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13話 ミハルとくま(3)

 翌朝。



「…………」


 寝床の上でミハルはうっすらと瞳を開いた。

体の周りに留まるのは、温かく甘いこの世で一番幸せなぬくもりだ。

掛け布団と体の周囲に留まる空気に少しでも浸っていたくて、赤ちゃんのように手足をゆるく折り曲げる。



 何があったって、俺はあと10分はこの最高の場所から離れないぞ。

半分眠ったままの頭でミハルはそう決意し、



「ミハルー! 起きて起きて起きて!!」

 


すぐに打ち砕かれた。



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「おはよう……」

「おう、おはよう」


 留置場に連行される容疑者そのままの顔つきでミハルが食堂兼台所へ入ると、珍しく祖父がテーブルに座っていた。

朝寝が好きな祖父も優秀な目覚まし時計の力には抵抗できなかったようだ。

まだ眠そうにまぶたを半開きにしてぼんやりと新聞の紙面を追いかけている。



「ユニオがいてくれると朝の手間が減りますね」

「本当もうばっちり……嫌でも目が覚めるわ」



 低血圧でふらふらと視線をさまよわせる少年と祖父をよそに、ユニオは多少危なっかしい手つきでファム・アル・フートの用意した食器をテーブルへと運んでいた。


 朝食が始まった。


「……」

「いただきます……」

「天上の神々よ……今日の恵みに感謝します……一日も早く子の授からんことを……」



 思い思いの食事の前のルーティーンを片付ける中、小さな手を組み合わせたユニオは目をぱちくりとさせてから言った。



「えーと……ユニオは今欲しいものはありません。神様は休んでてください」

「そんなお祈りがありますか!」



 ぱっとスプーンに手を伸ばしたユニオに、しゃちほこばった祈りの姿勢のままファム・アル・フートが片目でじろりとにらみつけた。



「思いつかなかった」

「他にも祈ることはあるでしょう。私とミハルの夫婦仲が良くなりますようにとか、私が健康な赤ちゃんを産めますようにとか、私に男の子が授かりますようにとか!」

「利己的なお祈りをさせるな……」

 


 つぶやいた後で、ミハルはちょっといじわるをしてみたくなって言った。



「ユニオちゃん、本当に欲しいものないの?」

「?」

「風船は?」

「!」



 ユニオは一瞬だけどんぐりまなこを見開いたが、慌てて誤魔化すように卓上の調味料差しにさっと手を伸ばした。



「しょっぱい汁入れる!? ユニオ入れる係!」

「醤油ね?」

「じぃじのおかゆに入れようか?」

「おーありがとう、ユニオちゃん」



 デレデレと頬を緩ませながら、祖父はボウルをユニオの方に差し出した。



「そのくらいで。良いよ。もう十分。入れ過ぎだよ……止めて、止めて!! あぁっ!」



 祖父の芋粥が無残な物体に変わっていくのを目を端でとらえながら、ミハルは小さく笑った。



「誤魔化した」

「そうやって大人が茶化してるとますます怖がるようになりますよ」


 

 ファム・アル・フートが唇をとがらせるのと、老人には危険な物体と化した朝食を手に呆然としていた祖父がミハルへ目を向けたのはほとんと同じタイミングだった。


 

「風船って何だ?」

「携帯電話のお店が配ってた風船。ユニオちゃんは欲しいんだって」

「ふぅん。もらえば良いじゃないか」

「それが『ください』って自分で言わないともらえない仕組みなの」

「ははぁ」



 納得して祖父はうなずくと、テーブルに体を傾けるようにしてユニオと同じ視線まで頭を下げた。



「ユニオちゃん、知らない大人が怖いのかい?」

「怖くない!」


  

 言っている内容はともかく、語尾が震えていて無理をしていることは明白だった。



「お店の人に『ください』って言えなかったんだろう? どうして?」

「……」



 ユニオは答えられずに、代わりに祖父をじろりとにらんだ。



「何か言えない理由があった?」

「……ない」

 

