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紫陽花1

とあるものぐさな大学生の話。


「さっき、優穂(ゆうほ)ちゃんに会ったよ」


 家賃を取りに来た相嵯峨に、開口一番にそう言われた。蓮野(はすの)の名前が何故今でたのかは知らないが、コイツのことだ。恐らく大した意味は無いのだろう。それに部屋が隣なんだから、俺の前に蓮野と顔を合わせていたとしても何ら不思議もない。意図は分からないが、ここは適当に流すのが一番だ。


「そうか、ほらよ家賃。大変だな、当番は」

「優穂ちゃん、君と仲良くなりたいみたいだよ」


 しかし俺の言葉も流される。家賃も受け取ってもらえない。俺は溜め息をついて、答える。


「そうか、そいつはありがたいな」

「仲良くなってあげたら?」


 俺は苦笑した。


「じゃあお前は、俺が『井川(いかわ)と仲良くしろ』と言ったら仲良くするのか」

「断固拒否だね」


 即答する相嵯峨に呆れつつも、俺は玄関の扉を閉めようとする。


「そういうことだ」


 しかし扉は途中で、ゴッという音を立てて止まる。扉に相嵯峨が足を挟みこんでいた。痛いだろうに。馬鹿なのか? 慈悲深い俺が仕方なく扉を開けると、すかさず玄関に上がりこむ。そうか。なるほど。馬鹿は俺だ。扉なんて開けずに、強引に閉めれば良かったのだ。


「不法侵入は犯罪だぞ」

「家賃滞納はどうなの? 君は本当つれないなあ」

「家賃滞納ってお前が受け取らないからだろうが」

「受け取る義務はないからね」


 相嵯峨はおどけた調子で言うと、ニヤリと笑った。


「確かに僕は先輩を嫌っているよ。でも君は別に優穂ちゃんを嫌ってないでしょ?」

「ああ、確かに嫌ってはいない。多分あの子は良い子なんだろう。だが面倒だ」

「ふうん、本当につれないね」


 俺が何も返さないでいると、相嵯峨は「ま、いいや」と一枚の紙切れを渡した。


「はい、善良荘便り」


 善良荘便りは毎月不定期に配られる。書く当番も月ごとに決まっていて、まあその月の当番にとっては面倒な仕事だが、他の住民が書いた便りを見るのは意外と楽しいものだ。そう言えば先月は、今しがた話に出た蓮野が書いていた。話題が無かったのか、町の地図を描いていた。その時思わず「一体何を意図して書いたんだ?」と思ったが、まあそれでも俺が前に書いた『徒然草 善良荘バージョン』よりはマシなのだろう。内容も、我ながら酷かった気がする。『徒然草と題したから一応硯に向かってはみたが、ミジンコを書いて筆をおいた』とか本気で書いた。その月は、蓮野以外の住民の視線が異様に痛かった。でも察してほしい。書くことがなかったのだ。現にミジンコを書いたのも嘘だ。もっと言えば硯になんて向かっていない。

 けれど今月の便りは、そこそこのニュースを伝えるという便りの役目を果たしていた。


「……新しい住民か。珍しいな」


 いや、別に書くことがあっていいなとか思っていない。この可愛らしいイラストを見ても、画力を見せびらかすのは楽しいか、とか嫌味っぽいことも思っていない。これを書いた奴は冷たい視線を浴びずに済むのか、と悔しく思ったりもしていない。相嵯峨が言う。


「ちなみに書いたのは眼鏡の方の変態だよ」


 前言撤回、地獄に落ちろ。けれど俺はそんなことは言わずに、別の質問をする。


「新しい住民って、何号室だ?」

「一人はおめでたいことに君の隣の部屋。もう一人は104号室だよ」


 面倒だ。隣ということは、挨拶しないといけない。まあ一階の奴は別にいいのだろうが。いや、待てよ。


「めでたいな。104号室ということはお前の隣の部屋じゃないか」


 皮肉のつもりで言うと、意外にも相嵯峨は嬉しそうな顔をした。


「うん、本当に、嬉しいことに僕の隣の部屋なんだ」


 その顔を見て、嫌な予感が頭を過る。思わず言った。


「……あまり、悪趣味な事はするなよ」


 相嵯峨は少し笑った。




 俺の部屋に居座ろうとする相嵯峨に家賃を無理矢理渡し、追い出すことに成功すると、俺は気分転換のつもりで散歩に出た。既に空は暗く、月もはっきりと見えた。すると、外に出たところで常盤に会った。

 常盤は近くの学校に通っている高校生だ。明るくて優しい。苦労人なのかもしれない。常盤を見ていると、同じく住人の別のヤツの顔が浮かぶ。まあ常盤のほうが常識はありそうだ。常盤とはそれほど仲がいいわけでもなく、会えば挨拶する程度の間柄だ。それは俺が面倒な付き合いを嫌っているからかも知れないが。だから今日も軽く会釈する。しかし常盤の方から話しかけてきた。


「こんばんは。遅くに珍しいですね」


 珍しいのは夜型の俺が外にいることではなく、普通の高校生である常盤が外にいることだ。しかしそこは流しておく。


「ああ、気分転換だ。お前は?」

「買い物ですよ」


 そう言って常盤は持っていたレジ袋を持ち上げる。分かりきったことを訊いてしまった。


「そうか、大変だな、一人暮らしも」

「それ、文部さんもですよね?」

「高校生と大学生では違うだろう」

「そりゃそうかもしれませんけど」


 苦笑する常盤。


「忙しいのには同情するが、あまり夜遅くに出歩くのはどうかと思うぞ。幽霊が出たら大変だ」


 冗談めかして言う。


「幽霊、ですか。そういうの怖いタイプですか?」

「信じないタイプだが、幽霊のように無害なのはともかく人殺しとかは恐れるタイプだな」


 幽霊と言えば、この町のぼろアパートの一室から断末魔が聞こえる、という怪談話がある。最も、それはうちのアパートで、断末魔の原因も分かっている。常盤は少し笑って言った。


