13話 ミハルとくま
「ううん……」
甘やかな寝息を立てて、ベッドの上の安川ミハルは目覚めた。
「……」
とろんとした目で枕元の目覚まし時計の表示を確認する。
投稿時間までまだ余裕があることを確認してから、起き上がることはせずにそのまま枕に頬を擦りつけた。
医学的には覚醒でも、はた目にはとても起きたとは言えない状態である。
砂浜でくつろぐアザラシのような姿勢で、少年は布団の中の心地良い温もりに酔いしれていた。
(あー……。幸せ。このままずっとゴロゴロしてたい……)
しかし安寧を望む少年のひそやかな願いは、廊下から聞こえてきた足音によって木っ端みじんに打ち砕かれた。
ドタドタドタドタ……!
遠慮も自制もない足音がドアの向こうから聞こえてきて、ミハルははっと枕から頭を浮かせた。
が、気付いた時にはもう遅い。
「ミハル―――!」
ドアを跳ね飛ばすような勢いで、小さな人影が部屋に飛び込んでくる。
ユニオだ。
寝床の上で頭がとろけたままのミハルと違い、こちらは生気みなぎる顔色でベッドに取りつくと即座に枕を引っ張って少年を起こしにかかる。
「起きて! 起きて! ごはん!!」
耳元で金切り声を上げられたことと、温かい布団の中の執着にミハルは思わず眉をゆがめた。
「もうちょっと寝てたいよぉ……」
「ダメ!」
「えぇ……?」
「起きるの!!」
ミハルが起床しようとしなかったのが不満のようだ。
朝用ヒト型全自動目覚まし時計は更に攻勢を強め、両手で掛け布団を握りしめると引き剥がしてしまった。
「うぅ……」
暖かなまどろみの空気は霧散し、代わりに引き締まった朝の空気が肌を突き刺してくる。
やむをえずミハルは体を起こした。
「おはよう!」
「おはよう……ユニオちゃん……明日からはもう少し静かに起こして……?」
「うん、分かった」
全く分かっていない顔でユニオははっきりと応じた。
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その後、朝食を胃袋に詰め込み支度を整えているうち、あっという間に登校する時間になった。
「じゃあ行ってきます」
「ミハル。ちょっと待ってください」
玄関のかまちで靴を脱ぎ始めたミハルの背中に、ファム・アル・フートが近づいてきた。
「なんだよ。連れていかないぞ」
またぞろ学校まで警護に行くなどと言いだされるのではないかと身構えた少年に、女騎士は真面目な顔で言った。
「いえ、そうではなく。お祖父様は今日お戻りになられますか?」
「おじいちゃん? そろそろ帰ってくるんじゃないかな?」
家主であるミハルの祖父は外出や外泊が多くて、あまり家には寄り付かない。
何をしているかはミハルにも良く分からないが、祖父は昔から穏やかな見た目の割に時折思い切った行動に走るところがあるのでそういうものかとなんとなく受け入れていた。
「ユニオのことはどう説明しましょう? お祖父様にはしばらく泊めるとしか説明していませんが」
「あー……」
大事なことを忘れていた。
ユニオがファム・アル・フートのいた"異世界"の法律で養女になったことはともかく、ここに置いておくには家主の祖父の了承を取り付けておかなければならない。
自分一人の責任で幼児を養って世話をするにはミハルはまだまだ子供だった。
「……分かった。ちゃんと俺から話すことにする」
「大丈夫ですか?」
「多分……。おじいちゃん結構こういうところ軽率というか、いい加減だし」
女騎士を留め置くことになったときも二つ返事で許可を出した祖父のことだ。あまり心配することはないのではないか、とミハルは思った。
「ミハル? お出かけする?」
自分の話をしているとは思わなかったのだろうが、ユニオが家の奥から出てきた。
「うん。学校行ってくる」
「学校? ユニオも行く」
