Deeper 2
五月十五日
昨日は疲れていたから、書きたいことはあったけど書けなかった。今日書く。
昨日、買い物の帰りに文部さんに会った。あまり話せなかったけど、嬉しかった。相変わらず無愛想だけど、優しかった。相嵯峨さんも居て、こちらをニヤニヤしながらみていた。やっぱり彼は苦手。別れ際、文部さんは今日も私に飴玉をくれた。もったいなくてまだ食べてない。机の上に置いている。グレープ味。そういえばいつもグレープ味だ。他の子は別の味みたいだけど。何でだろう? おかげでグレープ味の飴玉が溜まっている。まあ私はグレープ味好きだから嬉しいけど。もう夜だったから、あまり話せなかったのが、残念と言えば残念だ。
でも今日は天気も雨で、良いことはなかった。一昨日書いた文章を読んで、少し憂鬱になる。やっぱり私は嘘つきだ。言い訳ばかり。虚しいだけなのに。分かっているのに。私は他人の目を気にしているから嘘をついたんじゃなくて、自分に嘘をついて、現実を錯覚したかったからなのに。
夜、面会時間に間に合うように、学校が終わると急いでバスに乗った。行くだけでバス代も結構かかるし、時間もかかるのに、お母さんはそんなことお構いなしだ。私は蓮太君にあまり迷惑をかけたくないのに。バイトの先輩にも怒られてしまった。減給されるらしいけど、仕方がない。むしろ許してもらっている方だ。だから今日は、結局夜ご飯に味噌汁だけ食べた。
病院につき、お母さんの病室に入った。お母さんの病室の、薬の臭いは未だに苦手だ。布団に横たわって点滴をうっているお母さんは弱々しいけれど、いっそ心の方も弱々しくなって欲しい。やっぱりというか、病室に入るなり「遅い」と怒られた。笑って誤魔化すとまた怒る。私の笑顔はお父さんに似ているらしい。
用件を聞くと、お母さんは病院食が不味いことを愚痴りたかっただけだった。病院食より今日食べた味噌汁のほうが、量も少ないし不味い気がする。けれどそんなことは言わない。黙ってお母さんの話を聞いた。散々愚痴られると「もう帰って」と言われる。お金を使ってここまで来たのに。でも素直に帰った。外にでると既に辺りは真っ暗だった。雨が冷たかった。お月様も、分厚い灰色の雲に覆われていた。
バス停何個分かは歩いたから、風邪をひいたかもしれない。今日は早く寝よう。欲しいものがあったので、帰りに文房具屋に寄った。
バス停の傍で雨に濡れた猫を見つけた。段ボールの中に入っていたから、捨て猫だ。大きな目をしていた。黒猫だけど片耳だけ白いのが変わっていた。可哀そうだと思った。鳴くこともなく、ただ此方を静かに見ていた。放っておいたら死んでしまうだろうか。通行人はいたが、誰もこの猫に目も留めない。
誰かが拾ってくれることを、いるかも分からない神様に祈る。
私は拾わないけれど。
五月十八日
ついに新しい住人の一人が来た。もう一人はまだ来ていないらしい。でも今日来た人とは会うことが出来た。私の隣の部屋が文部さんの部屋で、その更に隣の部屋に来たらしい。名前は沖坂君。細い目と前髪につけていたピンクのヘアピンが特徴的な、とても優しそうでおっとりとした男の子だった。同い年で、やっぱり杉が丘高校の方に通うらしい。とりあえず挨拶できて良かった。
世間話がてら趣味を訊いてみると、手芸が好きらしい。男の人が編み物をするのは意外だけど、素敵だと思う。むしろ沖坂君は中世的な感じで、私より女子力が高そうだ。少し羨ましい。私にくれたクッキーも手作りらしい。善良荘の皆に配る予定らしく、律儀で良い人だと思った。アーモンドクッキーって言っていたけど、本当にアーモンドの香ばしい臭いがする。早く食べてみたい。お菓子を作るのも趣味なんて、私は余裕がなくてあまり作れないから素直に尊敬する。それに絵を描くのも好きなのだそう。いつか見てみたいな。私絵心無いから、教えてほしいかも。
私の趣味は何なのだろう。
最近、楽しいことってあったかな。
