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Can you forgive me? 2 ようやく世界全てがきれいな灰色にそまりました。

 目覚まし時計の音で目を覚ます。時計の針は六時半を示していた。ふと、学校に行こうか迷う。しかし昨日の奇妙で暖かな出会いを思い出し、私はそそくさとクローゼットから制服を取り出した。

 着替えている最中、私は思う。……もう一度、彼に訊いてみよう。どうしても、やり直すことは出来ないのか。

 ……断られたって大丈夫。私はもう一人じゃない。グラッセさんという謎の友人がいる。恐れる必要なんてない。


 朝食に昨日コンビニで買ったパンを食べようとしたが、その横に『パンばかりじゃ体に悪いよ』という書置きがあるのに気付く。字が意外と綺麗で驚いた。コンビニ袋を持って帰ったところを見られただろうか。私は「貴方には言われたくないです」と聞こえるはずもないが呟き、パンにかぶりつく。仕度を一通り済ませると玄関へ向かった。

 私は朝、ぼーっとしてしまうから深く考えなかったが、昨日の出来事は夢だったのではないだろうか。ふと一時的な思いつきが怖くなり、急いで携帯電話を操作する。電話帳を開き、一番上の項目を確認した。

 グラッセさんと書かれている。私は心の底から安堵した。……思えば、随分と私はグラッセさんを信用している気がする。まぁいい。彼は信用できる人だ。

 なんとなくグラッセさんのことを思うと、心が温かくなった。私は意を決し、靴を履いて家のドアを開ける。そして居ない家族に向けて呟く。


「行ってきます」



 目の前には昨日と同じような青空。

 多分もう、あの桜並木で足を止めることはないだろう。





 学校から家に帰った。そして何も言わずにドアを開ける。逃げるように自室に行くと、私はベッドに身を投げた。ボン、とベッドのスプリングがはねる。

 目を手でおおう。大きな雨音が聞こえた。……朝の天気は一変し、夕方近くなると叩きつけるような大雨が降りだしたのだ。当然傘など持って行かなかった私は、今、服も頭もびしゃびしゃに濡れている。いや、多分濡れているのはそれだけではない。

 春なのに寒い思いをしたが、ある意味この雨には感謝している。おかげで帰り道、泣いていても誰も気づかなかった。制服は明日までに乾くか分からないが、どうでもいい。どうせもう、学校に行くことはないだろう。


 今日、私は彼にやり直せないか聞いてみた。彼の返事は私を驚かせた。同時に、やり直せるわけがない、

と納得もした。

 知らず知らずのうちに嗚咽が漏れる。けれど雨音が邪魔し、さほど大きな声には聞こえなかった。雨の日もいいものかもしれない。よく、今日の天気は私の心情のよう、という言い回しを聞く。いつもは詩的すぎると思っていたが、今回ばかりは共感せざるを得なかった。

 今の気分を、首を吊りたくなる気分と言うのだろうか。分からないが、自分が死にたいと思っていることに気づく。知らなければ良かった。


「……助けてください、グラッセさん」


 小さな声で呟く。正直、誰かに相談したかった。慰めてほしかった。私は制服のポケットに入れたままになっていた、携帯電話を取り出す。しかし電話帳を開いたところで、指が止まる。昨日今日で頼ってしまったら、嫌われてしまうのではないか。逡巡していると、逆に着信があった。グラッセさん。急いで出る。涙声を誤魔化しながら言う。


「……もしもし?」

「あー、もしもし佳代ちゃん? 僕、えーっと、グラッセだけど覚えてるかな?」


 彼の明るい声が、とても落ち着く。


「はい、覚えています」

「良かった、実はその……お節介だとは思うんだけど、気になって」


 本当に優しい人だ。先程とは違う意味で零れそうになった涙をこらえ、静かに言う。


「ありがとうございます。……私もグラッセさんとお話したくて」

「はは、優しいね佳代ちゃん。それでさ、今日学校行った? いや、まあ答えなくてもいいんだけど」

「行きました。行ったのは行ったのです、が」


 意識していたはずが、学校でのことが思い出され、涙声になってしまう。それに気づいたのか、グラッセさんが心配そうに言う。


「佳代ちゃん、泣いてるの? ごめんね、やっぱり、無理させたかな」

「いえ、そんなことは! ただ……すみません、明日どこかで会えませんか」

「え、えーっと、別にいいけど」

「すみません、会ってその時に相談してもいいですか。私、明日は学校行く気になれなくて」

「……うん、わかった。じゃあ明日の昼十二時、市立図書館でいいかな」


 私の我が儘に、付き合ってくれるグラッセさん。彼は理由も追及しないでくれた。私は涙混じりの声で言う。


「はい、……ありがとうございます」




 翌日、市立図書館には約束の十二時よりも随分早く到着した。相談に乗ってもらうという名目なのに、服を選ぶのに異様に時間がかかった気がするのは、気のせいということにしておく。


