4話 ファム流風邪の治し方(2)
「…………うぅん」
無意識の自分が立てた小さなうめき声で、ベッドの上の安川ミハルは眠りから覚めた。
ほとんど懇願するようにして友人たちに帰ってもらってから、ようやく静かになった部屋で休むつもりがそのまま寝入ってしまったらしい。
外ではとうに日が落ちたらしく、かすかに見えるのは暗い天井だけだった。
ミハルは手探りで枕元にあるはずの照明のリモコンを探しあてると、点灯はボタンを押し込んだ。
寝起きには辛い光量の照明が目に刺さってくる。
「……」
起き上がる気になれず枕の上の頭でごろんと寝返りを打ったミハルは、すぐ近くに人がいることに初めて気づいてうろたえた。
ファム・アル・フートがベッドの端にもたれかかるようにして寝入っていた。両膝を床についたまま、シーツの上に組んだ両腕にやや尖ったアゴを乗せて。
一人でいると思いこんでいて気づかなかったことだけではなく、女騎士がこんな無防備な姿を見せていることが少年には驚きだった。
少年が女騎士が居眠りをしているところを見るのはこれが初めてだ。
『騎士は常に威儀を保つものです!』などと普段からやかましい彼女は、少なくとも姿勢と態度だけはしゃんとしているのが常だったのだ。
とっさに起こさないように音を立てないようにしながら、ミハルはあることに気付いた。
(そういえばこいつ、昨日からずっと寝てないんじゃ……?)
昨晩からほとんどミハルに付きっ切り。
夜中には今朝の鳥面の医師を迎えに行くべく故郷の異世界へ大急ぎで向かってトンボ帰りしたはずだ。もしかしたら食事もろくに取っていないかもしれない。
女性の寝顔をまじまじと見た経験なぞないミハルだが、それでも眉間や目元にかすかな疲労の色を隠しきれないのは見て取れた。
「うぅ……」
ファム・アル・フートが、ミハルの耳にようやく届くくらいの本当にか細い声で小さくうめいた。あまり夢見が良いとは言えないようだ。
「……」
押し入れから毛布でも持ってきてかけてやろうか。
そう思ってそっと体を起こしてベッドから降りようとしたところで、女騎士の体がぴくりと動いた。
「――――――っ!」
ミハルが慌てる間もなくあっという間に覚醒したファム・アル・フートは、子犬のようにぱっと目を見開くと、ベッドから片足を下ろそうとしていた少年の姿を目にとめた。
「ご、ごめんなさい! 寝てしまいました! ダメです、ミハルはちゃんと休んでいないと!」
何かに急かされるようにしてミハルをベッドに押し戻すと、女騎士は寝具をかけ直し半分溶けかけた氷枕を額に押し当ててくる。
その目はせわしなく上下左右に揺れ動き、混乱しているようだ。居眠りを見られた照れ隠しにしては切羽詰まったものを感じて、ミハルはいぶかしんだ。
「気分はどうですか? 熱はまだありますか? セキは?」
「大丈夫だって、落ち着け!」
「症状が収まらないようなら、やはり聖都の病院に今からでも入院を……」
「どうしたんだ、今日のおまえおかしいぞ!」
明らかに平静さを欠いた女騎士に対して、ミハルはたまらずとうとう叫んだ。
「……いや、おかしいのはいつもだけれど! 今日のは特にひどい!」
ファム・アル・フートがトンチンカンなことをしでかすのは常だが、ここまで狼狽しながら場当たり的なことを繰り返すのは見たことがなかった。いつもはもっと無駄に自信たっぷりで偉そうなはずだ。
「……!」
少年の指摘に、女騎士はおろおろと視線を左右に振ってから……観念したように足元へ下ろした。
「……座りなよ」
黙りこくったのを話す気になったとミハルは受け取った。
自分もベッドの上に座り直しながら空いたスペースを勧めると、肩を落としたファム・アル・フートがしずしずと言われるままにベッドの端を椅子替わりにする。
「母も……」
「ん?」
「母もただの風邪だから大したことないと言っていたんです」