 

『勇気がないから』とは言えないユニオは短く答えた。

 


「お店の人はユニオちゃんをどなったり、断ったり、失礼な態度を取った?」

「してない」

「じゃあ『ください』って言わない理由はないじゃないか」



 祖父は歯を見せて笑うと、巻き毛で覆われたユニオの頭を少し乱暴に撫でた。

 


「怖いと思ってるから怖いんだよ。よく見てごらん」

「…………」



 分かったとも分からないとも言わずに、ユニオは自分の粥をすすり始めた。



「まだそんな話難しいんじゃないの?」

「なあに。いつか自然にできるようになるもんさ。子供は大人よりちょっと複雑なんだ」

「そうなの?」

「お前だって4歳まではうちのトイレを使うのを怖がってピーピー泣いてたんだぞ」



 しまった、とミハルは思った。



「あのころはこの家は和式便所だったから……」

「はいはい」



 ミハルの言い訳を無視して、祖父は粥をひとすくい口に入れ……顔をしかめた。



「じぃじ、おいしい?」

「うん……。ユニオちゃんが入れてくれた醤油は美味しいなぁ……」

「おかゆな?」

「…………」



 ファム・アル・フートはじっと食卓の様子を見ていたが、結局最後まで何も言わなかった。



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 学校へ行く支度を整えて、ミハルが玄関で靴を履き始めた時。

背後から近寄る気配があった。

振り返るとユニオがいた。



「ユニオちゃんどうかした?」

「ミハルは今日も学校へ行く?」

「うん、平日だからね」

「毎日学校に行くの?」



 ユニオは目を丸くした。



「まあ、長期休み以外は」

「はー、大変。疲れない?」

「う、うん。ありがとう、でも大丈夫……」



 戸惑いながら靴を履いたミハルの肩に、ユニオは手を重ねてきた。



「今日もお迎え行こうか?」

「あははは、お外歩いて回るのが楽しいんでしょ」

「違う。ミハルが泣いてないか心配」

「え、そうなの……?」



 ちょっと面喰ってから、ミハルはユニオの丸い耳にそっと口を近づけた。



「ねぇ……風船ならさ、今度ファムには内緒でもらいに行こうよ」

「え?」

「そうすれば手に入るよ。ファムには、ユニオちゃんが『ください』って言ったって誤魔化しちゃえば分かんないよ」



 深く考えずに出したアイディアだが、丸く収める方法としてはなかなかいい方法に思えた。

ところが、少年の予想に反してユニオの反応はあまりかんばしくなかった。

喜んだり笑ったりせず、じっと押し黙って目を見てくるばかりだ。 



「え、ダメかな……?」

「ユニオ昨日はできなかった」



 少年が思うよりずっと真面目な声で幼女は返答した。


 

「でも今日はできるようになりたい」



 驚く少年が呼び止める前に、身をひるがえしたユニオはあっという間に家の奥へ走り去った。

 


