Can you forgive me? 3 世界全てが色づいてみえた。
それからだいたい二週間が経った。
私達は度々一緒にお出かけをした。私は学校に行くことを諦めた。グラッセさんはそれを非難するでもなく、一緒に出かけよう、と誘ってくれた。嬉しかった。グラッセさんは意外と成績はいいらしく、講義をさぼっても構わないらしい。水族館、公園、商店街。時には県外まで足を運んだ。
いつも淀んで見えた景色。でもグラッセさんがいれば、世界全てが色づいてみえた。
とても幸せだった。
日差しの柔らかな朝のことだった。自分の携帯電話が鳴る。グラッセさんからだ。私は少し嬉しく思いながら、通話に出る。
「あ、もしもし佳代ちゃん?」
「おはようございます、グラッセさん」
「うん、おはよう。あのさ」
私はグラッセさんの口調がいつもよりも固いことに気づいた。緊張しているのだろうか。
「今日、夕方から会えないかな」
「大丈夫ですけど……」
「じゃあ五時位に君の家に行っていい?」
「構いませんが、場所分かりませんよね?」
そう訊くと電話越しに「あ」という少し間抜けな声が聞こえる。グラッセさんが慌てるのも珍しい。私は少し笑って提案する。
「そういえば前公園に行きましたよね。あそこの近所なので、私そこで待っています」
「本当? じゃあそこに行くよ」
「でも夕方からって珍しく遅いですよね。無理に今日じゃなくても」
「いや午前はちょっと講義に出ないとさすがにやばくて。それにこういうことは早く済ませたいし」
「すみません、私のせいで講義に出れなくて……。でも、こういうこと、とは?」
「いや、なんでもないよ」
珍しく声を荒げるグラッセさん。本当に今日はどうしたのだろう。まあ私は構わないので、確認だけして電話を切った。それにしても。
今日はついている。こんな好都合なことってあるのだろうか。機嫌が良いので、昼食にいつもは二個しか作らないおむすびを四個作る。
春だから夕方になってもまだ大分明るかった。しかしもともと寂れた公園だからか、私以外に人の姿はない。時計を確認する。まだ約束より十五分も早かった。
風が吹き、桜の花びらが舞う。思わず目を瞑る。そして風が止み花びらが地面に落ちたかと思うと、そこにはグラッセさんがいた。初めて会ったときもだが、グラッセさんがまるで花びらから現れるようだ。まあ現実的に言わなくても、それはタイミングの問題なのだが。しかしまだ十五分前だと余裕ぶっていたため、心の準備が出来ていなかった。私は若干どもりながらも挨拶をする。
「こ、こんばんは。ず、随分早いですね」
何故かグラッセさんも緊張しているのか、硬い声で言う。
「あ、ああ、うん。佳代ちゃんこそ」
そして何故か訪れる沈黙。私は勇気を振り絞って口を開く。
「実は今日、グラッセさんの用事のついでに言いたいことがあって」
「何かな」
一呼吸置く。
心臓の高鳴りが聞こえそうだ。
けれどはっきりと、前を向いて言う。
「好きです」
この言葉を自分の口から言ったのは初めてだ。早く返事が欲しいのに、答えを聞きたくないとも思っている。どこかへ逃げ出したい気持ちもある。けれど不思議と、口にしたことを後悔はしていなかった。
グラッセさんはゆっくりと口を開く。
「まいったな」
少し困った表情のグラッセさん。
やっぱり駄目だったようだ。
私は涙を堪え、冗談だということにしようと口を開く。しかしそれより先に彼は私が大好きなあの笑顔で言った。
「先に言われるとは思わなかった」
「えっ」
その言葉に驚き、しばらく私は呆然する。ようやく意味が理解できると顔が火照っていくのが自分でも分かった。
「今日はそれを君に言いたかったんだ。だけどうん、何だか恰好がつかないな。でも」
私の顔をみながら、グラッセさんは優しく言う。
「嬉しかったよ、とても。僕は佳代ちゃんが好きだから。何でも自分のせいにしてしまう所も、優しい所も、生真面目な所も全部ひっくるめてね」
「わ、私も! グラッセさんの優しい所、明るく励ましてくれる所、面白い所、少し子供っぽい所……貴方の全てが大好きなんです」
言ってまた恥ずかしさがこみ上げる。そんな私をからかうようにグラッセさんは笑う。
「うん、君のそういう分かりやすい所なんか特にね」
