5話 指輪あれば憂いなし(2)
――――――翌日。
「古代ギリシャでは薬指の血管が直接心臓につながっていると信じられてたんだって」
「へー」
「神聖で治癒の力が備わっているとされていてさ。それが元になって結婚指輪を薬指につけるようになったんだよ」
「ふーん」
学校の昼休み。
いつもなんとなくつるむ場所となっている屋上で、ミハルは友人が披露する聞きかじりの知識に適当に相槌を打っていた。
「今みたいに結婚のときに指輪を使うのは古代ローマ時代で」
「そうなんだ」
「その頃は花嫁の父親に送ってたらしいよ。なんでかっていうと、花嫁を買った代金の証明だったからなんだって!」
「すげー。そりゃ美味そうだ」
スマートフォンの画面上の豆知識を集めたブログに目を落としていた嶺岸ジュンはそこでようやく気付いて、パインパンを美味くもなさそうにかじっているミハルの方へ顔を上げた。
「もー、ミハルくんちゃんと聞いてくれてる?」
「聞いてるって」
「俺、女の子に分かるようにうまく説明できてるかな? 姉ちゃん最後まで聞いてくれなくてさ」
「いけるいける。ジュンは黙ってたらもっとモテるよ」
嶺岸ジュンは不満そうに頬をふくらませる。
『トリビアを知っていてうまく披露できると女子に受ける』という古臭い話を真に受けてネタを収集し始めたらしいが、今のところなかなか成果として現れてはいないようだ。
「なんか俺、クラスの女子からは軽く見られている気がするんだよね」
その予感は当たっている、とはミハルは気の毒で言えなかった。
骨の成長に見合った体格をしていないせいでひょろ長く見える嶺岸ジュンだが、高身長でルックスも良いことから入学当初は女子連中からは黄色い歓声を浴びせられていたものだ。
……が、栄光の日々は長く続かなかった。
小学五年生並みの好奇心と無邪気さを隠そうともしない上に何かあるとすぐ姉に頼ろうとする依存心を見抜かれて、波が引くように静かにその周りからは女子たちは去っていったのだ。
「だからさ、中学の頃の友達に女の子紹介してもらおうと思って! そのときにインテリぶってみせたら印象変わるでしょ」
「前向きだなあジュンは」
「そりゃ彼女欲しいもん」
「えっ、そうだったの!?」
友人が秘めた意外な野心にミハルは思わず声を上げた。
「ミハルくんはお嫁さんいるから余裕あるんだろうけどさ、俺たち健康な男子高校生だよ。女の子追いかけるのは当たり前でしょ」
「ちょっと待った。既成事実みたいに語るのやめてくれる?」
何故自分の周りの人間はこうも抵抗なくあの女騎士を受け入れているのだろうか……。ミハルは頭痛を感じてきた。
ファム・アル・フート本人はもとより彼の家族や友人たちまで『押しかけ女房』を当然のごとく受け止めているというのは、少年にとって見過ごすことのできない傾向である。
「マッキーはどう? 彼女欲しくない?」
「別に良い。俺の嫁たちが暮らすにはこの低俗な3次元は汚れ過ぎている」
話に入らずにベンチの端で静かに本を開いていた牧野タクヤが短く答えた。
岩波文庫でも読んでいるのかと思っていたら、パステルカラーの髪の毛を女の子たちが均一な笑顔を浮かべる表紙のライトノベルだった。長ったらしいタイトルから察するにハーレムものらしい。
「良く学校でそんなの読めるな……」
「羞恥心なんか捨てた方が人生楽しく生きられるぞ?」
とかく人の視線というものが気になってしまうミハルにとっては信じられない暴挙なのだが、平然と牧野タクヤは答えてみせた。
「とにかく話戻すよ。なんでリングかっていうと、古代エジプトでは円は神聖で太陽の力を象徴すると……」
「まーたどっかの受け売り? どうせ女の子にモテたいとかいう理由でしょ」
ひょい、と昇降口から細身の女子生徒が顔を覗かせてきた。彼らの共通の友人である大師堂マドカだ。
