序章
私は、栗花落唯、23歳。看護師の卵だ。
つい二か月前まで、結婚を誓った恋人がいた。結婚式の日取りも決め婚約の証にと指輪ももらっていたので、元婚約者といっても間違いではないだろう。言いたくはないが。
私は、もらった指輪を彼に返し、式場を解約し、そのキャンセル料も私が払った。
私は、私の強い意思でその婚約を破棄した。
原因は彼の浮気だ。
元婚約者の彼、鮫島剛は3歳年上の26歳、大学卒業後に務めていた旅行会社を退職したばかりの自称ユーチューバーだ。
登録ユーザーが23人というのは、そう名乗っていいのかどうか、その業界に詳しくない私にはわからないけれど。
元婚約者の浮気相手は、私より五つ年下の18歳の女子大学生だった。
若い子が好きだということは、薄々感じていた。
いっしょに街を歩くときに彼の視線が追うのは、たいてい女子高校生だったから。後で知ったが、私と出会う前にも16歳の恋人がいたらしく、彼にとって私は、年増の分類だったかもしれない。
婚約当時、私は大学の看護学科の4年生になったばかりだった。
その半年前、私を突然の悲劇が襲った。私をいっぱいの愛情で育んでくれていた両親が、事故で亡くなったのだ。
辛く悲しい日々が続いた。二年が経った今でも、時々、その知らせを受けた時の胸の痛みと混乱が私を襲うことがあるほどに。
両親は遅い結婚で、母は高齢出産だったため、兄弟姉妹はおらず、祖父母もすでに他界していた。
ようするに、私はその日、天涯孤独の身の上になった。
私は、なんとか前に歩き出すためのきっかけになればと、葬儀を終えた後、一人旅に出ることにした。
祖父母が健在だった頃は何度か訪れていたはずだが、幼かったせいか、様々な色度の緑と美しい川の流れ以外鮮明な記憶のない、両親が生まれ育った東北の町に。
祖父母はもういない。
親類縁者も、私の知る限り一人もいない。
それでも、その町は私の第二の故郷でもある。
両親を育んだその町で、再生への足掛かりを見つけたかった。
私は、両親の故郷で、美しいものをたくさん見つけた。おいしいものも、めずらしいものも。
家でその神社の名前のあるお守りを見たことがあるので、足を向けてみた神社では父や母を知っているという人にも会えた。同じ小学校に通っていたというその人は、両親の思いがけないおちゃめな一面や失敗話を教えてくれた。
そして、両親が不慮の事故で亡くなったことを、私といっしょに悲しんでくれた。
初めて出会った両親の幼い頃の知人、ただそれだけの人が流してくれた一筋の涙が、私に生きる希望を与えてくれた。
どこかに、きっと悲しむ人がいる。私がくじけてしまえば。
だから、生きていかなければいけない。
苦しくても、切なさに負けそうになっても、少しずつでいい、前に進まないと。
よい旅になった。
旅のすべてに私は感謝した。
その旅の宿の手配をしてくれたのが、偶然入った旅行社の窓口にいた、元婚約者、鮫島剛だった。
旅から戻り、なんとか大学にも通い始めた頃、私は鮫島に再会した。
弱っていたからなのか、その時の彼は今とは違いもう少し信頼のおける人だったからなのか、私は運命の再会にときめいた。
そして、彼の優しさ、今にして思えばすべてがまやかしだが、それに惹かれ、あまりに早い交際の申し出に首を縦に振った。振ってしまった。
愚かだった、と今は反省しているが、後悔先に立たずだ。
旅行の申し込み時に書く書類には、けっこうな量の個人情報がある。
彼がそれを元に、私の現状を調べだすことは簡単だっただろう。
偶然を装った巧妙な罠に、世間知らずの身寄りのない学生が引っかかった、それだけの話だ。
付き合いだしてすぐ、彼はプロポーズをしてくれた。
学生だった私は、もちろん躊躇した。けれど、結婚は卒業後でいい、その後も看護師として働くことを応援する、金銭的にも精神的にも僕が支えるよ、という彼の言葉を信じ、私は彼の申し出を受けた。
私は、無事卒業を果たし看護師資格の国家試験にも合格した。
就職先の病院で、先輩看護師の指導のもと、毎日勉強の日々だった。彼とも会えない時間が増えた。
申し訳ない、と思ったけれど、私は両親の死後初めて出会えた生きがいともいえる仕事に熱中していた。
その最中、私は彼の浮気を知った。
自分の目で、彼が若い娘とそういう類のホテルに入って行くのを見たのだから、疑いようもない。
看護師として、日々が勉強で充実していたからだろうか、辛いことも多いがこれこそ私の望んだ生き方と思えるようになってきた時だったからかもしれない。
正直、その光景に、あまりショックはなかった。
彼の腕にぶら下がるように歩くミニスカートの似合うショートカットのその子に、若いな、やっぱりね、というそんな感想が頭をよぎっただけだ。
だから、婚約破棄の決心は早かった。
私は、興信所を頼り、彼の浮気の証拠を集めてもらい、それから一か月後に、婚約解消を申し出た。
すぐに、了承してくれると思っていた。
しかし、彼は婚約は解消しない、お前とやり直したいと言い続けた。
なぜ? と聞くと、本当に愛しているのは唯だけだから、と答える。
ウソに決まっていた。
そこで、彼がなぜ、彼にとっては年増の私と結婚したいのかを興信所に調べてもらって驚いた。
彼は、私の稼ぎと遺産を頼りに会社をやめ、自称ユーチューバーになっていた。
今私との縁が切れれば、彼は手にするはずだった金銭を手に入れることができない。
ようするに、私は金蔓だったのだ。
彼との話合いはつねに平行線。
話し合いに意味がなくなっていた。
そこで私は、弁護士に依頼し、彼にもらった指輪を返し両親の遺してくれたお金の一部で結婚式場のキャンセル料もすべて自分で負担し、婚約解消の内容証明を多くの証拠とともに彼に送った。
彼からの答えはなかった。
ただ、私は、日常のあちらこちらで身の危険を感じるようになっていった。
だから、家を出た。両親が遺してくれた幸せな想いでのだくさんつまった大切な家だったけれど。
私はそれを他人に貸し出し、就職先の病院の寮に入った。
その日から、彼のストーカー行為はより執拗になった。
警察にも相談し、彼に直接注意もしてもらった。
けれど、なんの効果もなかった。
そして、その夜。
私は勤め先の病院から寮への帰路を歩いていた。
突然、電信柱の影から鮫島が出てきた。手ぶらだった。けれど、私の本能が教えてくれた。
殺される!!
だから、逃げた。
さいわい私は、元陸上部の長距離ランナーだ。
逃げて逃げて、逃げ続けた。そして、逃げながら願った。
神様、助けて!!
この人のいない、どこか遠い場所に私を連れていって。
次の瞬間、私はまばゆい光に包まれた。
温かで、優しく、美しいその光に身を委ね、私は意識を失った。