10話 ユニオが来た(2)
「俺は一度聖都に戻って、その自称隠し子を連れてくる」
そう言ってピッコローミニは、例のごとくトイレの扉の向こうへと消えていった。
「…………」
途端に静けさを取り戻した邸内で、ミハルはちらっとファム・アル・フートの方を見やる。
流石に興奮状態からは冷めたようだが、まだ不満そうに下唇を軽く噛んで何かを考えている様子だ。
何か声をかけてやるべきかミハルは迷ったが、一体どんな風に声をかければ良いのだろうか。隠し子疑惑を持たれた友人の相談に乗ってやった経験などあるはずもない。
迷っていると、ファム・アル・フートの方がミハルの様子に気付いてぱっと目を見開いた。
「あの、ミハル! 信じてください! 隠し子など根も葉もないたわごとです!」
「分かってるよ」
「私の貞操はあなたに捧げています! 誓って偽ってなどいません!」
必死というより、怯え混じりの眼ですがられてはミハルもただうなずくしかない。
実のところ、女騎士には悪いが彼女が思うほどミハルは隠し子疑惑とやらに対して真剣になれないというのが本心だった。
そもそもファム・アル・フートの性格からしてありえそうもない。
それに以前見た彼女の半裸……興味のなさそうな顔をしてはいるが、立体的なくびれと豊かに広がった腰から尻にかけて盛り上がる曲線は、今でもはっきりとミハルのまぶたの裏に焼き付いている……は、とても経産婦の体型とは思えなかった。
(でもこれはっきり言ったらセクハラだよなぁ……)
どう言えば安心するのか迷っている間に、煮え切らない態度が更に不安を助長させたらしい。
女騎士はほとんど泣き出しそうな顔になった。
「本当なんです……」
「お、おい」
異国の年上の美女にすがるように手を握られて、ミハルはたじろいだ。
「神の使命のためなら、悪意ある誹謗や中傷はいくらでも耐えてみせます! しかし、あなたに疑われるのだけは耐えられません!」
「だから、疑ってなんかいないよ」
「あなたへの背信や裏切りは絶対にしません! だって!」
「……っ」
「だってミハルは私の恩人なのですから……」
内心で『愛しているから』という言葉を一瞬だけ期待して、それが出てこなかったことに軽い落胆を覚えはしたものの、ミハルはとりあえずの平静さを保って言った。
「とにかく落ち着こうよ」
「しかし……」
「まだ何も分からないじゃないか。本当に根も葉もない噂なら……えーとピッコロさんだったっけ? あの人が何とかしてくれるよ、きっと」
ファム・アル・フートはまだ何か言いたげに視線をさまよわせていたが、やがてしゅんとなって手を引いた。
「……お茶でも飲む?」
「いいえ。今はじっとしていたら、悪いことばかり考えてしまいそうです」
「そう? じゃあ何かしてた方が良いと思うよ。 気がまぎれるなら」
「ああ、そうです。私、お祖父様のお店に手伝いに参ります」
はたと思いついて、女騎士は出かける用意を始めた。
女騎士が喫茶店を手伝いに来るのはよくあることだったが、何だかんだ理由をつけてミハルにくっついてくるのが常だった。
しかし今日はミハルのシフトの日ではない。
祖父は家業を半分趣味としていてあまり出勤予定を組んでくれず、『小遣い稼ぎよりも友達と遊べ』というのが口癖だった。
「大丈夫? お客さんの前に出られる?」
「ええ、気を張っていた方が、今は気分がいくらか楽になりそうです」
「……分かった。じゃあ、おじいちゃんに連絡する」
本人ができるというなら無理に反対する理由もない。ミハルはファム・アル・フートの好きにさせることにした。
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ファム・アル・フートが家を出てから、ミハルは喫茶店へ電話をかけた。
隠し子とやらのことは伏せたまま祖父にかいつまんだ事情を説明する。
「うん、そう。ちょっと落ち込んでるみたいなんだ。理由は聞かないでやって」
『了解。ミハルはどうする?』
ミハルは、その問いかけに一瞬悩んだ。
「……行かないでおく。何かあいつ、俺と顔合わせ辛そうにしてた気がするから」
『了解。気が変わったら来いよ』
「分かった」
そこで電話は切れた。
「……」
なんだか落ち着かない気持ちになって、そのまま家の中をうろうろしてしまう。
暗にファム・アル・フートの側にいてやるよう祖父に言われたというのは分かっているが、踏ん切りがつかなかった。
「何て言ってやれば良いんだよ……」
人の噂も七十五日なんておためごかしを口にして、少しでも彼女を気を晴らすことができるだろうか?