「ねー、マドカちゃん聞いてよ。トリビアネタなんだけどさ」
「ふーん? 良いけど女子ってそういうのウケてるふりして実は馬鹿にしてること多いよ?」
「えっ」
「自慢げに『薬指は心臓に繋がってて神聖な指だから結婚指輪をはめるんだ』なんてやったらもう影でゲラゲラ笑われちゃうかも」
「…………」
口を閉ざして固まったジュンに構わずにベンチに腰掛けたマドカに、ミハルはちらりと視線を向けた。
「女子ってやっぱりそういうの調べたりするの」
「そりゃあそうでしょ。アタシだって左手の薬指だけは生まれてから一度も指輪はめたことないもん」
「……大師堂さんって指輪するんだ?」
「え、するよ? 見たことない?」
当たり前のように返してきた大師堂マドカに、ミハルは『女子って進んでるんだ……』と妙な関心をしてしまった。
「ミハルくんは結婚指輪しないの?」
「なんでさ」
「だってファムちゃんと結婚したんでしょ」
「ねえそれ、あいつが自分で言ったの?」
一体自分が知らないところで友人たちとどんな会話をしているのか……ミハルは空恐ろしくなって聞き返してしまった。
「ファムちゃんは指輪買おうとか言ってこないの?」
「え? ……なんで?」
内心では一瞬何かのあてこすりかと慌ててしまったミハルだが、まさか昨日の今日で友人に知られてしまうようなことはあるまいと思い直す。
「うーん、なんとなくだけどね。アタシだったら知らない外国に住んでてパートナーが見つかったらさ、おそろいのものが欲しくなるかなって」
そういえば彼女たちはファム・アル・フートが東欧の小国からやって来たと誤解しているのだった。ミハルはそのことを思い出して座り直した。
「それってペアルックとかそういう?」
「そうじゃなくって、懐かしいものなんか周りに何ひとつないわけでしょ? 誰かと一緒のものを身に付けてたらさ……。なんていうか、心強くない?」
体重を背中側に預けるようにしながら、マドカは持ってきた紙パックのジュースにストローを差し入れた。
「心強い?」
「そうそう。誰かと一緒のもの身に付けてると安心できるじゃん。自分は一人じゃないんだって。単なる気持ちの問題だけど、いつも持ってるとすぐ確かめられて良いよね」
そういう考え方もあるのか、とミハルは軽く目を見開いた。
昨日ファム・アル・フートが必死になって指輪をはめさせようとしたのは、てっきり彼女の気質である頑固さや四角四面な融通の利かなさからくるものだと思い込んでいた。
マドカの言う通りだとすると、あの態度はひょっとしたら不安の裏返しかもしれない。妙に上機嫌だったのもそれなら納得できる。
……だとすると、自分のやったことが急に人情味がない対応のような気がしてきた。
別に悪いことはしていないのだが、もうちょっとやりようがあったのではないか。そんな座りの悪い思いがこみ上げてくる。
「大師堂さん」
「んー?」
ストローからジュースを吸い上げながらマドカが首を傾げる。
「……アクセサリーとか売ってる店、知ってる?」
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「ただいまー……」
小さな袋を片手に帰宅したミハルだが、出迎えたのは薄暗い家の中の空気と沈黙だけだった。
「ファム? いないの?」
少しがっかりしながら靴を脱いで上がったものの、茶の間にも居間にも人の気配はなかった。
漠然とした不安がこみあげてくるが、鍵をあけ放ったまま外出するほどうかつな性格ではないと思い直して彼女の私室へ足を向けた。
「ファム。開けるよ?」
元は客間として使っていた部屋……今ではファム・アル・フートが占有している……はろくに家具がなく、代わりに部屋の片隅に大きな木製の箱がでんと置かれていた。
彼女の世界にキャリーバッグやスーツケースなどといった便利なものはないらしい。これがタンスの代わりだ。
