一世一代の見栄
シンシア・ガーラントは有名人だ。
庶民の間では、由緒正しい貴族の子女なのに治癒魔法師として弱きを助ける優しき乙女として。
貴族の間では、女王の五指に数えられる姉と義兄の、妹として。また、烈女などという悪意ある渾名の主として。
その才は、治癒魔法の繊細なる技に留まらず、貴族の子女として楽器を弾かせれば人の心を揺さぶり、次期領主として国交を語らせれば年上の男性とも渡り合える。幼少から優秀で勤勉な兄姉の背中を追っていたシンシアは、成人を前に、すでに兄姉に恥じない実力を身につけている。
さらにその見た目ときたら、ふわふわの金髪にぱっちりとした真っ青な瞳で、正しく美少女だ。愛らしい頬のライン、ふっくらとしたばら色の唇は、見る者全ての庇護欲をそそる。
これは、決して一個人の主観ではない、とランスは思う。
「あ、シンシア様だ~」
「うおお、やばい眩しい」
「お人形さんみたいだねぇ」
現に今も、治癒院にくる子供から老婆まで、そしてもちろん修業中の学生たちにも大人気である。
それなのに、シンシアは目立たないように入室した人影にすぐに気づいて顔をぱっと明るくした。
「まぁランス様!」
シンシアが、自分のような者にまで同期のよしみで微笑みかけてくることに、ランスは恐縮するばかりだ。
ランスが彼女と一緒に学んだのは、もう2年も前のことになったのに。その上こちらは昨年治癒魔法師を廃業して、文官に転職したのに、と。
転職といっても、王宮で治癒院を管轄する部署を独立させるときに、現場の経験者を一人入れることになったとかで、白羽の矢が立ったのだ。拒否権はなかったとランスは思っている。そのため、拒否する気もなかったが、大喜びもしなかった。
「ちょうどよかったんだろ、きっと。抜けても治癒院の戦力に大して打撃がないし。貴族じゃないけどまあまあ身元がはっきりしてるし」
その当時、ちょうど友人が結婚式を挙げたので久々に同期が集まった。めでたい席の二次会で、ランスの転職の話が出たのは、出世だと好意的にとらえた誰かの口からだったか。
淡々としたランスの答えに、相手は気まずげに口ごもっていた気がする。代わりに新郎が話を接いだ。
「ランスの実家って何してる家?」
「田舎で代々医者やってる。兄貴が継いでるんだ」
「医者のお坊っちゃんか。それが何で治癒魔法師になろうとしたんだ」
心底不思議そうに友人は聞いた。ランスたちの修業の厳しさをしっているからだろう。
「まあ、格好つけて言うと、医者にできないことをしたかったんだよなぁ」
家の前にはいつも病人がいた。そうして並んでいても、薬代が満足に払えないため、充分な治療を受けさせてやれない者もいた。大けがや原因不明の病で、なすすべなく見送った患者もいた。だから、治癒魔法師という存在を耳にしたとき、すぐに思ったのだ。これで彼らを救えるかもしれないと。
「だから、辞令は残念っちゃ残念かなぁ。あ、でも免許取り消しとかじゃないから、退職したらまたやれるし。まあ、決まったからには、今度は一治癒魔法師には出来ないことをやりますかぁ」
嘆いても仕方ない。そう思いつつ、所詮自分は後ろ盾のない庶民だだとか、大した戦力ではなかったのだとかいう自嘲が声ににじまないように、注意深く繕う。何しろここは祝いの席なのだから、嘘でも見栄でも明るくもっていかねば、と。
そのとき。
「何のお話をしていらしたんですか?」
鈴を転がすような明るい声がした。振り向くと、彼女が立っていた。
「シンシア様」
目が合うと、シンシアはにっこりと笑った。
「改めておめでとうございます、ルーク。貴方のヘティを私たちで独占していてごめんなさいね」
主役の新郎に祝いの言葉を述べる彼女は、どちらかというと新婦側の友人で、先ほどまで数メートル離れた女性陣の輪の中にいた。
「俺はそこまで束縛しませんよ。それよりも、忙しい中出席してくれて、ありがとうございます」
「あら、親友の結婚式を見届けるのは、当然でしょう?」