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「……で、やっぱりこうなるわけ?」


 既視感を覚えながらミハルは言った。

下校時、校門前で昨日と全く同じ光景が広がっている。

呆れ顔の女騎士と、その服の裾に顔を埋めた幼児が少年を出迎えていた。



「ほらほらユニオちゃん、泣くことないのに」

「泣いてない!」

「泣いてるじゃん」

「目がかゆいせい! かゆいだけだから!」

「この子は気弱なくせに強情だから実に厄介です」



 ファム・アル・フートがつぶやいた。



「一緒に帰れば機嫌も直るよ」

「それでは困ります……。せめてもうちょっと心に余裕がないと」

「無理しなくて良いよ」



 ミハルはひざまずくと、涙がにじんだユニオの頬にぺたぺたと指先で触れた。



「誰だって苦手なことくらいあるって。ゆっくり慣れていけば良いじゃん」



 真っ赤な鼻をひくつかせたユニオが目の端に涙を溜めているのが、ミハルには可愛く思えてしかたなかった。



「無理してやることないよ。風船だってさ、もらえる機会なんかいつでもあるよ?」

「本当?」

「本当本当。ああいうキャンペーンはいつでもやってるし、飾りがついたやつとか動物の形のやつとか、もっと良いのが配ってもらえるのもやってるよ」



 ユニオをなぐさめながら、ミハルはにこにこ口元に笑みをたたえていた。



「ミハル、少し良いですか?」

「うん?」

「真面目に聞いてください。私がこれから言うことはあなたを傷つけるかもしれません」

「え……なんでさ?」



 ミハルはぎこちなく笑みを崩しながら膝を伸ばした。

ファム・アル・フートの表情には不安と真剣さが相半ばし眉をひそめさせ、声は真面目そのものだった。



「今分かりました。あなたはユニオに風船を取れるようになって欲しくないんです」

「……何だって?」



 冷たい手で心臓を触れられたように、ミハルはどきりとした。

何故自分でもそこまで体が反応したのかは分からなかった。



「大人が怖いのはあなたも同じだからです。自分と同じ弱みを抱えて、もっと大きな反応をするユニオをそばで見てかわいがりたいんです」

「……」



 かっと頭に血が上るのを少年は自覚した。

何かを言い返そうとして、しかし喉が渇いたようになって感情は何ひとつとなって出てきはしなかった。



「そうすれば自分の孤独が紛れるし、安心できるからです。あなたは昨日からユニオの背中を押そうとは決してしなかった。ユニオが本当にそうしてしまうと困るからです」

「そんなこと……」

「あなたがユニオを可愛がってくださるのは私としても嬉しいことです。でも、それは親が抱く愛情ではありません。庇護欲と、同類を探しているだけです」



 面と向かって批判される屈辱と怒りに、熱病にかかったように少年の頭の中は真っ白になった。

だが同時に、女騎士がこんな風に自分に批判を加えてくることには驚きも感じていた。



「……」


 耳まで真っ赤になって、やりこめてやりたいという衝動と言い返したい欲求の波を何度かこらえてから、ミハルは口を開いた。



「ちょっと、今日は寄るところがあるから一人であとで帰る」

「ミハル、ごめんなさい」



 ファム・アル・フートが慌てて言った。



「あなたに恥をかかせるつもりはなかったんです。ただ、私は……」

「違う、そうじゃない」



 女騎士が額に汗を浮かべて弁解するのを、少年は手で制した。


「確かに正直、イラっとしてる」

「ですから……」

「でもそれは、おまえが正しいからだ。おまえが言うことがでたらめだったらいつもみたいにぼやいて終わりだから」



 鼻をぐすりと鳴らして、少年はポケットのスマートフォンを手に取った。



「おまえが正しい。俺のやり方が間違ってた。勇気がなくて、楽な方を選んでた」

「……」

「でもユニオちゃんに何かしてあげたかったのは本当だぞ」

「ええ、ええ、私もそれは疑ってはいません」



 これ以上情けない顔を見られたくなくて、ミハルはぱっと背中を向けて反対方向へと歩き出した。

それにやさしい声をかけられでもしたら、せっかく怒りと一緒に芽生えた気持ちが萎えてしぼんでしまいそうだったからだ。



 しばらく歩いたところでスマートフォンの電話帳画面を開く。

本当はそらでも言えるくらい馴染みのある番号を選択する。

正直言って、そこにかけるのはなけなし勇気を振り絞ることが必要だった。

しかし今何もしないままでは、本当に自分の不誠実さを嫌悪してしまうという恐れが少年の怖気の虫を横に押しのけて行動に移させた。



 コールが数回重なるのを、ごくりと唾を呑んで待った。



『はい、もしもし』

「……お母さん?」



 どんなに気合を入れても、その声に震えが混じるのを止めることはできなかった。



「今日ちょっと、家に寄っていこうと思うんだけど」

次回は2/4夜に追加します。

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