その横に、これまた大きな箱が置かれている。
材質は不明だが頑丈そうで、旅用らしい木製の箱とは違って幾何学模様で彫り込まれた線が美しく組み合わされている。
彼女の鎧箱だ。
<<祝福者安川ミハルの無事な帰還を歓迎する>>
誰もいない部屋の中から、平板で無機質な声で大仰なセリフが聞こえてきた。
「ただいま、"ファイルーズ"」
ファム・アル・フートが言うには鎧の精霊らしい、彼女の相棒だ。
精霊のささやきというより無人販売機の音声案内のような調子で、どちらかといえば男性のもののように聞こえてくる。
最初は驚いたが、ミハルの方も最近は鎧が喋るというくらいでいちいち動揺していられないという気になってきた。
「ファムは?」
<<在宅である。現在地は食堂>>
「ありがと」
短くてそっけない回答に短く感謝して、ミハルは邸内の奥側にある台所へ足を向けた。
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台所と兼用の食堂に入ると、ぷうんとアルコールの臭いが漂っていた。
顔をしかめながら見やる。
椅子に腰かけた女騎士が腕を枕にするようにテーブルにつっぷしていた。
テーブルの上には3本のワインボトルが並んでいた。中身は空か、もうすぐそうなりつつあるかのどちらかだ。
「うぅ……」
酔って眠っていたのか、それとも泣いていたのか判然としないが、ファム・アル・フートは小さくうめいて視線を上げた。
背を向けた出入口の方で冷たい視線を送っているミハルには気付かない様子だ。
赤らめた頬と、潤んだ目元で自らの薬指に収まる紫と金の指輪をじっと眺めている。
「この指輪が、二人の絆を永遠につないでくれるはずだったのに……!」
「倦怠期の奥さんみたいなことを言い出すのはやめろ」
つい突っ込んでしまった。そこでミハルにようやく気付いたらしい。
椅子からひっくり返るのではないかと心配になるくらい飛び上がって、女騎士はぶるっと肩を震わせた。
「お、おかえりなさい! ……ちちち違うんですミハル! これは、ワインが痛んでいないか味見を……!」
「酒くさっ! ……これおじいちゃんがもらったワインなんだぞ。別に良いけど」
家を空けることが多い祖父はあまりアルコールを口にしないが、その友人だというワイン業者が年に何度か好意で送ってくるものだった。
この間もこっそりブランデーを冷蔵庫に隠したり、納戸にしまってあったはずのものをよくも見つけるものだ。
あわあわとヤケ酒の痕跡を隠そうとするファム・アル・フートを無視して、グラスと空き瓶を片付け始める。
「…………」
酒と羞恥で真っ赤になった女騎士がぐにゃぐにゃと眉を曲げている間に、ミハルは手早くテーブルを空けると台拭きで清めた。
「……?」
てっきり叱られるものと身構えていたファム・アル・フートだが、何も言わずにミハルが対面の椅子に腰かけたのを見て、おそるおそる顔を上げてきた。
いぶかしげな目を送る女騎士に、少年はややぶっきらぼうな動きで手のひらを差し出した。
「ほら、貸せよ」
「え?」
「……指輪」
視線を交わさずに要求されてファム・アル・フートは意図がつかみかねたが、迷ってから自らの薬指から引き抜いてミハルの手のひらへと置いた。
「……」
何も言わずに受け取ると、手にした小袋を開き始める。薄いピンクで花びらが描かれたファンシーな紙袋のデザインは、男子高校生が持り帰るにはちょっと不釣り合いだった。
中から、新品のネックレス用のひもを取り出す。
「それは……」
ファム・アル・フートが目を見開く前で、ミハルはネックレスの接合部分を外すと指輪を中へと通した。
そのままひもの両端を自分の細い首に回すと、少し手こずりながらも留めることに成功する。