 私の家から市立図書館へは、交通機関がなければとてもじゃないが行けられない。だから普段はあまり行かないけれど、久しぶりに外観をみて、やっぱり大きいことを確認する。後ろを向けば、お洒落なショッピングモールもある。中学生のころはこのショッピングモールにも友人と何度か行っていたが、最近は一緒に行く人もいないので全然来ていない。

 

 それにしても、と私は空を見上げる。昨日の大雨が嘘のような、青空だ。太陽の日差しが眠気を誘う。グラッセさんは晴れ男なのだろうか。


 待ち合わせ場所はあくまでも図書館だが、図書館では話をするのに適さない。丁度ショッピングモールの前に小さなクレープ屋がみえる。その手前にはテーブルも。あそこならよさそうだ。そんなことを考えていると、一日ぶりの顔が見えた。彼は私に向けて手を挙げる。私は彼のところへ駆け寄った。


「こんにちは。……今日はすみません、突然呼び出して」

「いいって、いいって。場所を指定したのは僕の方だし」


 グラッセさんはまるでモデルさんのような、モノトーン調のお洒落な格好をしていた。ふと、朝あれだけ散々悩んで選んだ自分の服装に、自信がなくなってしまう。でも、そんなことどうでもいい。グラッセさんと会えたことが、とにかく私を高揚させた。


「へぇ佳代ちゃんの私服ってそんなんなんだ。可愛いね」


 グラッセさんの優しさからくるお世辞だと分かっていても、顔が熱くなった。私は俯きがちに答える。


「……そんなことないです」

「相変わらず遠慮するね、まぁいいけど」


 そう言うと彼は辺りを見回した。そして先程私も見つけたクレープ屋を指して言う。


「あ、話すならあそことか良さそうだね」



 私はチョコバナナクレープを、グラッセさんはブルーベリーチーズクレープとストロベリーカスタードクレープ(しかもクリーム二倍)を買うと、手短なテーブルに着いた。すると私達が座ったのを見て、ウェイトレスさんがお水の入ったコップを二つ、テーブルの上に置いた。私はそれを一気に飲み干した。

 グラッセさんの前に置かれた二つのクレープ。私は思わず言う。


「……結構、食べられるんですね」

「ああ、うん。何か写真が美味しそうだったからさ。いやぁ本当、ああいうのって上手いこと撮るよね」

「でもコーヒーは甘いのをお嫌いになってた気が」

「ああ、それは」


 グラッセさんは少し伏し目がちになり、溜め息を吐く。


「甘いコーヒーじゃ眠気覚ましにならないからさ。苦くないと、いつの間にか寝ちゃうんだよ」


 そういうものなのだろうか。確かにあそこのコーヒーは、思わずお水を入れて薄めようかと思うくらい不味かったが。私は眠気覚ましの為にコーヒーを飲んだことも、ブラックを飲んだこともないので分からない。グラッセさんは微笑み、続ける。


「それに、クレープは甘いのが王道。コーヒーは苦いのが王道。甘いコーヒーなんて、神様に唾吐くような代物だと思わない?」


 それは素晴らしい持論だ。しかし私はあくまでも甘いコーヒーが好きなので、そこは敢えて何も言わない。代わりに少し思ったことを言う。


「……意外です。グラッセさんは神様とかそういう宗教的なものは、一笑にふすような方だと思っていたので」

「……どうして?」

「誰にも頼らないで生きているような、そんな気がします。グラッセさんは」


 ふと彼の目がほんの一瞬、鋭くなった気がした。しかし彼はすぐに言う。


「つまり僕は、神様のような信憑性のないものには、依存しないように見えるってこと?」

「はい」


 彼は少し首を回すと「そうかなぁ」とぼやいた。


「僕も困った時の神頼みくらいはするけど」


 それには同感だった。私もそこまで宗教的なものを信用する気にはなれない。けれども本当に困った時には神様に縋っている。高校受験の時も。学力考査の時も。そして昨日も。いや、違った。昨日、私が苦し紛れにすがったのは……グラッセさんだ。何となく思い出してしまい、また顔が火照る。私は意図的に話題を逸らす。