ミハルはそういった陰湿な暴力のターゲットになったことは幸運にしてまだないが、同じ学校でいわれのない噂を立てられていじめられた生徒の事案なら何度か知ってはいる。
彼らとミハルは特に接点はなかったし、ミハルからも噂を払拭しようとしたり弁護しようとしたり動く義理も理由もなかった。これまでは。
おそらくはファム・アル・フートの場合はそれとは比べものにならないくらい深刻なのだろう。
とかく名誉や騎士の誇りを口にする女騎士にとって、外聞や体裁は少年が思うよりはるかに重要に違いない。学校ですら女生徒の妊娠や堕胎の噂が流れたら騒ぎになるだろうに、女騎士が元いた世界ではほとんど社会的な死に近いレベルの醜聞なのではないか。
「でも俺にできることなんてないしな……」
こういうとき積極的に『僕は君を信じているよ』などと言ってやれれば彼女も少年のことを見直してくれるかもしれないという気持ちはあるのだが、何かにつけて顔を出す羞恥心と自尊心がそれを阻んで気後れさせていた。
「うーん……」
なんでいきなりこんなことで悩まなければならないのか、などと恨み言をぼそぼそと口にしながら廊下を所在なく歩いていると。
ドン、ドン!!
「うわっ!?」
木の扉を叩く音がいきなり響き渡って、ミハルはすくみ上った。
「おい、落ち着けよ!」
「ここどこ!? 出たい! 出る!!」
「だから落ち着けって!」
いきなりトイレから喚き声が聞こえてきて、ミハルはおどおどと立ち尽くした。
バタン!
叩かれるばかりだったドアとノブはようやくその機能の存在を思い出してもらえたらしい。思い切り加速をつけて開いた扉は、ドア止めに思い切りぶつかって後を引く音を残したままぶるぶる震えてその位置にとどまった。
「ファムさま――――――っ!!」
その扉と壁との隙間をすり抜けるようにして、小さな人影が板敷きの廊下へと飛び出してくる。
「ファムさま! どこ!? 帰ろう、ユニオといっしょに帰ろう!!」
唖然とするミハルの前で、その人影は何かを探し求めるように左右を振り返った。
「ファム……様?」
何が起こったのか分からず立ち尽くすミハルの前で、トイレの中から現れた『それ』はゆっくりと振り返った。
まず真っ先に目を引くのは、丸く輪郭を描く大きな帽子と、幾何学模様が飾り紐の組み合わさせ表現された民族衣装のような服だった。
恐らくは寒冷な地方のものであろうそれは顔以外の露出を可能な限り避ける作りになっている。
その顔の真ん中で、丸いくりくりとした曇りのない両目が見開かれていた。人の眼としてミハルが現実に見た覚えのない澄み切った青い色だ。
緩く優美なウェーブを描く肩まで伸びた髪と、もぎたてのリンゴのように赤みがさした頬。小さめだが形の整った鼻や口と、まるで絵本の中から飛び出してきた冬の妖精のような見た目をしていた。
その幼児は、子供特有の無遠慮さでぽかんと口を開いた。
「おまえ、だれ?」
「…………」
丸い目に向かってこっちのセリフだと言いたくなるのをミハルはぐっとこらえた。
「こんなところにいたか……。 大人しくしろ!」
トイレから廊下に出てきたピッコローミニが、幼児を見て声を荒げる。
びくりと全身を震わせてその子は反応すると、きっと短い眉を山形にして叫び返した。
「やだ、おまえ、きらい!」
「手を焼かせるな、コラ!」
「や――――――ッ!!」
音程の概念も吹っ飛ぶ底無しの高音で奇声を上げる。鼓膜にビンビンと響くほどの声量だ。
そして幼児は一目散に廊下の奥へと向かって走り出した。
その途中で、廊下に置いてあった固定電話に手をひっかけた。哀れなプッシュホンが電話台から床へと落ち、受話器を放り出しては陰鬱な電子音のうめき声を発しだした。
「このやろ、待ちやがれ!」
苛立つピッコローミニがその後を追た。
腰から下げた剣の柄がまたぶつかり、今度は電話台の下段から電話帳やら辞書やら何故かずっと置いてある『ブッダ名言集』やらがバタバタと廊下にこぼれ落ちていく。
「あーっ、もう! 片付けてよ!」
慌てて駆け寄ったミハルが拾い集めようとするが、廊下に膝を下ろした瞬間、今度は台所の方から盛大にものが倒れる音が聞こえてきた。
「逃げるなってんだ!」
「やだー! ファムさま、どこ!? 助けて!」
騎士隊長の手を振り切って台所から飛び出してきた幼児が、今度は客間へと逃げ込んだ。じきにそこからも転倒と喧騒の嫌なアンサンブルが響いてくる。
「……やめ、やめて……! やめて―――!」
男子高校生の悲痛な叫び声に耳を傾けるものは誰もいなかった。
幼児の悲鳴と、なで肩の騎士隊長の怒声とが喧騒と混乱の先触れだった。追いかけっこの場所が部屋から部屋へと移っていくたび、日頃の女騎士の掃除によって秩序正しく清潔に保たれていた邸内は混沌のるつぼと化していった。
「あー! 仏間はダメ! おばあちゃんのお仏壇があるから!」
「やだ! やだやだやだ!!」
「いい加減にしろ!」
……大捕り物は結局、ちょうど10分後にピッコローミニが幼児の首根っこを捕まえて引っ張り上げるまで続いた。
思った以上に長くなったので今回は4分割となります。
10_3(中2)は明日夜追加します