「……分かりやすいですか?」
グラッセさんは大きく頷くと、静かに口を開いた。
「でもこれは言わせてね。さすがに恰好つかないから。……だから、僕と付き合ってくれないかな、佳代ちゃん」
私は何かを返すより先に、喜びを実感するよりも早く、涙が目から溢れることが不思議で仕方なかった。ひらひらと舞う桜ですら、私を祝福してくれていると勘違いしそうになる程に、私はただ。
「はいっ」
とても幸せだと感じていた。
さっそく明日会う約束をし、私は家に帰った。
嬉しさのあまり、無意味にベッドの上で動いて、携帯電話に登録されている「グラッセさん」の文字を見ては、それを指でなぞった。グラッセさんの顔や今日言ってもらったこと、一つ一つを思い出すだけでとても幸せな気持ちになれた。ふと、電話帳を眺めてみる。私はグラッセさんの一つ下に登録された名前を見つめ、少し迷い、それを消去した。多分もう、会うこともないだろう。
何故かそれだけで凄くすっきりとした気持ちになり、ベッドから起き上がると、部屋を掃除し始める。明日は私の家に招くことになっているからだ。家の中に塵一つだって見つけられたくない。私は今まで一番念入りに掃除をした。まあもともと殺風景な部屋だから、掃除に時間はかからなかったが。
そして明日のことを思うと、幸せを共有できる相手が何故か居ないことがもどかしくなり、布団に入っても中々寝付けなかった。
今日も待ち合わせ場所は公園だ。そこから私の家に行く手筈になっている。
公園に到着して少し待っていると、すぐにグラッセさんが来た。しかし昨日のことがあるからか、少しぎこちなかった。だから私もそれにつられて、挨拶をしようとしたら噛んでしまい、グラッセさんに笑われた。私も少し笑った。
私の家へ向かう途中、グラッセさんが手を握ってくれた。少し気恥ずかしかったが、それよりも嬉しくて、私も握り返した。
家につくと、グラッセさんは開口一番にこう言った。
「大きいね」
確かに一人暮らしにしては大きすぎる程だ。だからたまに寂しくも感じる。私の敷地には家の他に小さいが納屋もある。といっても、今ではただの物置だ。グラッセさんはその納屋をみると、今度はどうしたのかそれをじっと観察し始めた。しかしすぐに私に言う。
「そういえば、僕、携帯電話を君に持ってもらって、そのままじゃなかったかな。実は昨日から無くって」
そうだっただろうか。覚えがない。しかし念のため探すことにする。
「あ、じゃあ今から探してきます。すみませんが、玄関で待ってて下さい」
「あ、うん」
だが探してみても、自室にそれらしきものは無かった。グラッセさんの勘違いだろうか。私は玄関に出る。そして納屋の前に居るグラッセさんに声を掛ける。
「すみません、ありませんでした」
「いや、じゃあ僕が家でなくしただけかも。せっかく探してくれたのにごめんね」
「いえ、構いません。それよりどうぞ、入ってください」
グラッセさんは家に入ると笑って言った。
「綺麗だね。佳代ちゃんのお母さんは家事が得意なのかな」
私は二階の私の部屋へグラッセさんを連れて行きながら、答える。
「いませんよ」
「え?」
私はグラッセさんを部屋に入れて、テーブルに座らせる。そしてあらかじめ用意していたお茶を注ぎ、グラッセさんに渡す。
「ああ、ありがとう。……ねぇ、居ないってどういう意味?」
「母は居ないということです」
少し気まずそうな顔をするグラッセさん。彼は続ける。
「じゃあお父さんと二人暮らし?」
「いいえ、一人です。……二人とも随分前に他界しました」
「……兄弟とかは?」
思わず動きが止まる。しかし何でもないように答える。
「……い、姉がいました。ですが今は離れ離れに」
「ごめん、気が利かないことを訊いた」
頭を下げたグラッセさんに、私は慌てて「気にしてない」と言う。私は苦笑した。
「今は親戚が援助してくださっているので、生活には不便してないんです。だからそんなに気を遣わないで下さい」
若干の嘘を織り交ぜるが、別段大きな問題ではない。
「そう……」
「それよりグラッセさん、昨日私の家に来たいと言ってくれたので招いたのですが……どうしたのですか、急に」
「いや、その、もし良ければ、本当は君の親御さんに挨拶したかったんだ」