「まぁそれは置いといても、……クレープ二つは頼み過ぎでは?」

「あ、やっぱりそう思う?」


 苦笑する彼に、頷く私。私はグラッセさんの前に堂々と置かれているクレープを凝視する。可愛らしい模様の入った包み紙から、丁度良くはみ出ているクリーム色の薄い生地。ご丁寧にほんのり焦げ目もついている。そしてその生地が包んでいるのは、色鮮やかでつややかなフルーツと、生地が破けそうなほど大量に入れられた雪のように白い生クリームとカスタード。私が今手に持っているものも、具材が違うだけでおおよそそんな感じだ。そしてもう一つ、この三つのクレープには当然のように共通している点がある。それは。


「……でも、本当美味しそうなんだよね」


 クレープを見ながら感嘆の声を漏らすグラッセさんに、私はもう一度深く頷いた。フルーツはどうみても新鮮なものだろう。それが二種類のクリームとバランス良く配置してある。しかも生地から覗くその割合が、まるで美味しそうに見える黄金比であるかのように、ズル賢い程に私の心を掴んでいる。私は耐え切れなくなって、グラッセさんに言う。すると何故かタイミングが重なってしまった。


「いただきます」


 丁度二人で同時に言うと、どちらからともなく笑ってしまった。そして私は小さく一口、二口と食べ進めた。そして三口目を食べたところでふと動きを止める。そして何故か同じ頃合に、これもまた動きを止めていたグラッセさんを見る。私は言った。


「不味いですね」


 グラッセさんもいつもの笑顔ではなく、何処か神妙な顔をした。


「うん、生地はパサパサ、フルーツも明らかに新鮮なものじゃないね。つやがあったのは多分、何かを表面に塗ったからだろうね。クリームも甘すぎる。しかもカスタードの方は何故か苦い。それに、何だろう。このカスタード、後味が凄く悪い。市販のものを使ってくれていた方が良かったね、正直」


 そう、そうなのだ。はっきり言うと前回のコーヒーよりも美味しくない。私は思わず聞く。


「……本当に、大丈夫ですか。その量」


 彼は静かに目の前の、巨大で今となっては恐ろしくも見えるクレープに、静かに焦点を合わせた。そして私が今までみた中で、とびきり一番の笑顔を浮かべた。彼は楽しそうに言う。


「絶対に隣を見ずに、聞いてね。今、隣には一組のカップルが座っている。でも彼女の方が荷物をまとめているから、多分すぐ帰るよ。あ、今席を立った。そして本来ならばテーブルの上には何も残されてはいけない。でも残念。この激マズ……もとい独創性溢れるクレープ屋さんの店員さんが出してくれた水が残ってる」


 話が見えず、思わず口を挟む。


「つまりこの悍ましいクレープも、その水みたく残してしまおうという訳ですか」


 しかし彼は首を横に振る。


「まさか、そんなことはしないよ」


 彼は手をつけていなかった方のクレープも、少しかじる。なんて自殺行為なのだろう。そして彼は辺りを見回す。私も倣ってみてみると、店員は例のクレープを製作中だ。他のテーブルの人もどうやら話に夢中になっていたり、携帯電話をずっとみていたりだ。誰も私達を見ていないことは分かった。

 グラッセさんは素早く、けれども静かに席を立つと、先程カップルが座っていたテーブルまで移動する。そしてグラッセさんの両手には一つずつクレープが握られている。それをグラッセさんは何の躊躇いも見せず、水が入ったコップに入れた。一つのコップに、ご丁寧に一つずつ。計二セット。水につかった不味いクレープが出来上がった。私は自分の顔が引きつっているのが分かった。グラッセさんはまるで何もなかったかのように、元の席に戻る。手には既に、あのクレープはない。私は声が裏返りそうになるのを堪えながら、静かに言う。


「……グラッセさん」


 グラッセさんはいつもの爽やかな笑顔で応える。


「ん? 何?」

「……私と一緒の時だけ食べ物に恵まれないのは、同情します。むしろ謝罪したいくらいです」

「やだなぁ、別に佳代ちゃんのせいじゃないよ」

「いえ、このクレープはあのコーヒーよりも異常です。ですがあんな幼稚なことまでしなくても……」

「何のことかな」


 グラッセさんは首を傾げる。


「ごめんね、佳代ちゃん。そのクレープ不味かったんだね。僕はクレープなんて頼んでないけど、可哀そうに」


 私は察した。彼は「自分がクレープを買った」という事実そのものを、隠蔽しようとしているのだ。

 本当に傍からみたら幼稚かもしれない。しかしおそらく、このまま席を立っても、誰もあのテーブルのクレープを残したのが私達とは気づかないのだろう。……店員が個人個人が頼んだクレープの種類まで、ちゃんと記憶してない限りは。私は言う。