シンシアはそう言うが、そこまで当然でもない。何故なら、新郎のルークが貴族の養子になっているとはいえ、本人達は爵位もないどのつく庶民だ。この場には、彼らの故郷の家族や元勤め先の主人、王都で世話になった人など、貴族社会など何一つ知らない人間が賑やかに飲み食いしている。縁のある貴族の面々を交えた式の方は厳粛な雰囲気だったから、ランスは、きっと彼女もそちらだけ出て帰ると思っていた。それなのに、楽しげにその輪に混ざっているのだから、このお嬢様は見た目によらず本当に逞しい。
苦笑いした新郎とのやりとりを終えると、シンシアの目がまたこちらを向いた。
「ランス様も、お久しぶりです」
「お久しぶりです。少し会わない間に、シンシア様はまた美しくなりましたねぇ」
冗談だととったのか、彼女は扇の陰でくすくすと笑った。
「お上手ね。でも、私は相変わらずです。それよりも、貴方のことをお話ししたいわ」
「何でしょう?」
「先ほどお話しなさっていた辞令についてですわ」
「聞こえていたんじゃないですか」
苦笑いしたランスに、シンシアはすまして言う。
「ええ、少しだけ」
ランスはこのとき、よく分からない苛立ちが込み上げるのを感じていた。
他の人間に聞かれても、首を突っ込まれたなどと思わなかっただろう。いつものランスなら、何となく話を合わせて躱せていたはずだ。
けれど、シンシアは貴族だ。
美しい薄紅色のドレスは主役をたてるべく装飾を控えたものだが、それでも近寄れば質の良さが分かる。
彼女は、ランスとは違う。自分にはどうにもできないこの辞令も、彼女なら拒否できたのだろうし、そもそも実力のある彼女には降りかからなかったのだろう。そんな考えが脳内を巡り、挙げ句口をついて出た。
「どうでもいいことでしょう?どうにもならないですしね」
こんな言い方を、普段のランスはしない。酔っているのだろうか、と自分の酒量を思い出す。
シンシアは、軽く目を見開いた。澄んだ青い目がランスを映している。傷つけたか、と何とか取り繕わねばと思ったとき、シンシアが言った。
「まあ、珍しい。酔ってらっしゃるの?それとも荒れてらっしゃるのかしら」
純粋に興味深くのぞき込まれて、たじろいだ。つっけんどんな物言いをしたことへの気まずさがいや増す。
しかしそんなランスへ、シンシアはふわりと微笑んだ。
「あのね、辞令が貴方にとって不本意なら、私、王宮へ抗議に行こうと思っていますの」
ランスは一瞬ぽかんと口を開けかけた。
「…何を言ってるんですか」
「あら、私やると決めたらやりますのよ」
知っています、と言いかけて流石に自重した。シンシアが烈女という悪評を得たのは、王宮への直談判という一介の令嬢らしからぬ醜聞のためだ。それにまつわる噂の尾びれは信じていないが、直談判の部分が事実だということは、彼女の親しい面々からそれとなく聞いている。
ランスは辺りを憚って場所を変えた。
宴席が開かれたのは王都郊外のレストランで、小綺麗な庭がついていた。季候が良いのに虫などがいないのは、魔法具の働きのおかげだ。室内よりよほどすいているが、見晴らしもよいし無人ではない。
「あんまり、人の多いところでああいうことを言わない方が良いですよ」
ランスのため息に、シンシアはくすりと笑った。
「私の評判を気にしてくださったのですか?ありがとうございます」
礼を言いつつ、気にした様子もない。ランスは小さくまた息を吐いた。
「…それで、何でしたっけ」
「辞令についてです。不本意ならば抗議しますと。でも、先ほどお話を聞いていて、余計な心配だったかと思い始めたところでした」
「まぁ…シンシア様に抗議してもらおうとは思わないですけど」
不本意なのは否定せずにおくが、ランスのことを考えてくれたのだろうと思うと、気持ちが和らいだ。遠慮なく首を突っ込まれたにしても、それが自分の評判も顧みない本気の心配ならば、話は別だ。むしろ、そこまでシンシアが自分のことを気にかけてくれていたというのは、ランスにとって新鮮な驚きだった。
