9話 女騎士のお宅訪問(1)
「漏れる漏れる……」
限界を訴えだした膀胱をなだめすかしながら、安川ミハルはトイレに向けて廊下を小走りに駆けた。
アルバイトに行く前に自宅によって荷物を置いておこうと思ったのは良いが、下校の途中で尿意をもよおしてしまったのだ。
学校のトイレで済ませておけば良かったなどと後悔しつつ、洋式便座の設けられたトイレに駆け込んだ。
ドアのカギをかける余裕もない。足踏みするようにして尿意をごまかしながらズボンに手をかけた。
ついで下着を下ろす。立小便がどれだけ飛沫を散らすかの実験映像を昔テレビで見てからというもの、用を足す時は常に座って行うのが少年の習慣になっていた。
パンツを下ろすと隠されていた自分の一番の恥部が……隠語であるとともに言葉通りの意味で……目に飛び込んでくる。
「はぁ……」
思わずため息をついてしまった。
肌や二の腕と同じように、その部分はまるで果物のようなつややかさを保っている。。
同世代の他の男子はきっともうすっかり残らず大人になりかけているだろうに、15年間見慣れた光景のままだ。
日に何度かのこの行為で、そこを見るたびにミハルは憂鬱な気持ちになる。
「陰毛が欲しいなあ……」
トイレかあるいは自分の部屋でなければできないつぶやきが漏れた。
小さく首を振って仕方ないと割り切って、便座のフタを開こうとしたとき。
すぐ近くで、『どすん』という重い音がした。
「……は?」
上げた視線の先に、金属製の靴が転がっていた。それも二つそろって。
いぶかしみながら目を上げると、次いでまぶしいくらいの光沢を放つすね当てが隙間なくくっついている。
その上には大腿を守る腿当て、腰布、ソードベルト。更には丸く湾曲した胴当てと胸当てが、トイレの中の光景を反射して映し出していた。
「……」
「…………?」
いつの間にか、なで肩の男がフタをしたままの洋式トイレの上の便座に陣取っていた。
全身を隙間なくフルプレートの鎧に固めて、首から上だけは何もつけずに外気に晒している。
卵型をした顔は驚いたように一瞬だけ眉をはね上げてから……。
まさにパンツを下ろした少年を見て、そこが何をする場なのかと今まさに何が行われようとしていたかを瞬時に理解したようだ。
嫌味な形にねじれた唇から声が漏れた。
「おいおい」
「――――――!?」
「連れションは男のたしなみだから結構だが、ノックくらいはしてくれよ」
「キャ―――!」
絹を引き裂くような男子高校生の叫び声が響き渡った。
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「……うるせぇな。タイミングが悪かっただけだろ」
「な!? な、ななななな!?」
露骨に鎧を着た男が嫌な顔する。
実はその顔に見覚えがあることも忘れて、混乱の極みにあるミハルは思わずズボンを引き上げることも思いつけずに必死に両手で股間を隠そうとした。
「ミハル―――!」
突然の闖入者の出現に少年が上げた叫び声は、邸内にいた女騎士の耳にも届いたらしい。
すわ何事かと廊下を全速力で駆けてくる音が聞こえてきて、ミハルは背中に突然氷を突っ込まれた時と同じ形に表情筋を固めた。
「敵はどこですか!?」
「ギャー――ッ!?」
一切の躊躇も遠慮も挟まずに、大剣を持ったファム・アル・フートがトイレのドアを全開放した。
「…………騒がしいな。"現世"じゃこれが普通なのか?」
「むっ!? …………ピッコローミニ隊長?」
便座に座ったままの男に対して大剣を鞘走らせようとしたところで、ファム・アル・フートは急制動をかけた。
思わぬ来客の姿に、紅い瞳を丸くしてぱちくりとする。
「一月ぶりだな、騎士ファム・アル・フート」
その声を聞いて、もじもじと膝を揺らしていたミハルは突如露われた男の正体をようやく思い合たった。
突如現れた鎧姿の男の顔を一度だけ見たことがある。確か女騎士の同僚……あるいは上司だったはずだ。
それが一人で、うちのトイレに何の用があるというのだ?