「挨拶?」
グラッセさんは少し照れくさそうに笑った。
「貴方の娘さんと真剣にお付き合いさせていただいています、って。ごめん、本当勝手なことを言っているんだけど。やっぱり出会い方も出会い方だったしね」
思わず私は恥ずかしくて俯く。嬉しくて、顔がにやけているかもしれない。グラッセさんは続ける。
「迷惑かも知れないけれど、本気でいつか一緒に暮らせたらいいなとも思っている。佳代ちゃんが高校卒業したらすぐにでも。……なんて、やっぱり気が早いかな」
苦笑するグラッセさんの服の裾を、私は無意識の内に掴んでいた。私は俯いたまま言う。恥ずかしくて少し自分の声が小さかった。
「……私も、それがいいです」
顔上げて、驚いた表情のグラッセさんに、笑って見せる。グラッセさんは微笑んだ。
「……ありがとう、佳代ちゃん」
それから二人でトランプをしたり、ゲームをした。一人ではとても退屈なものでも、グラッセさんとだったらとても楽しかった。特にトランプのババ抜きでは、一勝もすることが出来なかった。七並べもだ。どうしてそんなに強いのか尋ねると、グラッセさんは笑った。
「それはほら、佳代ちゃんが単純だから」
その言葉にむくれた私は、少しムキになって、勝つまでトランプを続けた。そしてなんとか一回だけ勝つことができた。でもそれは、グラッセさんが勝たせてくれただけだということは、言われずとも分かった。その優しさも嬉しかった。
だけどたまに思う。私はグラッセさんに何もできていない。
それからの日々も幸福そのものだった。
今まで通り色んなところへ出かけ、一緒にご飯を食べ、たまにお泊りもした。ゲームセンターに行った時のプリントシールや色んな場所で撮った二人の写真。それらの量は日に日に増えていった。
ただ交際前とは違い、歩くときの距離が短かったり、たまに手を繋いだりという風に変化もあった。それらの一つ一つは私を高揚させた。
それでもグラッセさんは今までと変わらないことの方が多かった。彼は名前も、好きなことも、嫌いなことも、趣味も教えてくれない。
ただ私が知っているのは、今まで通り、彼がマロングラッセを嫌っているということだけだった。
その日、グラッセさんは私の家に泊まりに来ていた。夜中で、私の部屋は鳥の鳴き声も聞こえないほど、静かだった。
ふと話声が聞こえて、目を覚ました私は、とりあえずリビングに向かった。するとそこからは、タイピング音も聞こえた。
グラッセさんだった。グラッセさんはパソコンを打ちながら、誰かと電話をしている。その時の顔はパソコンの光に照らされていて、すこし不気味だった。
「大丈夫……まだ寝ているよ。それより……ああ、なんだ、そうか。うん、分かってる。じゃあ、五月六日の三時に市立図書館で」
そうして電話を切ると、突然後ろを振り返った。私と目が合う。グラッセさんの口元は笑っているものの、目はどこか怒っていた。彼は少しいつもより低めの声で私に聞く。
「……佳代ちゃんか、びっくりしたよ。眠れないの? ……いつからそこに居たの?」
私は正直に答えてはいけないと感じ、笑顔をつくる。
「今さっきです。喉が乾いて。……パソコンで何をしているんですか?」
「ああ、何、ただのバイトだよ」
パソコンを使っていた理由は分からないが、私が最初に思ったのは「浮気をしている」ということだ。私は確かめるために言う。
「ところでグラッセさん。明日会えませんか? 二時半とか三時とか」
当然明日は五月六日だ。グラッセさんは少し固まったような気がした。彼は言う。
「ごめん、明日は講義があるんだ」
私はさらに微笑む。
「そうですか。なら、仕方ないですね。ところで少し見てもいいですか」
パソコンの画面を覗き込むと、凄い速さで閉じられた。だから見ることはできなかった。彼に苦笑されながら諭される。けれど目は笑っていなかった。
「人のプライバシーを侵害するなんて、感心できないなぁ」
「……すみません」
「もう時間も遅いよ。早く寝た方がいいと思うけど」
私は冷蔵庫からジュースを取り出して、それを飲み、すぐに部屋に上がった。
布団にもぐって最初に思ったのは、明日の三時は本を読むことにしよう、ということだった。
さて、本題です。