「……酷いですね。水を残しただけのカップルの罪状に、あんな付加価値をつけるなんて」

「罪状って……。ひょっとして佳代ちゃん、誰かの御茶碗にご飯粒残ってたら「ちゃんと食べないとお百姓さんが泣くよ」とか言うタイプ?」


 いいえ、心の中で思うだけのタイプです。まあこのクレープは不味いことと、相手がグラッセさんだと言うことで、今回はあまり怒っていない。というか驚きに怒りがついてきていない。むしろ呆れている。ここまでひどい食べ物の扱いを私は知らない。……店員さんに申し訳ないし、隙を見て私が処理できるだろうか。グラッセさんは続ける。


「あと、僕はあのカップルに付加価値を付けただけじゃないよ」

「……というと」


 彼は笑みを深めて返す。


「確かにあのカップルの罪は重くなった。でも考えてごらん。僕は罪人になることから回避できたんだ。しかもカップルだということを考慮して、二つのクレープを同じくらいまで食べ進めたし。多分犯人が僕とは思われないだろうね。つまり犯罪者の数は減った。それは犯罪者の罪が重くなることよりも、とてもいいことだと思うよ」

 

 何て屁理屈だ。悪人の罪を重くするか、悪人の数を増やすか。私は少し、可笑しくなって笑う。しかしグラッセさんの目は、どこか真面目に見えた。けれどすぐにグラッセさんは取り繕うように言った。 


「……つまり、水二つとクレープ二つより、水に入ったクレープっていうゲテモノ二つの方が、まあ片付けやすいよねってこと。ちゃんと両手で持てるでしょ?」

「でも、店員さんに失礼ですよ」


 どこか自慢げなグラッセさんに対し、私も苦笑して返す。


「いいんだよ、お客様からの有難いご意見だと思ってくれるはずだから」

「いや、多分凄く嫌そうな顔をしながら、普通に片付けるだけだと思いますよ」


 どこか真面目くさった口調で言い合って、それから二人でまた笑った。ひとしきり笑い終わって、私は静かに言う。


「……ありがとうございます。気を遣ってくれて」

「何のことかな」


 惚けるグラッセさん。私は微笑む。


「緊張、解そうとしてくださったんですよね。だからあんな幼稚なことまでして」

「幼稚とは失礼な。完全犯罪と言っていただきたいものだよ、全く」


 犯罪だったら駄目だと思うが。グラッセさんは溜め息を吐く。


「本当、せっかくこの流れから学校に行かせるまでの会話、頭で考えていたのにな」

「それは申し訳ないと思いますが、そんな誘導尋問みたいなことしなくても」

「誘導尋問だなんて人聞き悪い」


 犯罪は良くて、何故誘導尋問は駄目なのだろう。グラッセさんの考えはよく分からない。彼は首を再びゆっくり回しながら、いつものように明るく言う。


「でも、まあ、そうだね。長すぎる枕話は退屈だし、うん。本題に入ろうか」


 そして軽そうな声から一転、真面目な声になる。それが珍しくて、少し体が強張った。


「……やっぱり、学校で嫌なことがあったんだね?」


 小さく頷く。彼は少し悲しげな顔をすると、申し訳なさそうに言う。


「……ごめんね、僕が変な事言ったから」

「いえ、グラッセさんのせいじゃありません! むしろ助けていただいてますし、だから!」


 私は必死になって言う。グラッセさんにはとても感謝している。誤解されたくない。私は小さな声で続ける。


「……ただ、少しまた相談したくて」


 いや、それすらも実の所、口実なのかもしれない。ただもう一度、グラッセさんに会いたかったのだ。こんなこと口が裂けても言えないが。


「何があったか、ゆっくりでいいから、教えてくれるかな」


 グラッセさんの優しい声に、私はもう一度頷いた。


「……昨日、学校へ行ったんです。まだ諦めるのには早い、そう思って。学校に着いたら、いつものように罵声を浴びせられました。でも負けたくなくて、耐えました。朝休憩の間、ずっと教室に居たんです。それで、昼休憩になって、私は逃げるように教室を出ました。クラスの子達が怖かったのもあります。でも「彼にちゃんと訊かないといけない」という想いの方が強かった。

 彼は三年生で、私は二年生です。だから多分彼が、いじめの巻き添えを食らうのが怖くて、私を無視したわけではないと思っていました。……グラッセさんの読みは、多分はずれているのだろうと」


 私はグラッセさんみたくクレープの隠蔽なんてしていない。だから目の前には、まだクレープが残っている。不味くても何かを口にしたくて、それをかじる。やはり不味いものは不味かった。