そういえば、もう一人の住民ってどんな人だろう。いつごろ来るのかな。女の子だったら嬉しいな。
仲良く、なれるかな。
五月十九日
今日は朝学校に行く途中で、文部さんに会うことが出来た。相変わらず格好いい。そしてやっぱり目の下に隈がある。いつみても文部さんはすぐに倒れてしまいそうな容姿をしている。ただ驚いたのは、後峰さんも一緒だったということだ。後峰さんのように綺麗で大人な人と一緒に居るのをみると、やっぱり不安になる。ひょっとして付き合っているのだろうか、とすら思った。
私に気づいた文部さんは、言う。
「ああ、お前か。最近学校はどうだ」
「えと、楽しいです!」
すると何故か文部さんは怪訝そうに、更に私に質問した。
「家族とはどうだ」
「はい、よく会いに行ってます!」
「クラスメートとは」
「はい、仲良くやってます!」
笑顔で答える。しかし文部さんはどこか悲しげな顔をした。私も不安になり尋ねた。変な事を言っただろうか。
「あの、何か」
「無理するな。たまには肩の力を抜いてもいいと思うぞ」
何を考えているのか分からないいつもの顔、けれどその声は確かに私を心配してくれていた。それは嬉しかった。好きな人に言われるのだから、とても嬉しいに決まっている。でも
「私、無理なんてしてないですよ?」
笑顔で言う。無理なんてしていない。大丈夫。大丈夫。こんなの全然大丈夫。文部さんは溜め息を吐くと言った。
「ならいいが」
「それより今日はお二人で何をしていたのですか?」
話を逸らしたいと思ったのもあるが、一番の理由は単純に知りたいからだ。私の質問に答えたのは後峰さんだった。
「買い物をしていたのよ、それで三人で飲み会」
「朝からですか?」
「正確には朝まで」
確かに後藤さんの顔はほんのり赤かった。それにいつもに比べてお喋りにもなっているのかもしれない。お酒を飲むのはそんなに楽しいのだろうか。私には分からない。質問を続ける。
「三人って、あと一人は」
「善良荘の人だけど、多分あなたは知らないでしょう。304号室なのだけれど」
確かに知らないと言うと、後峰さんは少し表情を和らげた。気がした。後峰さんはいつも無表情で、しかも少し表情を変えても感情が読み取りにくい。とても綺麗なんだから、もっと笑ったらいいのにと思う。その時も私はぼんやりと「モデルみたい」と思っていた。正直私は後峰さんを尊敬している。少し冷たいけれど、冷静でしっかりしているところは羨ましい。でも一番羨ましいのは、嫌な事があってもきっと表情を変えず、動じないのだろうな、ということ。もしかしたら何も感じないのかもしれない。
「粗暴で馬鹿な人が居るの」
文部さんが苦笑して付け加えた。
「まあ、良い奴なんだがな」
少し会ってみたいと思った。そして大人になったら、私もその中に混ざりたい。
二人とはその後すぐ別れた。学校に遅刻してしまうから。
いつも思う。早く大人になりたい。
そして自分でお金を稼げるようになって、逃げてしまいたい。誰も居ないような広くて寂しい世界に。でも大丈夫。まだ私は我慢できるから。
学校に行って、昼休み。食べ物を買いに購買に向かう途中、雫が言った。
「今日は来るの遅かったわね」
「途中で文部さん達に会って」
「ふうん、良かったじゃない」
少し意味深に言った雫。「ところで」と雫は切り出す。スマホの画面を操作して私に見せた。一応学校にスマホとかは持ってきたらいけないんだけど、雫に校則は通じないから仕方ない。画面には可愛い服が映っていた。青と白のノースリーブのシャツに黒いミニスカート。厚底のサンダル。
「昨日買ったの、可愛いでしょ」
雫は可愛い服や文房具を買ったりするのが好きだ。私が頷くと雫も満足げに笑った。けれどいつもどうやって買っているんだろう。思い当たるふしがあったので聞いてみる。
「この前のお金で買ったの?」
すると雫は露骨に顔を歪めた。そしてかろうじて聞こえる程度の声で言った。
