガの声がして、「まさか」と慌ててしまう。
「ただの好奇心よ」
『似たようなものじゃない』
「私じゃ、あなたたちのお役に立てない?」
『そんなことないわ。メアリに行ってもらいましょう』
***
精霊たちに案内されて侵入者の元へ向かうと、そこには一人の青年が仰向けになって倒れていた。精霊たちが只者ではないと騒いでいたので、てっきり熊のような体格の、筋骨隆々の男でもいるのかと思いきや、拍子抜けしてしまう。
「……まだ子どもじゃない」
聞き捨てならないとばかりに、閉じられていた青年の瞼がぴくりと動いた。
「失礼な。僕はこう見えて二十三ですよ」
起き上がった彼は、ぼさぼさの癖毛に片手を突っ込むと、眠たそうな顔でメアリを見上げた。「どちら様ですか?」とぼんやりとした口調で問われて、それはこちらの台詞だと苦笑してしまう。人々に恐れられている魔の森で、こうものんびり話しかけられたのは、生まれて初めての経験だ。
「もしやあなたは、精霊の女王様では?」
「いいえ、違います」
「でしたら、どうすれば女王様にお目通りできますか?」
青白く覇気のない顔――口調も淡々としていて表情がなく、人形のようだ。
「女王陛下に会うために、この森にいらしたの?」
「はい。この森に住む許可を頂きたくて」
思わず耳を疑ってしまった。
『こいつ、正気じゃないな』
『うん、正気じゃない』
「いいえ、僕はいたってまともです」
精霊たちのいる方向に視線を向けて、青年は間延びした口調で言う。
メアリは信じられないとばかり、彼を見た。
――もしかしてこの人……。
『……嘘だろ』
『こいつ、僕たちのこと……』
『人間にはあたしたちの姿は見えないはずなのに』
「あいにく、僕はただの人間ではありません。魔術師ですから」
やっぱり……とメアリは息を吐いた。
魔術師は人前に姿を現すことをひどく嫌うので、メアリも実際に会うのはこれが初めてだ。
魔術師になれる人間は、魔力と才能を有した、わずかひと握りの人間だけ。弟子入りは十五を過ぎてから。魔術師の元で修行し、一人前として認められるまで、最低でも十年はかかると聞く。ゆえに魔術師の平均年齢は高い。
――けれどこの人は……。
「かつて、セイタール帝国の宮廷魔術師でいらした、ニキアス・ソフォクレス様ですね」
「僕のことを知ってるんですか?」
不思議そうな顔で訊かれて、勘が当たったようだとメアリは喜んだ。
「ニキアス様は私のことをご存知ない?」
「……すみません、人の顔を覚えるのは苦手で」
当時のニキアスの評判を思い出して、無理もない感じた。彼は侯爵家の跡取り息子で宮廷魔術師でありながら、社交界には一切顔を出さず、塔にこもって魔術の研究ばかりしている変わり者だったからだ。
政治にも関心がなく、仕事以外の呼び出しには一切応じない偏屈人。
ユアン王太子に嫌われていたのもそのせいだろう。
「私のことはどうかお気になさらず。リィ、とでもお呼び下さい」
メアリはこの状況を面白がって言った。
「ところで、どうしてこの森に住もうだなんてお考えに?」
「だってここ、隠居暮らしにはもってこいの場所じゃないですか」
ゆっくりとした動作で立ち上がりながら、彼は言う。
「自然豊かで、人もいなくて、俗世間から切り離されている……僕にとっては理想郷ですよ」
うっとりとつぶやく彼の後ろで、精霊たちは深刻そうに会議をしていた。
『変な奴が来ちゃった』
『うん、変な奴が来ちゃったね』
『どうする?』
『魔術師は手ごわいよ』
『しかも相手は元セイタールの宮廷魔術師』
『皆一斉にかかれば……』
『犠牲者が出るかもしれない』
『僕らの判断で、仲間を失うわけには……』
『奇襲攻撃も無理そう』
『僕らの姿が見えているわけだしね』
はあっと盛大にため息をついている。
『手が出せないなら飢え死にするまで待とうか?』
『飢え死にするかなぁ』
『魔術が使えるのなら、食料くらいどうとでもなるでしょ』
『居座る気満々だしね』
話し合いが長引いているようなので、メアリは樹木の根元に腰を下ろした。
ニキアスに至っては蟻の行列を見つけて、ぼんやり眺めている。
『そもそも、魔術師って僕らにとって危険な存在なの?』
『魔術のことしか頭にない、オタク集団ってイメージだけど』
『本人も隠居がどうとか言ってたし』
『人間の侵入者は即排除、が森の掟で……』
『そりゃ排除できる相手に限った場合でしょ』
結局、いくら話し合っても結論は出ないらしく、
『あーダメだっ頭が痛くなってきたっ』
『あの魔術師は僕らの手に余る』
『……女王陛下に指示を仰がないと』
『女王様がお目覚めになるまで待つつもり?』
『他に良い方法があるなら言いなさいよ』
『いっそのことメアリに決めてもらう?』
『女王様の代理として』
『……それもそうね』
『そうしようそうしよう』
唐突に話を振られたメアリはきょとんとしていた。
『というわけで、君に決定権を委ねようと思う』
『僕らは君の指示に従うよ』
『どうすればいいと思う? メアリ』
メアリは即座に答えた。
「とりあえず、しばらく様子を見るというのはどうかしら?」