「……でも私は彼に理由を訊きたかった。彼はとても優しい人です。付き合うときも、彼からお誘いをいただきました。つまらない私に対しても、付き合ってくれている間は、気を遣ってくれました。彼が私を嫌いになったとしても、無視までするのでしょうか? 私は答えを訊くのが怖くて、逃げていました。でもグラッセさんと話して、このままじゃ嫌だと思いました。私はもう一度彼に会いました」


 長く喋りすぎた。喉が痛い。でもそれ以上に彼の言葉を思い出してしまい、ただ悲しくなった。駄目だ。泣いたら駄目だ。私は若干涙声になりながら、続ける。


「彼は私の問いに、溜め息を吐くと、静かに笑いました。あんな笑顔、初めてみました。彼らしくない、張り付けたような笑顔でした。でも心からの笑顔にも見えました。そして彼は残っていたクラスの人達を、教室から出しました。何て言って出したのかは知りませんが、ムードメーカー的な彼だからか、みんな笑いながら出ていきました。本当、私とは大違いです。

 ……そういえば昨日は午後になると、大雨が降りだしましたね。雷も。私は雨も雷も、昔から平気でした。でも雷鳴が響く彼と二人きりの教室は、とても怖かった。春なのに、とても寒かった。教室の照明が、心もとない位に。……案の定、雷は見事に学校に落ちて、しばらく停電になったのですが」


 思い出す。薄暗い三年生の教室。窓を背にして立つ彼のシルエット。大きな雨音。停電したからか、隣のクラスからは悲鳴に似た声も聞こえた。たまに光る雷。その度に浮き上がる、彼の笑顔。初めて教室の床が冷たく感じた。何故だか足まですくんだ。今でもまざまざと思い出せる。あの状況。そして彼の言葉も、一言一句忘れていない気すらする。


 ふと肌寒さを感じた。今日は温かいのに。太陽も出ているのに。……あの日と違って、目の前にいるのはグラッセさんなのに。


「彼は停電を気にも留めず、静かに話始めました。彼の声は雨音よりもはるかに小さかったのに、聞こえたんです、全部」


 彼は言った。


「『君は勘違いをしている。君は俺のことを優しいと思っているみたいだが、的外れだ。君と付き合ったのはただの暇つぶし。正直君には失望していた。つまんないし、疎ましかったよ、本当。それでも付き合っていたのは、君の事まだ好きなフリして、からかったら楽しいと思ったから。案の定、君は俺に愛されているとでも思ったようだし。あそこまでいくと自惚れ過ぎていて逆に怖かったよ。でもそれにも飽きたから、フることにした。その時の君の顔は傑作だった。どうして自分は別れないといけないのか分からない、って思ってるのが丸わかり。しまいには今の君みたいに泣き出してさ。その時初めて君と付き合ったメリットがあった、って思ったよ』……すみません、ちょっと待ってください」


 彼の言葉を思い出すと涙が止まらなかった。あの時、私は初めて、彼が本当に楽しんでいる時の声を、聞いた気がした。彼は最低だ。彼が最低なだけだ。そう思っても、自分が愛されているなんて、自惚れていたのも事実だった。彼は少なくとも最初は私のことを、好きでいてくれたって。しかし本当は違う。彼は私の泣き顔を見て、笑っていたというのに。


「佳代ちゃん」


 悲しげな顔でハンカチを差し出してくれるグラッセさん。私は礼を言い、それを受け取り、涙を拭いた。それでも涙は止まらなかった。もういっそのこと、吐き出してしまおう。全部。私は続ける。


「彼は泣いている私を気にも留めず、続けました。『それで次の暇つぶしを思いついたんだ。――クラスの子からいじめられたらどうなるだろうかって。丁度同じ部活の二年に君を嫌ってる子がいてさ、まぁ理由は大方俺と一緒だったんだけど。で、その子に提案したんだ。「その子いじめたら面白いんじゃない?」って。その二年もすぐ乗ってきてさ、後はまあ、君が一番よく知ってるか。その子から聞いたんだけど、君、随分嫌われていたみたいだね。でも君はその事に気づいてる風でもなかったらしいけど、結局どうなの? 実は案外気にしてた? それとも自分はそこまで嫌われてないって自惚れてた? ま、君の事だから多分後者だろうね。まさか何でいじめられてるかさっぱり分かんないとか、思ったりしたんじゃない? あれ、その様子だと図星?』」


