4話 ファム流風邪の治し方(1)
「――――――」
「…………」
二つ並んだ黒雲母のレンズに反射する自分の顔は、顔色が悪いというより蒼白そのもののようにミハルには思った。
およそ感情というものの存在を感じさせない鳥に似たマスクをかぶった男が、ベッドにふせたミハルを見下ろしている。
顔をまるごと覆うタイプのマスクで、目の部分には丸い眼鏡がついている。クチバシにあたる部分は長く湾曲していて、一見すると鳥頭人身の異様な妖怪のようだ。
灰色をしたマスク以外は上から下まで黒一色だ。つばの広い帽子で頭頂部を覆い、しっかりと隙間なく黒いコートと半袖のブラウスで肌の露出を徹底的に避けている。手袋とブーツはやわらかい革製のようだ。
腰回りには頑丈そうな革製のベルトを巻いていて、用途不明な金属製の道具や不思議な色をした液体が収められたガラスの容器を専用のホルダーにしっかりと収めていた。
全く人間性というものを喪失したかのような風体である。
その異形の男が、今。
手にした鳥の羽のついた棒で、ベッドの上の安川ミハルの腕やら胸やらをつんつんと突いて何かを調べていた。
「…………?」
胸元をはだけさせられたパジャマのまま、自分が何をされているのか分からずミハルは戸惑った。
困惑する少年の気持ちなど知りもしないで、鳥面の男の後ろに立つファム・アル・フートは気が気ではないという顔でその行為をじっと見ていた。
先刻まで静かに休んでいた少年のところに、いきなりこのマスク姿の男を連れて入って来た張本人である。
「何なのこの人……! すげー怖いんだけど!」
どうやら害意はないらしいことだけは察せられたが、不気味でしかたない。こらえきれなくなって少年は小声で女騎士に尋ねた。
「失礼はやめなさい。この方は法王圏で一番の名医と言われているお医者様ですよ」
「医者!?」
ホラー映画の登場人物のコスプレか何かだと思い込んでいたミハルは、思わぬ答えに仰天した。
「あなたを診察してもらうために、大急ぎで我が母なる"アルド"からお越し頂いたのです」
「そんな大げさな……。あと、気軽に異世界から人呼ぶなっての……」
ぼやくミハルの声に張りがないのは、興奮と驚きの作用によるものだけではない。昨晩から始まった発熱のせいだ。
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昨日の夜。
不思議な気だるさとのどの痛みを感じて、ミハルは念のためにと体温計を使ってみた。
すると平熱より1度5分も高い体温を示していた。
ミハル自身は鏡を前にして白くなった舌から風邪だと自己診断したのだが、聞きつけたファム・アル・フートは納得しなかった。
『重い病だったら大変です!』
と言ったが早いか少年を小脇に抱えるようにして彼の部屋に連れ込むとベッドに放り込み、厚手の毛布やらどこから持ってきたのか知れない動物の毛皮やらを山のようにもちこんできた。
その後も何とか冷蔵庫の中にあるもので薬湯を作ろうと悪戦苦闘したり、大したことはないと言っているのに寝ずの看病をしようとしたり、とにかく何かしていないと落ち着かない様子であった。
『そんな心配することないって……』
『私に任せて、早く休みなさい!』
などと言っては、ずれた毛布をしっかりと被せてくるのだ。
……そうこうしている間に寝入ってしまったようだった。
多少調子が悪くても体内時計というものは働いているようで、いつもの時間に目が覚めた時、ファム・アル・フートの姿は家の中から掻き消えていた。
『まさかその辺に薬の材料か何かを探しに行ったんじゃないだろうな』
などと思いながら仕方なく冷蔵庫にあったスポーツドリンクで水分補給だけして、学校に電話し病欠を連絡した。
もう一度寝ようかと部屋に戻った途端に、女騎士に連れられて鳥面の男が入ってきた時は思わず声をあげてしまった。
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そして、至る現在。
「何か棒で突ついてくるんだけど! 何してんのこれ!? ……あっごめんなさい! 痛くしないで!」
棒で突っつかれながら、少年は一度上げた抗議の声を慌てて引っ込めた。
そこでようやく満足したのか、マスクをかぶった医師は背後にいたファム・アル・フートに向かって長いクチバシを近づけた。
「ほう……。なるほど……。動かす必要はない? 分かりました、ありがとうございます。これは些少ですが」
ファム・アル・フートが手渡そうとした革袋を手振りで丁寧に断って、鳥面の男は部屋を出ていった。
「何? どうしたって? あの人どこ行くの?」
「診断が終わったそうです」
「今ので!? 一体何が分かったんだ!?」