それで、不意に聞きたくなった。
「あの。もしよければ、伺いたいんですけど」
「まあ、何かしら」
「シンシア様は、どうして治癒魔法師になろうと思ったんですか?」
これは、前から少し不思議に思っていたことだった。彼女の姉が治癒魔法の第一人者であることは知っている。けれど、彼女との接点が増えると、シンシアという少女が見た目のようなふわふわした娘でないことはすぐに分かる。だからランスには、彼女が姉への憧れだけで治癒魔法師になったといわれても、どこか違和感があったのだ。
「そうですわね…貴方と同じ、でしょうか」
シンシアの顔は、苦笑というのに近かった。
「私、小さい頃に親族の病床に付き添っていたことがあるのです。そのとき、姉や兄は方々飛び回って治療法を探しました。でも、私はただ待っているしかありませんでした。私には、何もできなかった。それで、自分で何かを救える力が欲しかったのが、最初の理由です」
そこまで言って、彼女の大きな目がいたずらっぽく光った。
「その後いろいろあって、自分の立場を作るためですとか、社交界に顔を出す時間を減らすためですとか、他にも理由ができたのですけれどね。…でも、私、ゆくゆくはガーラント家を継がなくてはなりませんの。治癒魔法で患者を助けるよりも、施政で領民を助けることが必要になりますし、それができる立場につくでしょう。そのときが来たら、今度は領主として精一杯領民を助けると決めていますわ」
「あぁ…」
貴族という立場について、シンシアとこのように話したことはなかった。けれど、彼女の言葉はランスの知る彼女の印象を裏切らなかった。聡い彼女は自分の立場を理解している。その上で、その心は今目の前の人を救いたいと彼女を突き動かす。
「なんて言うか、シンシア様が治癒魔法師を廃業したら、大打撃ですね」
世間話でもするようにそう言って、ランスは、自分の肩よりも低いところにある彼女の姿を見下ろした。頼りないほど細い肩、小さな頭。彼女は憤慨するだろうが、その容姿は幼さを残している。けれど、ランスはもうずっと、シンシアの内面を大人として対等に見てきた。そして改めてこの日思った。
彼女は、立派なレディだと。
ランスなど近づくことも許されない、レディだ。
「私は領主としての役割が回ってくるまで、治癒魔法師を続けます。ランス様は、一足先に、一介の治癒魔法師にはできないことを始めるのですね」
そう微笑んで告げられた言葉が、今もランスの胸に刺さっている。
あれから一年、自分以外は貴族という環境で、意味なく侮られたり雑用ばかり回されたり、腐りそうになったことも数しれない。
それでもやってきたのは、自分を認めてくれる一部の上司の存在もさることながら、シンシアのあの言葉のせいだ。
あの夜、ランス自身はまだ迷いの中にいた。夢見てつかんだ治癒魔法師という職を離れることに、前向きとはほど遠い気分だった。それなのに、ランスがただの見栄で口にした「一治癒魔法師には出来ないことをやる」という言葉に、シンシアは薄闇の中でも分かるほど目を輝かせていた。まるで尊敬する相手を見るかのように。
それは流石に気のせいだ、とランスは即座に自分を戒めたが、かといって一度あるかも知れないと思ってしまった自分への期待を、裏切る気にもなれなかった。
かくして、自分の張った見栄に合わせるように、馬鹿馬鹿しいと自嘲しつつも一人相撲を続けている。
そうして今日も、書類だけでは伝わらなかった実態を把握して報告書でもって頭の固い同僚を黙らせようと、現場巡りをしていたところだ。
シンシアとの偶然の邂逅にどきりとなった胸をひた隠し、ランスは同期と身分と年齢とを注意深く計算して、正しい距離を導く。
「ご無沙汰しています、シンシア様。今日はこちらの助っ人でしたか」
「ええ、欠員が出てしまったものだから」