 図星だった。彼は真実を暴露していくのが楽しくなったのか、身振りまで大袈裟になっていた。


「『でも君、普通に登校してるって言うじゃない。つまんないから露骨かも知れないけど、俺も君を無視してみたわけ。そしたら手ごたえありすぎ。正直笑いをこらえるのに必死だったよ。昨日と一昨日は学校も休んでたみたいだし。その二年生も喜んでたよ。でも今日どうしたわけだか学校に来てるって聞いてさ。まあ理由はこんなことだとは思ってたけどね。だから最期の暇つぶしに、こんな暴露話をしたわけ。今回も上手くいって良かったよ』……最期に彼はなにか言っていましたが、雷鳴で聞こえませんでした」


 嘘だ。本当は最期の一言も聞いていた。雷の音が大きすぎて、聞き零しそうだったが、聞いていた。聞かなかったら良かったのに。



――可哀そうだね君どうしたの。自分は何にも悪くないのに、いじめられ、元彼には無視される、助けて! ……なんて、まさか未だにそんなこと思ってて、誰かに相談とかしてないよね? まるで悲劇のヒロインよろしく君が暇人に縋っているとしたら滑稽だね。



 悔しかった。恥ずかしかった。グラッセさんまで侮辱された気がした。


――うわああああああああああああああっ!


 悔しさのあまり叫ぶ私に、彼は少しだけ笑った。私は、彼がクラスの人達を呼ぶ前に、逃げるように帰った。

 知ってしまったのだ。私は。

 彼は私を暇つぶしにしか思っていなかった。それだけじゃない。彼こそがいじめの主犯であり、原因だった。

 私は悟った。――やり直せるわけがない。もともと二人の間には、愛なんて下らないものすら存在してなかったのだから。



「佳代ちゃん」


 俯いて泣いていた私に、声が掛る。顔を上げるとグラッセさんが、ほぼ直角に頭を下げていた。驚いている私をよそに、彼は言う。


「ごめんね。本当に悪かったっ! 事情も知らない僕が、軽々しく助言していい問題じゃなかったんだ」

「そんな、違います……! グラッセさんのおかげで、私、とても励まされました。だから」


 ……だから、謝らないでほしい。今の私にとって最も辛いのは、グラッセさんに迷惑をかけたり、心配させたりしてしまうことだと知った。グラッセさんは頭を上げると、静かに言う。


「こんなにも、君を苦しめたこと、本当に反省している。でも、うん、そうだね。謝罪で済まされるものでもないか」


 グラッセさんは独り合点しているので、何を言っても無駄かもしれない。彼はいつもの笑顔で私に言う。


「詫びとして、お願い何でも聞くよ。君が欲しいのなら、お金だって借金してでも提供する」


 ……グラッセさん、そんなこと他人にホイホイ言っていいものでは、ないと思うけど。借金までするなんて、グラッセさんは本当に良い人だ。でも、困った。要らないと言ったら、逆に悲しませそうだし。……ふと思い出す。私がグラッセさんにして欲しかったこと。私は小さな声で返した。


「……詫びなんて要らないし、謝らなくてもいいし、グラッセさんにそもそも責任なんてないけれど……でも、一つだけ」


 声はまだ震えていた。私はグラッセさんを正面から見つめる。


「……前みたいに励まして、慰めてください」


 貴方じゃないと駄目だから、貴方の声で励まして欲しいから。……そこまでは恥ずかしくて言えないが。グラッセさんは私の言葉に、「そんなことでいいの?」とでも言いたげに目を見開く。しかしすぐに、いつものように柔らかく微笑む。


「……よく、頑張ったね。こんな重たい荷物、抱えるのは大変だったでしょ?」


 私はグラッセさんに抱きついた。緊張が解れた。溜まっていた気持ちが、全部流れていった。グラッセさんの一言だけで、私はとても救われる。我ながら単純だ。でも、グラッセさんに会えてよかった。わんわん泣きわめく私の頭を、グラッセさんは撫でてくれた。


「もういいよ。無理しなくて。大丈夫、佳代ちゃんは何も悪いことしてないんだから」




 この時、いや多分、出会った時から私は気づいていた。

 グラッセさんが救世主だと。あの日の出会いは運命だったと。

 ……そして私は、グラッセさんが好きだと。




 その後私達は場所を移し、待ち合わせ場所だった市立図書館にいた。せっかくだし寄ってみようと、グラッセさんが提案してくれたのだ。ちなみに私がクレープをどう処理したかというと、……色々な意味で頑張った。