「え?」
背負ったミハルの通学バッグに手を添えて、ユニオがねだってきた。
「ダメだよユニオちゃん。生徒以外は入れないの」
「ユニオは良い子にできるから大丈夫」
どうやらその程度で折れる気はないらしい。ミハルは小さくため息をついた。
「しょうがないなぁ……じゃあ一緒に行こうか?」
「うん!」
「こらこら。甘やかしていけません」
ユニオがもこもことした分厚い自分の靴を履き始めたところで、ファム・アル・フートが止めに入った。
「学校なら前にも一緒ついていったことある。平気」
「あなたが言っているのは村の教会の付属学校でしょう?」
不機嫌なへの字口になった幼児に、女騎士は呆れて眉をしかめた。
「聖典の暗唱と讃美歌と、せいぜいかけ算わり算までしか教えないではないですか。ミハルが学んでいる内容とはとても比べものになりません」
「そうなの?」
「ミハルがミハルが通うのは"現世"でも最高の学府です。その内容は私でも追い付くのが難しいほど……。邪魔をしてはいけません」
単に私立の高校というだけなのだが、女騎士は勝手に超エリートを育成する教育機関か何かと勘違いしているのだ。いくら訂正しようとしても謙遜としか受け取らないので、少年はもう面倒なので放置していた。
「ふーん……」
ぼんやりとした顔で、したり顔の女騎士を見上げたユニオが何気なく口にした。
「どんなこと勉強してるの?」
「えっ」
思わぬ質問に、女騎士は意外そうに声を上げた。
「それは、その……。なんというか……。あなたに説明するには、もうちょっと大きくなってからでないと……」
「分かるように言って!」
「えっと、その、あのですね……」
途端にしどろもどろになる。
以前ちらりと数学の教科書を目にする機会があっただけで、女騎士にももちろんその説明どころか理解もできているはずがなかった。
ファム・アル・フートはミハルに向かってすがるような目をしたが、しったかぶりに対して少年が返したのは冷たく皮肉な半目だけだった。
「……」
思い切り目を泳がせながら、幼児の純粋な瞳に耐えきれず窮した女騎士は唇を開くと。
「……ものすごく大きな数のかけ算やわり算です!」
力強くそう言い切った。
「おぉ……!」
ユニオが丸く開いた口で感嘆の声を上げる。
「ミハルすごい! かしこい! 天才!」
「ははは……ありがとうユニオちゃん」
居心地悪そうに顔を背ける女騎士にとがめるような視線を送りながら、ミハルはばしばしとユニオが肩を叩くのをされるがままにしていた。
「じゃあ俺は学校行ってくるから。ユニオちゃんはうちで良い子にしててね」
「うん。しっかり勉強してきなさい」
「は、はい……。分かりました」
たじろぎながらミハルは立ち上がると、玄関から出ていった。
もっと駄々をこねられたらどうしようかと思っていたが、ユニオがすんなり引き下がったのは少し意外でもあった。
そう思いながら家の門を出たところで。
「『行ってらっしゃい』って言うの忘れた!」
背後からそう叫ぶ声と共に幼児が飛び出してくる気配に、ミハルは思わず両肩を跳ね上げた。
「行ってらっしゃ―――い! ミハル、聞こえた!? 行ってらっしゃ―――い!!」
ファム・アル・フートに首根っこを掴まれるようにしながら、門の前でユニオがちぎれんばかりに手を振ってくるのが見えた。
あたりの通行人たちは軽い驚きの表情を浮かべたあと、生温かい笑みと好奇の入り混じった視線をミハルに向けてくる。
ミハルはあっという間に羞恥心で顔を真っ赤にした。
そのせいで幼児に返せたのは、歩きながら半端に振り返って軽く手を振ることくらいだった。
(こういうのってものすごく恥ずかしいな……)
だが、不思議と悪い気分ではなかった。
2週続けて寝落ちしました……。なんとか対策を考えます。
次回は今夜追加します。