そう言ってランスの側へと歩み寄りながら、シンシアは額の汗を抑える。動きやすさ重視の質素なワンピース姿だが、はつらつとして美しい。治癒魔法師の総数でいうと男が圧倒的に多いのだが、彼女たちの人気の高さが全体の知名度の上昇に貢献しているというのも頷ける。
「貴方はどんなお仕事でいらしたの?」
「このところ女性の患者数が増加しているので、女性の治癒魔法師を増やすための施策を考えているんですよ」
「まぁ、そうなの」
両手を合わせたシンシアの顔に、また憧憬が見えた気がした。
「姉にせがんで貴方の評判を教えてもらったので、活躍ぶりは知っていましたの。でも、直接伺えてうれしいわ」
評判と聞いてどきっとする。けれど、同期の評判は普通に気になるものだろう、とランスは思い直して返す。
「ただの、組織の一従僕ですよ」
「謙遜ね。この前の下水道の整備も、貴方のおかげでしょうに」
「あー…予算が確保できなくて、お粗末なものになりましたけどね」
けが人や病人の患部に触れる治癒魔法師のため、本当は、王宮の水場にあるような床下に使い終えた水を流す物を作りたかった。国民は水を魔力で作れるが、使った水を処理する際は外まで捨てに行っていたのだ。しかし、下っ端のランスの発案に割いてもらえた予算はわずかで、特にけが人搬送件数の多いところに試験的に導入中だ。悔しいが、シンシアのよくいる治癒院までは届かなかった。
それだって始まらなければ何も変わらないのだから、とシンシアは肯定する。
その肯定が面映ゆい。さらにその目の輝きが、ランスの胸にまた、あり得ない期待を植え付ける。
いや、あり得ない、とランスは自分にまた言い聞かせなければならなかった。
いい年をして、何を夢を見ているんだと。相手は才色兼備に、身分も名声も兼ね備えた最上級のご令嬢、シンシア・ガーラントだ。有名人だ。由緒正しい貴族の子女でその上治癒魔法師として弱きを助ける心根までも美しい。烈女などという変な渾名も、彼女本人と少しでも接すればすぐに馬鹿げたことだと分かる。
対する自分は見た目にも中身にもぬきんでた物などない凡人。どんなに頑張っても庶民は庶民だし、あくせくかけずり回ってもうまく行かないことの方が多い下っ端のしがない文官だ。
ほら、あり得ないだろうと、ランスは見上げてくる青い目からそっと視線をそらす。
けれど、まだ熱心に見つめられている気がして、必死で表情を取り繕う。
「ねぇ、私、ずっと考えていることがあるのですけれど、聞いてくださる?」
ここではさわりがありますので、と呼び出されたのは、王都の西、魔法具研究所にほど近い友人夫婦の家だった。
「家主がいないって、なんか落ち着きませんねぇ」
家主夫婦は二人がそろうなり、そそくさと買い物に行ってしまった。よって、家にはシンシアとランス二人だけだ。
こじんまりとしたソファに二人で腰掛けると、普段よりどうしても距離が近い。それはシンシアの後れ毛ごしに見え隠れする耳がほんのり赤らんでいる様もよく見えてしまうほど。
「聞かないんですか?」
「何をですか?」
「話とは何か、と…」
シンシアに問われるが、ランスは正直、怖じ気づいていた。
「話しにくいなら、また今度で、いいんじゃないかと」
まるでシンシアを気遣うような言い方で、自分のための逃げを打つ。聡い彼女が気づかない分けもないのだが。
案の定、シンシアの気配が変わる。もともと伸びていた背筋がさらにすっと伸びた。
「いいえ、逃がしません」
「に、逃げるって」
はっきりと「逃げる」と言われて、ランスも流石に動揺を隠せなかった。しかし、むしろシンシアの方は、ランスの逃げ腰に、かえって腹が据わってしまったらしい。
ランスのズボンごしに、膝にシンシアのスカートが触れた。
「ランス様。こちらを向いてください」
「はい…」
「ランス様は、私のことがお嫌いですか?」
「いいえまさか、そんなことあるわけがないですよ。才色兼備のシンシア様を嫌う奴なんているわけないですよ」
「そういう世間一般のことではなくて、ランス様の気持ちをうかがいたいのですわ」
