精霊と魔術師①
「皇帝陛下が新しく愛妾を迎えられたそうよ」
穏やかな昼下がり、メアリは飲みかけのティーカップをテーブルに置くと、深刻な表情を浮かべてアルガを見上げた。王侯貴族が愛人を囲うことは珍しいことではない。けれど皇后が亡くなってからまだ半年も経っていないというのに。
「よほどその方のことがお気に召したのね」
「ええ、このところ毎晩のように伽の相手をさせているとか」
であれば、妊娠するのも時間の問題だろう。
メアリはため息をついた。
「生まれてくる子が皇女であれば良いのだけど」
「ノエも同じことを言っていたわ」
「だったらアキレス様もご存知なのね」
つい先ほど、公務で同盟国へ向かうアキレスを見送ったばかりなのに。
もう会いたくてたまらなくなる。
「殿下なら大丈夫よ。ノエが付いてるもの」
「そうね」
アルガの言う通りだとメアリは微笑む。
「それで、その女性はどういう方なの?」
「フォスター侯爵家のご令嬢ですって」
フォスター侯爵家といえば、代々宮廷魔術師を輩出してきた名家である。
もっとも、ご令嬢とはいえ侯爵の実子ではなく、後妻の連れ子らしい。
「確か御子息は、数年前まで宮廷魔術師をしてらしたわね」
しかし当時、王太子だったユアンの不興を買い、王宮を追放されてしまったと聞いている。挙句父親からも勘当されて、今は行方知れずだとか。
何だか少し前の私みたいねと、親近感を覚える。
「それにしても、娘を皇帝の後宮に送り込むなんて、とんだ野心家ね」
『娘のほうもまんざらじゃないって話だよ』
『それどころか夜の方も積極的だったって、皇帝ものろけてたみたいだし』
「もしかして皇后の座を狙っている?」
『ありうるよねぇ』
『実際に顔は見たことないけど』
「メアリも気になるでしょ?」
もちろんだと頷いて、立ち上がる。
「これから挨拶に伺うわ」
アキレスのためにも、そして皇太子の婚約者として、彼女がどういう人間か、知っておく必要がある。そう思い、勇んで彼女のいる後宮に向かったのだが、メアリを迎えた侍女は、心底恐縮した様子で言った。
「わざわざ御足労頂いたのに、申し訳ございません、殿下。キャサリン様は只今、体調を崩しておりまして」
肩透かしを食らい、メアリは仕方なく応接室を後にした。
控え室で待っていたアルガは、「あれだけ待たされたのに?」と驚いた声を出す。
「いくら小国とはいえ、メアリは王女様なのに……あたし、文句を言ってやる」
「いいのよ、アルガ。体調が悪いのだから仕方がないわ」
「本当に?」
その問いはメアリにではなく、他の精霊たちに向けられたものだった。
『それがその……』
『分からないんだ』
珍しいことに、精霊たちは戸惑っているようだった。
「分からないって?」
『彼女の寝室に入れなかった』
『結界が張ってあったんだ』
『限られた人間しか入れないよう』
『僕ら精霊でも通り抜けられない』
『強力な結界だよ』
おそらくフォスター侯爵家の親族――魔術師が、護衛としてご令嬢のそばに付いているのだろう。皇帝の寵愛を得たことで、反皇帝派の人間に命を狙われるのではないかと警戒しているのだ。
「日を改めて、出直すことにするわ」
けれど数日後、再度後宮を訪れるものの、
「申し訳ございません、殿下。キャサリン様は体調が優れないため、お会いすることができません」
その後、何度訪れても結果は同じで、さすがのメアリも諦めざるを得なかった。
「私のことを警戒しているのかしら」
「というより、アキレス殿下のほうじゃない? 彼女が男児を産めば、殿下のライバルになるわけだし」
避けられている以上、無理強いはできない。けれど近く、彼女のお披露目パーティーがあるので、その時に挨拶すればいいと考えていた矢先、メアリは皇帝に呼ばれ、彼の執務室を訪れた。
「メアリ・アン、参りました。陛下、この度は――」
「キャサリンは余の愛妾だ」