「病名は風邪だそうです」
「それは最初から分かってるんだよ!」
耐えきれず起き上がって大声を出してしまってから、ミハルはごほごほと咳き込んだ。
それを見たファム・アル・フートは慌ててベッドまで駆け寄ると、背中をさすってたしなめた。
「安静にしていなくては駄目です!」
「……うん。そうしたいよ。俺も是非そうしたいんだが」
ぶつぶつ呟きながら再度ベッドに体を下ろすミハルに、ファム・アル・フートはごてごてと毛布を隙間なくかけてきた。
「……」
ずっしりと重くのしかかってくる寝具にミハルは眉をひそめる。
「暑いくらいなんだけど」
「温かくしていなくては駄目です。それと水分。はい、飲んでください」
いつの間に用意していたのか、カップに入ったどすぐろい色の液体を差し出してきた。
「何これ」
「蜂蜜と柑橘類と豆の黒焼きと香辛料と……その他体に良さそうなものを混ぜ合わせた栄養飲料です。飲んでください」
「何か火事の後みたいな臭いがするんだけど」
「良薬口に苦しというでしょう」
差し出されたカップにおそるおそる口をつけた。
ひとすすりした瞬間、口の中に電気の味が走る。
「――――――っ!?」
「全部です」
ミハルは慌てて唇を離したが、ファム・アル・フートはずいとカップを近づけてきた。
飲み終えるまで解放するつもりはないらしい。
諦めてミハルが中身を飲み下していると、玄関の方から呼び鈴が鳴る音がした。
「むっ!?」
ファム・アル・フートは機敏に反応した。
空になったカップをベッドのサイドボードに押しやると、立てかけてあった大剣を手に取る。
「おい、そんなもの持ってどうする気だ」
「万一のための用心です! あなたが弱っているところを狙って、法王庁の権威失墜を狙う輩が差し向けてきた暗殺者かも!」
「はぁ?」
呆れるミハルの様子を無視して、ファム・アル・フートは部屋を飛び出していった。
「……暗殺者が呼び鈴鳴らして尋ねてくるかよ」
ミハルのつぶやきは、じきに玄関先から聞こえてきた三種類の悲鳴によって裏付けられた。
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「ミハルくーん、プリント持ってきたよ」
「大丈夫。風邪? 熱まだ出てる?」
「ミハル。お前の嫁さんに『日本じゃ来客があったときは剣持って飛び掛かったりしない』ってちゃんと教えてくれ」
予想通りやってきたのは、同級生のマドカとジュンとタクヤの三人だった。
女子一人男子二人の三人組は、思い思いのことを口にしながらそれぞれ通学鞄を置いてベッドの周りを取り囲んだ。
ファム・アル・フートは不承不承といった顔でその様子を眺めている。
ふと、マドカがベッドの上の毛布に混じっていた縞模様の毛皮をつまんだ。
「これ何の毛皮?」
「ベヒーモスの皮です。10年前に畑を荒らしまわっていたのを父が仕留めました」
「ああ、そういう設定?」
「設定?」
いぶかしげにしていたマドカは、その一言で納得した。
「また変な時期に風邪引いたな」
「大丈夫? 辛い?」
「頭痛と咳はそうでもないけど、熱がなかなか下がらないんだ」
「あ―――っ!」
ミハルがマドカとタクヤに病状を説明していると、何やら勝手にごそごそと学習机の周りを漁っていたジュンが素っ頓狂な声をあげた。
「どしたの、バカみたいな大声出して」
「デカ長! こんなものを発見しました!」
「なっ!」
ミハルは思わず目を見開いた。
タクヤの手にはうっかり机の上に置き忘れていた、例の散々だった初夜(予定日)に購入したゴム製品の箱が握られていた。
「何だと―――っ!」
「これは……事件よ!」
「ちなみにサイズはSです!」
「やめて! やめ……やめてってば!」
赤面して泡を食うミハルを無視して、三人組は深刻な顔でゴム製品を囲んで実況見分を始めた。
「箱が開かれて……一つ使った痕跡があります!」
「なんてことだ……! 犯行現場は!? この部屋か!?」
「いいえ、待ってちょうだい!」
ある事実に気付いたマドカが、あわあわと落ち着かない二人を手で制した。
「ミハルくんだって年頃の男の子よ!? 男子高校生の性欲で、ゴム製品を一つだけ使って満足して終わりなんてありえる!?」
「「そ、そういえばそうだ!」」
「……つまり私が推理した真相はこう! いざという時に手間取らないように一つだけ開封してつける予行演習したみたけれど、何かのトラブルで本番は実行に移されなかったのよ!?」
「な、何だって―――!?」
「……!」
同級生の女生徒に正確に初体験の準備をする自分を推理されて、ミハルはベッドの上をのたうち回った。
そこまで身もだえる理由はもちろん推理の中身が的を射ていたためである。