「……燃やすよりはいいでしょ」
意味は分からなかったけど、気を悪くしたのは分かった。私は話を変える。雫が立ち止まったので、誘導して、とりあえず近くのテーブルに一緒に座る。パンを買うのは後からでいいと思ったから。
「そ、そういえばさ、一人だけど来たよ。新しい住民」
「……そうなの」
「あ、知らない? 善良荘便りにも書いてあったんだけど……っていうか今月の絵、可愛かったよね!」
「私あれ、読まずに捨ててるから」
そっぽ向いたまま、おざなりに応える雫。
「あ、……そうなんだ。それでね、今月はわざわざ相嵯峨さんが届けてくれたんだけどね、やっぱり雫の言う通り優しいんだね、相嵯峨さん!」
私の言葉の何処に驚いたのかは分からないけど、雫は目を見開いた。向こうを見ているから怒っているのか悲しんでいるのかは分からないけど、泣きそうな声で言う。
「……私の部屋には、来なかったんだけど」
「じ、じゃあきっと雫が留守にしていた時に来たんじゃないかな?」
けれど雫は何も返さなかった。沈黙が続いた後、思わず私は提案した。もう一度話題を変えようと思って。
「あ、ねえねえ昼ご飯何食べる?」
「……サンドイッチ」
「購買のサンドイッチ美味しいもんねー! じゃあ私買ってくるよ」
「結構よ」
立ち上がりかけた私に対し、雫は冷たく言った。だから私も座りなおす。雫は背けていた顔をこちらに向けた。やはり少し泣いていたのか、目が赤かった。雫は冷たく笑った。
「私、あんたのそういうところ好きよ。便利で役立って使いやすくて。でも、だから嫌い。あんたのそういうところ」
「どういう意味かな?」
雫が少し怖くなって、恐る恐る聞いた。
「別に私を馬鹿だと思ってるなら構わない。否定もしない。でもあんたまた同じになるの?」
反論しようとおもって口を開いたけど、声は遮られた。同じクラスの花岡さんに。今日も彼女は堂々と化粧をしている。やっぱりこの人は苦手。クラスの独裁者でも気取っているのかもしれないけど、いつも自分の思い通りに進まないと勝手に怒る。正直人の悪口を言うところしかみたことがない。彼女は私達が陣取っているテーブルに腰かけた。そして一緒に居た沢中さんに甲高い声で言う。
「今日めっちゃテーブル混んでない? 座る場所ないんだけどー」
花岡さんは高校だけ一緒だから堂々としているけど、雫と中学も一緒だった沢中さんは明らかに怯えていた。
「花岡、屋上に行こうよ、コイツはやばいって」
けれど花岡さんは動じてない。まあ別に席を取るのが目的じゃないのは分かっているけど。私は思わず苦笑した。彼女は雫に言う。
「すみませーん、席ゆずってくれない?」
雫は露骨に嫌そうな顔をする。花岡さんが嫌いというよりは、単に花岡さんの行動が理解できないんだろう。
「は? 嫌よ。屋上にでも行けば。先に取った人に座っていい権利があるんでしょ」
冷たく言い放つ雫に、花岡さんは眉を吊り上げる。そしてもともと高い声を更に高くして雫に怒鳴る。耳が痛い。
「はあ? 権利とかマジ偉そうなんだけど。だいたいさ、前から思ってたけどあんた何様のつもり? ちょっと可愛いからって、こんなお願いもきいてくれないわけ? つか、別にあんた可愛くないし」
「ちょ、花岡、やめろって」
沢中さんが花岡さんを止めようとするけど、花岡さんは無視している。雫は口の端を持ち上げて言う。
「そうね、でもあんたはブス。昔いじめもやってたみたいだし、馬鹿でもあるのね」
それを聞いた花岡さんはさらに激昂して、雫に向かって殴り掛かろうとする。短気だなあ。雫も適当に流せばいいのに。と、私はぼんやりしながらそんなことを考えていた。
「ふざけるのも大概にしろよ、クズ! 上からあたし達見下したような言い方しやがって! むかつくんだよ! あんただって中学の時いじめられてたくせに! あたし噂できいたんだからな! それにあたし、やばい知り合いもいるんだよ? あたしの知り合いに言ったら、あんたの家族ごと殺すかもな!」