誤魔化せずに言葉に詰まったランスに、シンシアは不安げな声を出した。
「私のような気の強い、こざかしい娘は、やはりお嫌いですか…?」
ランスはほんの少しだけ考えて、切り返す。
「そういうことは、私が気軽に口にして良いことではないと思います」
「なぜ?」
「…何故って、身分からして違うでしょう。戯れでそんなことを尋ねるのは、俺を馬鹿にしているんですか?」
「まさか!」
シンシアが声を張り上げた。
「私、戯れでそんなことを聞きませんっ。私が好いた方が、私をどう思っているのか、知りたいだけです」
ランスはぎょっとして振り向いた。
どこにも聞き間違えの余地のない、退路のない自衛のない言葉に動揺して見れば。
そこにはもちろん、頬を紅潮させたシンシアがいる。シンシアの目は、今日も真っ直ぐにランスを映していた。
「好きです、ランス様。私と結婚してください」
いや無理だ、とランスは答えた。
しかし嫌いですかと再度聞かれれば否定する他ない。シンシアのことが嫌いだなどと、思ったこともない。
「でも貴方は貴族でしょう!」
「そうですわね」
「俺は平民ですよ?お気持ちはありがたくうかがいましたけど、もちろん大変光栄ですけど、現実的に考えて、貴族と平民の結婚なんて無理でしょう」
言うたび広がる苦い味に、ランスは顔をしかめた。
けれど、シンシアの方は美しい眉を歪めもしない。
「ランス様。建設的に私との未来を考えてくださったのですね。私、嫌われていないのだと喜んでしまいますわ」
「ですから!そうだとしても、その未来が描けないって言ってるんですよっ!」
やけくそ気味に叫んだランスの手を、シンシアの指が握った。細い。けれど思いの外力強い。
「ご安心下さい。私、この日のために周到な準備を重ねてきましたの。構想二年の計画の末、最大の難関であるランス様は今突破しました」
自分が最大の難関とは、どんな思い違いだとランスはおののく。もっと他にあるだろう、彼女の親兄弟とか立場とか、貴賎結婚への反対勢力とか。まさかと思いつつランスは尋ねた。
「…なんですか、その構想二年、って」
「まずは両親の説得です。説得と言っても、もともと両親は、私の結婚に関しては好きにしてよいと言っていたのですけれど。そこへ、有力貴族との結婚では我が家に権力が集中しすぎて他家の反感を買います、ともう一押しして、能力があれば貴族に限らないとの了承を得ています。ランス様なら、すでに文官として一年足らずのうちに方々から高評価を得てらっしゃるので、その点もばっちりです」
大事のはずだが、シンシアは可愛く指を折ってあっさりと言う。
「そして、貴族社会の反応ですが、先ほど述べた通りの理由で大体の家は、驚きこそすれ反対する理由がありません。ただし、血統云々にこだわる方々が面倒ですから、有力者のお墨付きを取り付けてあります。兄も姉も、それから王弟殿下も賛成してくださいました」
「王弟殿下?!」
「ええ。私、恐れ多くも殿下には一つ貸しがありましたので。併せて女王陛下の御代に貢献できると主張したら、認めて下さいましたわ」
ここにきて、ランスはシンシアの渾名を思い出した。烈女、という例のあれだ。
ふふふと微笑む彼女の砂糖菓子のような外見からは想像もつかないが、確かにそう言わしめる行動力、強烈さを秘めている。
「そんなところまで持っていく話ですか?俺一人どうこうしたって、世の中になんて」
「大いに影響しましてよ?知名度の高いガーラント家の次期当主が、初の平民出身文官と添うというのです。世論が盛り上がること請け合いでしょう」
話の想像以上の壮大さに、ランスは気が遠くなる。当初、実現性について荒唐無稽だと思っていた話だが、シンシアの語る構想により、実現性を増しながらも、壮大さにおいて現実感がなくなるばかり。
「とても、信じられないというか…」
「私の気持ちがでしょうか」
「いや、それももちろんびっくりですけど、話が大きすぎて。俺はそんな大層な人間じゃありません」
シンシアは少し切なげに眉を寄せ、それから小声で言った。