最後に胸の前にぶらさがった指輪を軽く持ち上げ、長さが胸のあたりまでなのを確認した。
「指には留められないけどさ」
照れ隠しなのか相変わらず視線を交わさないまま、唇をとがらせて少年は呟いた。
「こうやって付けててやるよ。……その、薬指にはまるようになるまで」
ぽつりぽつりと口どもりながら、ミハルはそう口にした。
「…………っ!」
ぴくりと両の眉を跳ね上げてから、ゆっくりとファム・アル・フートは椅子から立ち上がった。
テーブルを回り込んで背中側から少年に近寄る。
「え、どしたの……って!?」
言い終わらないうちに、ミハルは背もたれごと後ろから抱きすくめられた。
「――――――ッ!」
慌てて手足を振り回して抵抗しようとするが、彼女の耳で自分の耳にフタをされるかのようにがっちりと抱き寄せられてしまう。
細く柔らかい金髪が鼻先をかすめて、とろけそうな甘い芳香に頭の中は真っ白になってしまった。
「……ありがとうございます、ミハル!」
「――――――ッ!」
「こんな気遣いをしていただけるなんて思いませんでした! あなたに感謝を!」
神経質な子犬のように両腕の拘束から逃れようとするのだが、体の前に回された腕には万力のような力が込められて抜け出すことを許さなかった。
心臓がでんぐり返りそうになりながらも、ミハルは単なる金属のリング一つを身に付けるだけでここまで人間の気持ちが動くものかと驚いていた。
ネックレスの紐を買う時までは恥ずかしくて仕方なかったのに、不思議と今では身に付けておくくらいならしてやっても良いという気分に
なっていた。
「この指輪がある限り、私たち夫婦は目に見えない絆でつながっています!」
「……!」
「ミハルが世界中のどこにいたって……。必ず私が見つけ出してみせますからね……!」
「も、もう、やめろよ! そういう恥ずかしいこと言うの!!」
すぐそばにある唇からこぼれ出た言葉に、ミハルは耳の先まで真っ赤になって唾を飛ばした。
「だいたい気持ちでつながるっていうのは、こんなもののやり取りだけじゃなくて、思い出とかそういうのを積み重ねてからだな……!」
「え? 単なる事実ですけど?」
「……ナニ?」
きょとん、と女騎士が意外そうに顔を遠ざけた。
「ねえ、そうなんでしょう? "ファイルーズ"」
<<肯定する>>
女騎士いわく『鎧の精霊』の平板な声が割って入った。
<<指輪から定期的に検出される超長波を探知することで、当機は地球の裏側からでも2mを最小単位として座標の特定が可能である>>
「…………」
「ね! 言っている意味は良く分かりませんが、とにかく神のお導きに違いありません」
『精霊』らしからぬ理詰めの口調で聞き捨てならないことを告げた"ファイルーズ"の言葉を、ニコニコとして女騎士は受け止めていた。
「……つまりそれって、ガイドビーコンとか位置探知GPSとかそういうのか?」
<<その認識で問題はない>>
「ね、すごいでしょう? これが距離や時間をも超える夫婦の絆というものです」
「ただの発信機じゃねーか!?」
ガツンと振り返った少年の額が、女騎士の鼻っ柱を直撃した。
「いだぁ……!」
「おまっ……!? 何を堂々と人のプライバシーを剥ぎ取ろうとしてんだ!」
鼻を抑えてよろめく女騎士に向かって、拘束から逃れた少年は拳を震わせて怒りを露わにする。
「それは……ほら! どこにいるのかいつでも分かった方が警護には便利ですよ!?」
「うっさいわ! 絶対にロクなことにならねーだろ!」
「……で、で、でも! この間みたいに拉致されかけたときでも、すぐ助けに行くことができますし!?」
「あれやったのもおまえの仲間じゃねーか!」
なおもよろよろと取りすがろうとする女騎士の頭頂に、怒りの火に油を注がれたミハルの無慈悲な手刀が叩き込まれた。
次回は明日朝8時ごろ追加されます。