「良かった……純潔は守られたなミハル」
「今度使う機会があったら感想聞かせてねミハルくん」
「ミハルくんこれ一枚貰って良い?」
「ど、どうしたんです! ミハル! 急に苦しそうにして!」
友人たちに好き勝手なことを言われてベッドの上で虫の息になったミハルを、ファム・アル・フートは慌てて助け起こした。
「ファムー! 殺せ! 俺を殺してくれえええ!!」
「心配はいりません! 安静にしていればきっと良くなります!」
「あらら、辛くなってきた?」
「じゃ俺らで看病してやろうぜ」
狂乱するミハルの様子を見て今更罪悪感が湧いたのか、三人組の中で何故かそういうことになった。
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「見て見て。ロシアの風邪の治し方だって」
思い思いにスマートフォンをタップし始めた三人組のうち、タクヤが最初に顔を上げた。
「どんなの?」
「唐辛子と蜂蜜を入れたウォッカを呑む」
「なんとなくロシア人の治療法だと聞きそうな気がするな」
「ねー。ロシア人がかかる風邪って言ったらすごい悪質そうだよね」
「冷蔵庫の中のものなら好きにしていいけど……。ちゃんと片づけてよ!?」
好き勝手なことを言いながら台所へ移動し始めた三人組を、ミハルは不安な面持ちで見送った。
「ウォッカなんか家の中にあるか?」
「蒸留酒なら何でもいいんじゃ?」
「ブランデーあるじゃん。これにしよう」
……などという会話が台所で交わされ、琥珀色の液体に蜂蜜がぶちまけられ唐辛子が浮いた飲料ができあがった。
「あいや、お待ちなさい!」
だがしかし。
バッカスもダッシュで駆け寄って殴るレベルの酒を冒涜するカクテルは、病人に届けられる前に立ちふさがった女騎士に差し止められた。
「何?」
「大事な夫の看護を人任せになどできません。病人に飲ませて大丈夫か、私がまず毒見をします」
「ん」
特に反論するでもなく、マドカはグラスをファム・アル・フートへ手渡した。
グラスを唇に当てて傾けたファム・アル・フートは味を確かめると……ひと思いにぐいとあおって中身を綺麗に飲み下した。
呆気にとられる三人を前にして、目を血走らせた女騎士は火のような息を吹いた。
「まずい! ―――もう一杯!!」
「どっちにしても飲めねーよそんなの」
ベッドの上からミハルが呆れた声を上げた。
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「効きそうなの片っ端から試してみようぜ」
めげることなく三人組と女騎士はわいのわいのと次の治療計画を立て始めた。
「他に何がある? 冷蔵庫にネギがあったよ。ネギ粥でも作る?」
「民間療法で首に巻くと良いって」
「やってみたら? 鼻の通りがよくなるって聞いたことある」
そして悪趣味なネックレスが患者に贈られた。
「あと裸になって体を綺麗にして、肌についた悪いものを取り去るってドイツの治療法があるらしい」
「ついでに汗拭いてあげれば」
「ミハル服を脱いでください」
患者は上半身裸にされた。
「笑顔になると体の免疫機能が向上するらしい。作り笑いでも良いって」
「じゃあくすぐっても良いのでは?」
「笑わせよう」
「ミハルの弱点は脇の下だぞ」
「なっ」
こうしてくすぐり作戦が開始された。
「やめ……ちょ! うひゃ! うひ! あはは、やめっ、本当に、やっ! ……ファム、変なところ触るな! あははははは! やめ、おねがっ、やめ――――――!」
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……ネギを首に巻かれ、半裸になった少年は、ベッドの上でうつぶせになってぴくぴくと体を痙攣させていた。
一人の女騎士と三人の学友は、深刻な目でその様子を眺めていた。
「……治療ではなく拷問を受けたかのようです」
「ごめんねミハルくん」
「こんなことになるなんて……」
「私たちの力が及ばなかったばかりに……」
諦観混じりに好き勝手な言葉をつぶやく三人を尻目に、ファム・アル・フートは慌ててミハルのそばに寄り添った。
「や、やはり野蛮な"エレフン"のやり方では繊細なミハルには合わないのです! これからは私の判断で看護します!」
「ファ、ファム、助けて……」
「故郷に伝わるやり方を試してみましょう! 確か……水鉄砲でイノシシの胆汁を浣腸するんです!」
「お願いだ、もう何もしないでくれ…………。早く楽になりたい…………!」
「ダメですミハル! 心が弱くなっては体も衰えてしまいますよ!」
次回は4_2 ファム流風邪の治し方(後)は本日午後9時ごろ追加します。
イノシシの胆汁を浣腸は実際中世であった治療法だとか。