「じゃあそういう話があるの知ってますか? クラスメートから聞いたんですけど、四丁目の空き地に死体があったという話。といっても僕達がもう一回見に行った時には血痕しか残っていなかったんですけど。病院に行ったならいいのですが。でも殺人鬼が徘徊してると思ったら、少し怖いですよね」


 少しというかかなり怖くなってもいい話だ。四丁目の空き地と言えば、すぐ近くじゃないか。特に常盤が通っている高校からは。それに普通、血痕を見れば多少は動揺すると思うのだが。血、死。ふと藍色が脳裏に浮かぶ。俺が好きな色だ。けれど何故か嫌悪感がした。鼻には雨の臭いが蘇る。今日は雨など降っていないのに。何故だろう。まあ人が死んだなんて、喜ばしい話ではない。多少変な気持ちになっても仕方ないだろう。しかし常盤はそうでもないのか、笑って話を変える。


「それにしても文部さん、面倒見がいいですよね」

「そうか?」


 あまり言われない言葉に驚く。


「ええ、夜で歩く僕を案じてくれましたし」


 それくらい普通だと思うが。まあいい。正直俺は長話する気も無かったので、話を打ち切るために最終兵器を使う。


「話に付き合わせて悪かったな。褒めてくれたお礼と詫びに飴やるよ」


 常盤は苦笑しながら、差し出された飴を受け取る。そして若干呆れながらも言う。


「今日はオレンジ味ですね。ありがとうございます。でも、いつもどうして持っているんですか?」

「子供の笑顔が見たいからな」


 俺の嘘に当然気づいた常盤は返す。


「高校で文部さん、不審者だと思われていますよ。飴を配る謎の大学生って」


 その言葉に少しショックを受ける。心外だ。


「あ、でもクラスメートの蓮野さんはとても嬉しそうですよ。なんか飴の包み紙をいつも所持してるって。……あ、こういうの、本人に言っちゃまずかったですね」


 ショックを受けた俺に気づいたのか、取り繕うように言う常盤。そしてその言葉が勢い余って、今度は蓮野に対して申し訳なさそうな顔をする常盤。だけれどそこまで大事にされるのも心外だ。


「……まあお前もだが、蓮野も良い奴だからな」


 すると常盤は少し悲しげに笑った。


「そういうところが面倒見いいんですよ。だから」


 しかし途中で言うのをやめる。そして「じゃあまた今度」と強引に話を切り上げられた。常盤は俺の別れの挨拶も待たず、踵を返す。

 本当に気のせいかもしれないが、常盤は俺に対して少し辛辣な気がする。そんなことを小さくなる常盤の後ろ姿を見ながら考える。いや常盤が他の奴に対して優しすぎるのだ。前にバスでお年寄りに席を譲っていたところも見たし、道端のゴミを拾っていた時は素直に感心した。まあ自分の財産の八割を募金するあいつには敵わないが。むしろあいつレベルはただの馬鹿だ。自分は貧乏だと言うのに。


 常盤が俺に尋ねたことを思いだす。何故飴をいつも持っているのか。別に子供の笑顔が大好きなわけでもなければ、もちろん俺が高校生を誘拐しようと企んでいるわけでもない。


――ねぇ、今日はアメちゃん無いの?


 彼女が飴が好きだから、いつも持つようにしているだけだ。それが癖なだけだ。


――やった、今日グレープ味だ! あたしグレープ大好きなんだー! ってこれ毎日言ってるね!


 そういってたった飴一つで喜ぶ彼女の顔がみたくて、飴袋と名付けたヒマワリ柄の小袋に、グレープ味の飴ばかりを入れている。グレープだけの飴を買えばいいとも思ったが、この会社の飴のグレープ味が彼女は好きだ。だから他の人には他の味を渡していた。きっと今頃、飴袋の中はグレープ味だけになっているだろう。そう思い、飴袋を覘く。しかしグレープ味もちゃんと減っていた。誰かに無意識の内にあげていたのだろうか。

 暗い夜道の上で、俺は少し首を傾げた。しかしすぐに善良荘に戻ろうと踵を返す。そういえばこんな時間なのに随分辺りが明るい。空を見れば蒲公英の綿毛のような月がかかっている。蒲公英。きっと字面を気にする彼女は、「たんぽぽ」の方が可愛いと訴え、そういう風に何でも漢字にする無駄に硬いところは嫌いだと、少しむくれるだろう。だが俺は誰の影響も受けずに生きたいという性分だ。指図は受けない。そう思ったが苦笑する。

 飴袋、グレープ味の飴、ふとしたことで思い出してしまう彼女の事。こんな有様で影響も何もないもんだ。月を花に喩えてしまった時点で、俺は彼女の影響を受けている。蒲公英の漢字を知っていたのだって、彼女が花の話をたくさんしてくれたり、俺が彼女に貸してもらった本を義理堅く読んだからだ。いかん、俺の怠惰で安定した日々が彼女に毒されてしまう。

 しかし彼女の笑顔を思い出し、それも悪くないと思う。今日は久しぶりに彼女に手紙を出してみよう。



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