こぼれ出した言葉に含まれた哀切から、ミハルにもすぐに彼女の母が辿った運命が察せられた。
「妹が死産で生まれて……体力を消耗していて。風邪を引いてしまったんです。じきにこじらせて肺炎になって、ひどい熱とセキが続いて、そのまま……」
「……」
結末がどうなったかは最後まで口にするまでもなかった
もじもじと両足で自分の手を挟んでいた女騎士が、ちらりと視線を上げた。
「理由になりませんか?」
「……分かったよ」
ミハルは諦めて、小さく首を振った。
少年の立場でそれ以上言えることは何もなかった。
「でもさ、もうちょっと落ち着けよ」
「落ち着いてなど……!」
「大丈夫。俺は死なない。こっちにはいい薬があるんだ。いざとなったら病院で診てもらうから」
そこまで言ってもまだ承服しかねる様子で、ファム・アル・フートは何か言いたげに視線をさまよわせていた。
が、何かを思い出したように勢い良く眉を上げた。
「ミハル。服を脱いでください」
「は?」
「風邪の治療法です。母の話をするまで忘れていました」
いぶかしげにしたミハルは、少し迷ってからパジャマのボタンを開けた。
上半身を蛍光灯の下で晒すまでの間に、ファム・アル・フートは何やら清潔なタオルで手を拭っていた。それが支度らしい。
「こうしてですね、手で体をこすってもらうんです」
隣から肩を抱くように少年の華奢な体に手を回したファム・アル・フートは、乾布摩擦の要領でごしごしと手を上下させ始めた。
摩擦と手のぬくもりで、ミハルは両肩から二の腕にかけてが温まっていくのを感じた。
「ぽかぽかしてきた」
「背中もこすりましょうか?」
「うん……そうして」
考えるよりも先に素直な返事が漏れだしていた。
(素肌を人に触ってもらう機会なんてあまりないな……)
などと思いながら、ミハルは少しだけ女騎士に甘えることにする。
そのまま女騎士は食肉に塩をすり込むような手つきで、結構力を入れて少年の肌をまさぐり続けた。
スキンシップというよりマッサージのようだが、女騎士のてのひらが伝えてくる刺激をミハル自身でも意外なくらい心地よく皮膚が受け取ってくる。
最初はどうなることかと思ったが、女騎士の眼はずっと真剣そのものだった。
肌を通り越してその下の血肉が、もっといえば霊体そのものが懸命な仕草によってじわじわと活性化していくようだった。
どちらかといえば痛いくらいのはずなのに、妙な心地よさが混じっていて、目をとろんとさせてしまう。
手を止めないままファム・アル・フートはおずおずと尋ねてきた。
「……あの、私の手って変じゃないですか?」
「えっ?」
「剣術の鍛錬でタコができていますし……ごつごつしたりしていませんか? 硬かったりひっかかったりは?」
「別に? 気持ちいいけど」
ファム・アル・フートの手がそこで止まったので、ミハルは何かあったかと振り返ろうとした。
「も、もっと念入りにこすりましょう! ね?」
「?」
何やら唇を噛んだ女騎士がさらに力を込めて皮膚をこすり始めたので、ミハルは思わず首をすくめた。
やがてミハルは、自分の脇の下や額にじわりとにじむものを感じた。
「ちょっと汗かいてきた」
「効いてきたんでしょうか」
「熱が下がってるのかも……体温計取って」
「?」
「ああ知らないのか……。これだよ、これ」
ベッドサイドに用意していた電子体温計を脇で挟む。すぐ結果が出た。
「平熱になってる」
「治ったのですか?」
「たぶん」
「良かった!」
女騎士の眼がぱっと輝いて、ついミハルは慌てて目をそむけてしまった。体温計を戻し、パジャマを着直そうと髪の後れ毛を払った時。
ごくり、と唾を飲み下す音が背中から聞こえてきた。
「……ミハルって、こうして見ると肌綺麗ですね」
「え? そう?」
「ええ。色も白いですし、血管が透けるようです」
先刻までとは打って変わり、押し殺したその声に剣呑なモノを感じ取て慌てて振り返る。
「……!」