その発言に怒ったのか、雫は表情も変えず、私からカッターナイフを借りるとそれを向けた。たじろく花岡さん。きっとカッターナイフが怖かったわけじゃない。ただ、それについていた血痕が怖かったのだろう。
「殺人予告をされたんだもの。その知り合いに依頼される前にあんたを殺したほうが、いいわよね」
それでもつっかかる花岡さんに対し、雫はカッターナイフで容赦ななく彼女の腕を切る。赤い血がテーブルにつく。傷は浅いけど花岡さん達は汚い悲鳴を上げてどこかへ行ってしまった。まあ普通は脅しだと思うはずだし、まさか本当に傷つけられるとは思わなかったんだろうな。周りからも悲鳴が聞こえる。私はテーブルについた血をティッシュで拭きながら訊く。
「騒ぎになったけどどうするの?」
「別に。花岡さん、今まで暴行とかしてたみたいだし、私達が被害者面すれば大丈夫よ。多分今の見て先生に言う人なんていないだろうし」
私はまわりの青ざめた人達を見て、確かにそうかもしれない、と思う。特に中学が同じだった人は言わないだろう。そんなことしたら雫が仕返しになにするか分からない。私は更に訊く。
「なんで違う中学の花岡さんのことに詳しいの?」
「榎立君から聞いた」
まあ確かに榎立君は引っ越してくる前は花岡さんと同じ中学校だったらしいけど。
「やっぱり仲良いよね、榎立君と」
「断じて違う」
あまりに強く否定するものだから、思わず笑ってしまった。そして余計だと分かっていながらも、言った。
「さっき私にあんなこと言ったけど、雫も進歩してないよ」
雫は少し悲しげに返した。
「そうね。でもあんたのほうが、やっぱり変わってない」
雫の視線の先には、私が使い古したカッターナイフがあった。
心の中で言う。私もね、雫のそういうところ好きで、だからこそ苦手だよ。
家に帰って少し残念なことがあった。この前沖坂君に貰ったクッキーを落として割ってしまった。正直食べられる状態じゃなかったので、仕方なく捨てる。
また会ったら、何て言おう。「美味しかったよ」って言ったほうがいいのかな。
五月二十日
今日もお母さんから電話が掛かった。昼から病院に来い。私は何だか疲れていた。だから学校があるから無理だと、強引に電話を切った。するとまた電話が掛かる。仕方なく出る。お母さんが怒っていた。
「なんで病院に来ないのよ! あんたはあの人のせいで入院しているあたしを、可哀そうだと思わないの? 一体誰がここまで育てて来たと思ってるの! そんなに学校が大事? わかったわよ、あんたなんかあの人と一緒に死ねばいいんだわ!」
死ねと言われても、何も感じない。私は心の中で唱えた。大丈夫。大丈夫。まだ大丈夫。お母さんはまだヒステリックに言う。病院の中だから静かにした方がいいのに。
「またね、蓮太君に言われたのよ。いい加減にしたらどうだ、って! わかる? あんたのせいで勘違いされてるのよ、あたしは! 悪いのはあんた達なのに! 本当けち臭い奴!」
「でも蓮太君にこれ以上借りるのは悪いから……」
思わず反論したら、遮られる。脳裏に幼い頃私に見せた、きつく睨むお母さんの顔が浮かんだ。まるで私のことを虫位にしか思っていないようなお母さんの顔。お母さんの声はまた大きくなる。
「はあ? それがあんたがここに来るのと何の関係があるの? どうせ、あんたがたくさん使って迷惑かけてるだけでしょ? そうやってすぐあたしのせいにする! あんたはいつもそうやって、あたしの言うことに一々反論してくるのよ! 黙って言うこときけよ! あの時だって、あの人の肩を持って……!」
私は受話器を持っている手と反対の手で、拳を強く握った。大丈夫。大丈夫。大丈夫。思い出すのは怖くない。日記に綴るのも辛くない。だって何かに書かないと壊れそうになって、書き始めたのは私なんだから。だから、大丈夫。