 今はグラッセさんと別行動をとっている。グラッセさんは普通に好きな作家の本を借りるみたいだが、私はそこまで読書家ではない。椅子に座り、勉強している学生の横で、適当にくつろいでいた。しかしやることがないので暇だ。私も面白そうな本がないか、探してみよう。そう思い、辺りを見回すと、自分の前のテーブルに絵本が置かれていることに気づいた。多分子供が出しっぱなしにしたのだろう。丁度いいので、それを読んでみることにした。表紙には三頭身の可愛いお姫様が描かれている。全体的に温かみのある色で、凄く好感を持てた。題名はゴシック体で書かれていた。『おひめさまのせかい』。中を開く。



『おひめさまのせかい

               作 星取子

 

 むかしむかし、一人のかわいらしいおひめさまがいました。

 けれどおひめさまはおとなしく、ほかの人からあまり好かれていませんでした。

 おひめさまはまわりの人から「すなおじゃない」「くらい子」と言われました。

 しかもおひめさまは、いじわるなままははから、いじめられていました。

 おひめさまはまいにち泣きました。

 おうさまもじょおうさまも、むすめのおひめさまにかまってくれませんでした。

 おひめさまは一人ぼっちでした。

 大好きだったお兄ちゃんも、さいきんはつめたいです。

 

 けれどもおひめさまは人一倍やさしい人でした。

 まいにちにわに花をうえ、いっしょうけんめい育てます。

 本当はそれはにわしの仕事です。

 けれどにわしはめんどうくさがりやなので、あたらしい花はうえようとしません。花の水やりも、たまにしかしません。

 そのくせ、花が育ったのはおひめさまのおかげなのに、自分のてがらにしています。

 けれどおひめさまは気にしませんでした。

 

 ある日、となりの国のおうじさまが、おひめさまに会いにきました。

 おうじさまにままははが言います。

 「あの子はだめな子です」。

 おうじさまのおつきも、「国のためにはもっとお金もちのおひめさまとけっこんするべき」と言います。

 おうじさまはおひめさまをさがしました。

 しかしおひめさまは、おひめさまのへやに、いませんでした。

 おうじさまが外に行くと、おひめさまはにわに花をうえていました。

 それも泣きながら。


 おうじさまはききました。

「どうして泣いているの?」

「一人ぼっちだから」

「どうして一人ぼっちなの?」

「わたしがすなおじゃなくて、くらい子だから」

「なら、どうして花をうえるの? それはにわしのてがらになって、だれもほめてくれないのに」

「きれいな花をみて、だれかがわらってくれるかもしれない。ほめてもらえなくてもいいの。わたしみたいに一人で泣く人がいなければいいの」

 おひめさまはきれいなえがおで言いました。

 おうじさまは首をかしげます。

「今、それで一人になって泣いているのに?」

「うん。だってわたしが泣くだけですんでいるもの。わたしがきらわれればみんな幸せになれるの」

 おひめさまの言葉にうそはないようで、おうじさまはおどろきました。

 どうじに、おうじさまはかなしくなりました。

「君が泣いているのに? 君はどうして花より自分を大切にしないの?」

「それは」

 答えられないおひめさまに、おうじさまは強く言います。

「君だって幸せになってもいいんだよ。きらわれているのだって、君がべつに何かわるいことをしたからじゃない」

「でもお兄ちゃんはうれしく思わないわ。おばさまもわたしの幸せをにくむわ」

「でもぼくはうれしいよ」

 おうじさまがそう言ったとたん、にわの花が一面にさきほこりました。

 おひめさまは笑って言います。

 その笑顔は決してきれいではないけれど、どんな笑顔よりもかちがあるものでした。

「ありがとう、おうじさま。きっとわたし、今、とても幸せだわ」

 

 それからしばらくしておうじさまとおひめさまは、けっこんしました。

 他の人ははんたいしました。

 おひめさまをひなんしました。

 あいてが小さい国のおひめさまだから、けっこんしたせいでおうじさまの国はさかえなかったからです。

 けれどその声からおうじさまはおひめさまを守りました。

 おひめさまは幸せになりました。

 それを知ったおうじさまも幸せになりました。

 そして国民は国から出ていきました。

 おひめさまの家族も、国を見捨てました。

 国にはだれもちかよらなくなりました。

 昔おひめさまとおうじさまの国にいた人は「ばかがおさめた国の民」とばかにされ続けました。

 世界中の人が、本当は二人の存在を知っているのに、みんな知らないフリをしました。

 国に食べものが届かなくなりました。

 おひめさまとおうじさまは、うえで死にました。

 それでも二人は幸せだと思っていました。

 

 

 自分の周りだけあざやかだったおひめさまの世界。

 けれどもようやく世界全てがきれいな灰色にそまりました』




「何読んでるの?」


 突然声を掛けられて、思わず本を落とす。後ろを振り向くと、そこに居るのは笑顔のグラッセさん。手には数冊の本を抱えている。お目当てのものが見つかったのだろう。グラッセさんは少し悪戯っぽく言う。