ますます混乱したミハルの横で、慌ててファム・アル・フートは『がばっ』と背筋を伸ばした。直立不動の姿勢で胸に手を当てて立礼する。
「はっ! ご苦労様です!」
「"現世"じゃ、自分の家の中で剣を持ち歩くのか?」
「いいえ! ……その、これは、万が一のための用心です!」
女騎士は恥じ入ったのか、とっさに背中に大剣を隠した。
ミハルはそれを見て、異世界ではこれが普通なのではなくやはり女騎士が特別変わり者だったのかと妙な感心をしてしまった。
顔を正面に据えたまま、ファム・アル・フートは下半身を露わにした少年と便座にふんぞり返る上司との間で視線を行き来させた。
「あの、質問をよろしいでしょうか?」
「何だ」
「一体どうやって突然、我が家にお越しになられたのでしょう?」
「ああ、今度から"異世界"から"現世"に来るときの出口がここになっただけだ」
ミハルにとっては聞き捨てならないことを、あっさりとなで肩の騎士団隊長は告げた。
「前は不便だったんだろ? 男用の公衆便所に繋がってたと聞いたぞ。アルカイドが愚痴ってた」
「公衆便所!? そうだったのですか? ……いえ、私としても往来の時間が短縮できるのは結構なのですが、なぜ我が家の便所などに?」
「俺などではとても測り知れん神々のご判断だな。……良い方に考えろよ。浴場よりは隠す範囲が少なくて済むだろ」
内股のまま股間を手で隠す少年に、騎士団大隊長はちらりと視線を送った。
まだかまだかとずっともじもじと耐えていた少年のかんしゃく袋は、それを聞いて爆発した。
「いいかげんにしろ!!」
顔を真っ赤にした少年の叫びに、異世界の騎士団の大隊長と美貌の女騎士は同時にびくりと肩を震わせた。
「ずっと我慢してんだぞ! 出てけ! うすらばかども!」
「あの、ミハル。そんな失礼な……」
「黙れ! 今、この瞬間だけは、この場所は俺の領地だ!」
その迫力に慌ててピッコローミニとファム・アル・フートはトイレから退散した。
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「……ではあらためまして、こちらがピッコローミニ隊長です」
「どうぞよろしく」
食堂のテーブルについたピッコローミニは、言葉とは裏腹に親愛の欠片もない視線を向けた。
「…………」
まだ恥辱を感じているミハルは、挨拶を返さず代わりに敵意と疑義で塗り固められた目で応じた。
それを見たピッコローミニが、かたわらのファム・アル・フートに小声でささやきかける。
「なんか怒ってるぞ」
「まだ子供なのです」
「確かに。便所で見た時は思ってたよりも子供だった。お毛毛もまだ生えてなかったしな」
「き、きっともうすぐですよ!」
「ああでも、ちゃんと男だったのは確認できたぞ。俺はひょっとしたらおまえさんが同性愛者なんじゃないかと少し疑ってたからな」
「失礼な!」
女騎士は椅子から腰を浮かしかけてから、少年の表情がますます険しくなったことに気付いて、慌てて話を逸らしだした。
「と、ところでピッコロ―ミニ隊長。本日はどのような御用ですか」
「ああ、査察だ」
「査察?」
「お前らがどんな生活をしているか見聞きして法王庁に報告することになってる。仮にも神造裁定者の指名と法王聖下の勅裁が下された祝福者様が粗末な生活をしていたら良い笑いものだからな」
「何と」
少年には意味が良く分からない言葉が続いたが、女騎士にとってはちょっとした一大事のようだった。
「そのためにわざわざ隊長ほどの方が?」
「俺が適任ということになった。何の因果か、俺はお前らの結婚の立会人だからな。ありがたいことに」
「光栄です!」
「妻なんか泣いて喜んだぞ。"我が家の末代までの名誉だわ!"なんてな。どうもありがとうよ」
感謝の言葉にしては、その喋りようにはたっぷりの皮肉と嫌味と当てつけが薬味には多過ぎるほどの量で乗せられていた。
が、女騎士は気づかないようで額面通りそのままに無邪気に喜び出す。
「そのようなお気遣いを頂けるとは! 感謝の念に堪えません!」
「ああ、そう」
「そうです。良いことを思いつきました。将来産まれる長男には祖父の名前をつけるつもりでいますが、次男が産まれたら隊長の名前を頂いて"ジョバンニ"とつけることにいたしましょう!」
「やめろバカ」
「ああ、そんな。遠慮なさることはありません! 素直にお喜びください」
「……すぞ」
小柄の隊長の全身から瞬時に発せられる静かな怒気に、ミハルは首筋にカミソリの冷たい刃を当てられた時のようにびくりと体を震わせた。