「あんたなんか育てるんじゃなかっ」
大丈夫。
気にしないでお母さん。
私、そんな言葉で泣かなかったよ。きっと、叫ぶお母さんに気づいた蓮太君が受話器を取り上げなくても、大丈夫だったよ。
だから私を嫌いにならないで。
お母さんから強引に受話器を取ったのだと思うけど、蓮太君が電話で私に言った。小さいけど遠くから、お母さんの「返しなさいよ!」という叫びも聞こえた。
「わりぃ、まさか姉さんがまだ懲りて無かったなんてな。気づくのが遅かった。一応近くのナースに頼んで、睡眠薬を投与しとく」
「ありがとうございます」
今思えば不思議だった。私は電話越しでもちゃんと笑顔で、はっきり言った筈なのに。
「また泣かしちまったか」
そう勘違いされたのは、とても心外だった。
「泣いてないですよ。こちらこそ迷惑かけてごめんなさい」
「遠慮しなくていいって。俺にとっちゃ、お前は妹みたいなもんだ。今月のは今日送るからな。……なぁやっぱり少ないと思うんだが」
「いえ、他の親戚の方も援助してくださってますし、お父さんだって……」
蓮太君は先月実家が火事になったのに、おこがましいことを言えるわけがなかった。それよりは嘘を吐いた方がいいと思った。お母さんの言う通り、私が我慢すればいいだけだ。
大丈夫。大丈夫。寂しくなんてない。何に対してだって許すことは出来る。怒りっぽいお母さんだって、許せるよ。だってお母さんには今まで、たくさん許してもらってきているんだから。
通話を切って、しばらくしたら郵便受けに何かが入る音がした。外に出て、取ってみた。いつも通り、桃色の便箋。裏返せば「蓮太」と書いてある。中に持って入り、開けて中身を確認する。一万円札が二枚。
おかしいな。
ふとこのページをもう一度みると、水滴でペンのインクが滲んでいた。水なんて零してないのに。雨がこの日記にあたるわけもないのに。まさか、泣いているわけもないのに。
別に私は辛くないのに。
悲しくも、虚しくもないのに。
こんなだから、私は嫌われるのに。反省しないといけないのに。
蓮太君にお礼の手紙を書こう。宿題もしなきゃ。気に障ることを言ってしまったみたいだから、雫にも謝ろう。明日のご飯、買いに行かなきゃ。こないだ病院に行ったのでお金を使ったから、今日は夜ご飯無しでいいや。明日は英語の小テストがある。勉強しないと。この日記を書いている途中、バイト先から電話が掛かった。解雇だそうだ。欠席ばかりしているから無理もない。新しいバイト先、早くみつけないと。高校生を近場で雇ってくれるところなんて、そうないと思うけど。
そういえば今日、バレー部の部長に会った。彼女と会うのは部活を止めて以来だったから少し緊張した。部長は「どうしてやめたの?」と訊いた。私は言うのが恥ずかしくて、黙っていた。ただ一言、謝った。優しい部長は「もし事情があるならいつでも相談して」と笑ってくれた。
「だって君、バレー好きでしょ?」
少し嬉しくて、とても申し訳なかった。でも同じクラスのバレー部の子をみかけたから声を掛けたけど、無視された。気にしてない。大丈夫。部長の優しさだって、怖いなんて思ってない。多忙で面倒な人付き合いが嫌というわけでもないはず。もちろん、お金のやりくりやお母さんと会うのに疲れたわけでもない。
とても実りが多く、充実した日々を送っている。送らせてもらっている。不満なんてない。そんなのあったら蓮太君に失礼だ。優しい友人や住人、入院しているけどとりあえず元気でいてくれているお母さん、仕送りしてくれる蓮太君。とても幸せだ。人生に満足している、そうに違いないのだ。
ただ私は。
そういえば、前にお母さんの病院に行ったとき、帰りに文房具屋でカッターを購入した。五本目だ。さっそく切れ味を試してみようと思う。今、目の前にある。手に持ってみると軽いけれど、鋭く光っていて切れ味は良さそうだ。厚い瘡蓋ができている私の手首でも、すんなり静脈までは届くだろう。