「随分熱中してたね、そんなに面白いの?」


 落とした『おひめさまのせかい』を拾うグラッセさん。しかし拾い上げて、怪訝そうな顔でもっともな事を言う。


「……絵本?」

「机にたまたま置いてあったから、それで!」


 必死に弁明する私。高校生にもなって絵本に集中していたとは、やはりどこか恥ずかしい。しかし私の言葉など耳に入っている風でもなく、グラッセさんは「ふうん」とだけ言い、『おひめさまのせかい』をパラパラとめくる。けれど表紙をみて思いっきり不快そうな顔をした。しまいには舌打ちまでする始末。……何がそんなに嫌だったのだろう。


「あの、何か?」


 思わず聞くと、グラッセさんは「いや、別に」と目を逸らす。そして造り笑顔で言う。


「いいお話だね。結局死んじゃうけど、お姫様が幸せになる。ハッピーエンドだ。絵も可愛いし」

「読んだことがあるのですか?」


 先程パラパラとめくっていたが、あれで内容を理解したわけではないだろう。グラッセさんは苦笑する。


「まさか。生憎僕は絵本をそんなに読まないんだ。僕、得意なんだよ、速読」


 あれで全部読んだのか、少し尊敬する。グラッセさんは『おひまさまのせかい』を眺めながら呟く。


「悔しいけど、いい話だね。ありきたりで文章も洗練されてないけど」

「悔しい?」

「絵本にしては、ってこと。君が熱中するのも分かる気がする」


 確かに絵本にしては、本当に子供向けなのか分からない。別にグリム童話のような残虐さがあるわけでもないが。


「本当にハッピーエンドなのでしょうか、この本」


 私の呟きにグラッセさんが反応する。


「どうして?」

「だってお姫様の周りの人がそもそも冷たすぎます。ちょっと暗い内容でしたし。それに王子様が言いたかったことって、要は国の繁栄も気にしない「エゴイストになってもいい」ということですよね。結果的に国民の居場所は無くなったわけですし、お姫様も死にましたし。それに最後の一文」


 そう、あの最後の一文が、何故か私の頭にこびりついている。別に難しい言葉は使われていない。絵も幸せそうに眠る二人が描かれているだけ。それだけ見れば、ハッピーエンドとは言えなくても、妥当な終わり方だろう。でも。


「ようやく世界全てがきれいな灰色にそまりました、って可笑しいです。だって灰色を好む人は居ても、綺麗と思う人っていないでしょう? それにまるで語り手は世界が灰色になることを望んでいるような言い回しじゃないですか」


 少しむくれて言う私を見て、グラッセさんは微笑む。


「佳代ちゃん、綺麗好きだね。まるで」

「いえ、絵本にしては、の話です!」


 言いかけたグラッセさんを慌てて遮る。変に自分がハッピーエンドを望んでいると示したら、偽善者と思われるかもしれない。しかしグラッセさんは首を横に振った。


「ううん、佳代ちゃんが言いたい事も分かるよ。確かに佳代ちゃんはエゴイストや灰色が嫌いかもしれない。君は周りがどんなに汚れていようと、自分は綺麗でいようとするのかもしれない」


 グラッセさんはもう一度本に目を向け、少し笑った。


「自分が苦労してでも、周りを傷つけることはしたくなかったお姫様。……ねぇ誰かに似てると思わない?」


 そして今度は確かに、真っ直ぐ私の目を見て言うグラッセさん。


「確かにこのお姫様は良い人をやめたのかもしれない。でもいい加減自分も少しだけ灰色になって、いいんじゃない? エゴイストにでもならなきゃ肩凝るよ」

「私」


 冒頭から少しだけこの本に対して湧いていた、親近感に似たものの正体。私も笑った。


「私この本の終わり方、少し納得できないけど、でもこの本好きです。……私もエゴイストになっていいんですかね」

「もちろん、大丈夫、僕は君の幸せを祝福するよ」


 優しく笑うグラッセさん。ああ、まただ。また私はこんなにも励まされている。

 



 もし、もし仮に私があの絵本のお姫様なら、グラッセさんは王子様だと思った。ただ、出来ることなら飢え死にじゃなくて、もっと幸せな終わりを迎えたいけれど。


ところであらすじのアパートの住民うんたらの話出てないですけど、can you give for me? は0話扱いなので許してください。

筆者は少女漫画を読んだことがあまりないのでイケメンの対応もかわいい女の子の反応もわかりません。

勉強します。

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