が、女騎士は無邪気にくねくねと手をすり合わせている。
根本的にこいつは人の悪意というものに鈍感なのではないか――――――少年はそう思わずにはいられなかった。
「……飲み物をくれるか」
女騎士を折檻してやりたいという感情と自分の失職を危ぶむ理性とのせめぎ合いは、どうやら理性の方がやや優ったらしい。
なで肩の騎士は陰鬱な顔でうつむくとそう要求してきた。
「かしこまりました。お茶でよろしいですか?」
「当たり前だ。俺は勤務中だぞ。酒はまずいだろ? なぁ?」
ピッコローミニは台所の隅のゴミ箱のそばに並んだ空のワイン瓶に視線をやりながら言った。
いそいそとファム・アル・フートは立ち上がると、コンロの上に置かれた薬缶に火をかけた。
燃料も火種もない場所から小さな青いガスが立ち上るのに軽く目を見開いてから、ピッコローミニはもっと重要なことに気付いた。
「おい。執事か女中を呼ばないのか? ……普段からお前が家事をするのか?」
「そうですが?」
「使用人は?」
「いません」
今度こそピッコローミニは驚いたようで、ずっと眠そうに半開きにしていた目が丸くなった。
「そんな悲惨な経済状況なのか!?」
「とんでもない。これが何かお分かりですか? コーヒーですよ」
「コーヒー!? とんでもない変人の枢機卿の家か、ここは!」
ファム・アル・フートがスーパーの特売品、3本で1000円の時にまとめ買いしたインスタントのコーヒーの瓶をかざして見せる。
ミハルには何がそんなに大ごとなのかは理解できなかったが、ピッコローミニは血相を変えた。
「訳が分からん」
運ばれてきた小さなカップの上に浮かんだコーヒーの湯気を眺めながら、見た目は平静さを取り戻したピッコローミニ隊長はつぶやいた。
「これを"聖都"で飲めば一体いくらするんだ?」
「気持ちは分かります」
渋い顔のままずずっと音を立ててコーヒーを一口すすったピッコローミニは、同じ顔で言った。
「……帰ったらすぐに使用人がここで働くように手配する」
「ちょっと!」
「何人が良い? この家に部屋は幾つある?」
「台所と浴室をのぞけば5つですが」
「それだけ? ……執事が一人と、女中が三人だな。お前たちに一人ずつ専属と、一人は客室係だ。コーヒーを煎れるのが得意なやつをな」
泡を食うミハルの横で、ピッコローミニは懐中から取り出した大きな鍵付きの手帳に何やらメモを始めた。
「いらないよ、そんな! 使用人なんて!」
「心配するな。給金は全額法王庁が負担する」
「うちはそんなお金持ちじゃないんだ! 今より更に家の中をややこしくしないで!」
「世間を知らん坊やだな。良いか、地位には責任が伴う。責任っていうのは、つまり他人に仕事を恵むことだ。分かるな?」
「勝手すぎる!」
「うるさい。お前らにこんな生活をさせてるとバレたら俺の責任問題なんだ」
少年の抗議なぞどこ吹く風といった様子で、ピッコローミニはつらつらと手帳に何事かを書き連ねていく。
「隊長!」
そこでファム・アル・フートが、テーブルに片手で寄りかかるようにして割って入った。
「何だ?」
「私はこの生活を大変気に行っています! お気遣いには感謝しますが、彼の言うように使用人は必要ありません」
「本当か?」
「ええ、何故ならこれは清貧で自らの魂を鍛える修行だからです。『財産の少ない者ほど神の国に近づく』と言うではないですか」
一瞬期待した自分が馬鹿だった、と頭を抱えかけたミハルの背後からファム・アル・フートは抱きつくようにした。
「おいっ!?」
「ミハルだって私の世話にとても満足してくれています! そうですよね!?」
「くっつくなって!」
「その証拠に、私は嫁いでからというものミハルから不満の声を頂戴したことは一度もありません!!」
「「えぇっ!?」」
驚愕の表情を浮かべて、少年となで肩の騎士団隊長との声が同時にハモった。
思わぬ共鳴に二人は意外そうに互いの顔を見合わせて、バツが悪そうに視線を交錯させる。
「本当か?……正直に言って良いぞ」
「…………ええ。とても言葉には言い尽くせません」
たっぷりと熟考してから、ミハルは偽りなく彼の本心を口にした。
『うんざり』から『げんなり』の間を目まぐるしく行き来したその表情を見て、ピッコローミニは何かを悟ったらしい。
小さく鼻を鳴らすと書きかけの手帳を音を立てて閉じた。
「なかなか希望に満ちた結婚生活をしておいでのようで何よりだ」
「ねぇ、今ので分かったでしょう。ミハルが私のことをどう思っているか」
「ああ、よ―――――――――く分かったとも」
次回は明日夜追加します