メアリの言葉を遮るようにして、皇帝は口を切った。
「いかにそなたが王家の娘で、皇太子の婚約者とはいえ、余の愛妾を愚弄することは許さぬ」
「……恐れながら陛下。私はまだ、キャサリン様にお会いしたことがございません」
なぜ苦り切った顔で叱責されるのか分からず、メアリは眉をひそめる。
「会ったこともないご令嬢を、どうして愚弄などできましょう」
「嘘を申すな。後宮に何度も足を踏み入れているではないか」
「体調を崩しておられるから、会うことはできないと何度も侍女に断られました」
「それにしてはずいぶんと長居していたようだ」
「それは……」
主人にお伺いを立ててくるからと、応接室でかなりの時間、待たされたからだ。
けれど今にして思えば、それこそが罠だったのだと気づいた。
「それを余に信じろと?」
「私は事実しか申し上げておりません」
「キャサリンはそなたにお茶をかけられ、ドレスを台無しにされた上に、ただちに後宮を出ていかねば呪いをかけてやると脅されたそうだ。これも嘘だと申すか?」
いくら反論したところで、皇帝がメアリを信じることはなく、言葉を重ねれば重ねるほど、追い込まれていくのを感じた。キャサリンは初めからこれを狙っていたのだろう。稚拙な罠にまんまと嵌ってしまった自分に、嫌気が差す。
『メアリをいじめるなっ、この色ボケ親父っ』
『どうするこいつ? 消しちゃう?』
『その前にこいつの愛妾をやっちゃおうか?』
お願いだから絶対に手出ししないでと、小声で伝える。
例え些細なことでも、人間同士の争いに精霊たちを巻き込みたくなかった。ましてや、自分の犯した失態の尻拭いを、彼らにさせるわけにはいかない。
「そなたを――精霊を敵に回すようなことはしたくない。ゆえにこの件は水に流すが、キャサリンに対して、今後は敬意を以て接するよう、心がけて欲しい。あれは感受性が強く、繊細な娘なのだ」
『はぁ、何言ってんの?』
『繊細な人間が皇帝の愛妾なんかやれるもんかっ』
『いい年して女に騙されやがって』
『それでよく皇帝が務まるよね』
『バーカバーカっ』
『この色ボケ親父っ』
『それはさっき言った』
自室に戻ったメアリは、椅子に座ってぼんやりしていた。罰こそ受けなかったものの、取り返しのつかないことをしてしまったというショックで頭が一杯だった。
――陛下のご不興を買ってしまった。
このことはすぐさま噂となって、宮廷の人々の間に広まってしまうだろう。
――アキレス様のお立場を悪くしてしまった。
「大げさに考えすぎよ、メアリ」
仲間たちに事情を教えられたアルガが、すぐさま慰めてくれる。
「ノエたちが帰ってきたら、きっとすぐに濡れ衣を晴らしてくれるわ」
「……でもしばらくは、この部屋から出ないようにしないと」
「謹慎するってこと?」
『なるほど。反省してますアピールか』
『いや、メアリはガチで反省してるから……』
「また下手に動いて、アキレス様のご評判を傷つけるわけにはいかないもの」
メアリの言葉に、アルガは腕組みすると、
「だったらいっそのこと、城を出て森に戻りましょうよ」
明るい声で言った。
「ここにいても何もできないんじゃ、いる意味もないし。メアリにだって休息は必要よ。小間使いの子たちにも協力してもらって、誰かが訪問に来ても、謹慎中だからって追い返せばいいし。ね、そうしましょう?」
『あーそれいいかもっ』
『久々に里帰りしようよ』
嬉しそうな彼らの声を聞いて、メアリははっとした。
――私ったら、また自分のことしか考えていなかったわ。
アキレスのことは心から愛しているし、彼のためなら、どのような苦難も乗り越えられると信じている。けれど精霊たちは、メアリにとっては家族も同然――時には彼らの要求を聞き入れることも、大切なことだ。
「……そうね、畑の様子も気になるし。家もお掃除しないと」
気持ちを切り替えて、元気よく立ち上がる。
メアリは早速、帰り支度を始めた。