頬を紅潮させ、鼻息を荒くした女騎士が、自分の着衣に手をかけようとしていた。
布の多い時代がかった服のボタンを外そうとするのを、少年は慌てて押しとどめる。
「ナニをする気だよ!」
「ぶり返すといけませんから、もうちょっと広い範囲を擦っておきましょうか。素肌で!」
「いや、それだけじゃないだろ! 絶対!」
「雪山で遭難したときは人肌であたためるのが一番良いとか……風邪にだって悪いはずないでしょう」
「目的変わってんだろ!?」
「……病気の間に子孫を残そうとする本能が働いて、強い子種が作れているかもしれません!」
自分よりはるかに体格に勝る年上の女騎士にじりじりと迫られて、その圧力に少年は恐怖した。
「いつもの私らしいでしょう!?」
「そうだけど、何も今そうなる必要はないだろ!?」
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……家業の喫茶店に早めに閉店の札を下ろしたミハルの祖父は、道すがら蜂蜜やら生姜湯やらを買い込んで自宅へたどり着いた。
家の内には風邪を引いた孫と、その嫁を自称する金髪の娘がいるはずだ。
「……?」
なのになぜか窓からうかがえる中の様子は明かりが落ちたままであることを不思議に思いながら、玄関を開く。
「ただいまー。ミハル、調子どうだ? 栄養ありそうなもの買って来たけど」
声をかけると、かわいい孫の反応が返ってきた。
「た、助けて! おじいちゃーん!!」
絹を引き裂くような男子高校生の叫びに、思わず老人は目を剥いた。
血管が透けて見えそうなくらいの肌を晒しながら、廊下の奥で床を這いずり回りながら孫が助けを求めてきていた。
何故か寝巻のパジャマは失われ、両膝の間に最後に残った着衣であるパンツが引っかかっているだけである。
滅多なことでは動じない祖父もこれにはたまげた。
「……何してるんだ、お前!?」
「助けて……お願い!」
「待ちなさいミハル!」
青い顔で救いを求める少年の二の腕を、むんずと廊下の奥から伸びてきた手が掴んだ。
「さあ、寝所に戻りますよ! 病み上がりなのですから温かくしていないと駄目です!」
そういう女騎士はほとんど素肌が透けて見える薄い下着を一枚羽織っているだけで、ますますミハルの祖父は困惑した。
「ちょ……待っ、何してんのキミら!?」
「あ。おかえりなさいませ、お祖父様」
あんぐりと口を開いた祖父の様子に、女騎士は初めて気づいたらしい。
「ご心配なく。ミハルの世話なら私がしっかりと果たしています」
「どこが!?」
ツッコミを入れながら抵抗する少年を肩に担ぎ上げた女騎士、その顔が急に歪んだ。
「へ……」
「え?」
「へくしっ!!」
窓ガラスが揺れそうなくらい大きなくしゃみだった。
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先刻まで寝ていた主が起き上がったばかりのベッドには、次の患者が寝そべっていた。
ずるずると粘着質な音を立てて鼻汁をぬぐった女騎士が、頭痛と熱でゆるんだ顔でちり紙をどうにか脇のゴミ箱へと放った。
「……そりゃあロクに寝ないで疲れてるところに、病人素手で触りまくってあんな薄着してたら風邪もうつるわ」
「うふふふ……。ミハルの体の中にいた悪魔が私の体の中へ入って来て激しく熱くなっています……!」
「無駄にポジティブで気色の悪い考え方をするんじゃない」
ミハルは祖父が買ってきてくれた蜂蜜の瓶を開きながら、不気味な含み笑いを浮かべ始めた女騎士を叱りつける。
「ミハル。あなたの時と同じようにこすって治しましょう。今服を脱ぎますから!」
「お断りだ」
「素手とは言わず全身どこでも! 好きなところを触っていいです!」
「39度も熱があるのに元気だな」
ミハルは鳥に餌をやる時のような手つきで蜂蜜の乗ったスプーンを差し出した。
次回5_1 指輪あれば憂いなし(前)は明日午前9時に追加されます。