「ランス様が私と結婚してくだされば、私が幸せなだけではなく、この国にも有益なのです。これは私の主観ではなく、多くの方々が同意なさった事実です。女王陛下の政策面では、平民と貴族の垣根は低くなったと印象づけられますし…それに、貴方の進めている施策も、進めやすくなる」
シンシアは淡々と利点を挙げていきながら、最後に少し声を震わせた。ランスはその遠慮を、好ましくも憎たらしくも思う。平民の自分が苦労しても出来ないことを、貴族の端くれになってなすという提案には、複雑なものがある。これを平然と言われたら本気で腹を立てたかもしれない。けれど、それも分かった上で彼女が口にしているのが分かるので、困る。
何だかどっと疲れて、ランスははあ、と大きなため息をついた。
「…俺に、打算で結婚しろと言ってます?」
開いた足に肘をついて、組んだ両手の指の陰から見上げた。
シンシアの唇が、睫毛が、小さく震える。
「…いいえ。打算でも良いから、私と結婚して欲しいとお願いしているのです」
かすれた声は、彼女も緊張しているのだ、と正しく伝えてきた。
その緊張の中でも、彼女は目だけはきりりと、ランスを見つめてこう言うのだ。
「私と一緒に、一人の治癒魔法師でも一人の文官でも出来ないことを、してくださいませんか?」
そうして半年後、ランスはランス・ガーラントになった。
年下の妻は、毎日幸せそうに彼の名前を呼ぶ。
あまりにも不思議で聞いてみたことがある。何故自分なのかと。
すると、彼女はこう答えた。
「私が、一番嫌いなことを頑張っているとき、それに気づいてくれたのが貴方だったもの」
「それ、いつのことです?」
「もう、ランス様ったらまた敬語…」
「ごめん。でも本当に、俺が貴女を好きになる理由は山ほどあるけど、逆なんて全く思いつかないからさ」
そう言うと、シンシアはうれしそうに目を細めた。
「ふふふ。またそうやって私を煽てるのだから。でも、いいわ。教えてあげる」
小柄な彼女は子猫のようにランスの胸にすり寄る。彼の妻は、思っていたよりも甘えたがりだ。
「あのね、子どものころ、母が病気だったと話したでしょう?館中の人間が、母の命を救おうとかかり切りだったとき、私は何も出来ずに待っていたと」
「ああ、それは覚えてる」
忘れるわけがない。ランスがはっきりとシンシアに堕ちた-今となっては認めざるを得ない-あの友人の披露宴の夜のことだ。
「そのころから、待つのは大嫌い。私、昔から待つことが多い役回りなのだけど、多分まわりが思うより、行動したい人間なのね。それに待っているのって、すごく心細くて、怖くて、泣きたくなるの」
だんだん、ランスにもシンシアの話が読めてきた。シンシアとランスが親しくなったのは、誘拐された友人の救出劇の辺りからだ。シンシアはそのとき非常に落ち着いた態度で、終始的確な後方支援を行っていた。取り乱しもせず、暴走しそうになる仲間をいさめるほどに大人な彼女の態度に、ランスは年の差を忘れて尊敬の念を抱いたのだ。
「夜中に、一人で連絡を待っていたとき、ランス様が頭を撫でてくれたの」
「うわ。何やってんだ俺…」
「うれしかった。そのあと朝までずっと、どこかに行かないで話しかけてくれて、安心したの」
寝不足で判断力がおちていたとはいえ、貴族のご令嬢の頭を撫でるなんて、訴えられたら王都を追放されていただろう。青ざめるランスをおいて話は進む。
「それから、貴方が文官に推薦されたとき。もう一度惚れ直したの。望んだ転職ではなかったのに、貴方は前向きで…私が、そう思おうと自分に言い聞かせているのと同じことを言ったからびっくりしたわ。それも、ものすごくいつもどおりの、気楽な顔で言ってしまって」
それはただの見栄だったなどと、一生言えなくなってしまった。
「そう言ってもらえて恐縮です…」
首をすくめたランスの反応が、シンシアは不満だったようだ。
「もう、なあにその反応。やっぱり私ばっかり貴方のことが好きなのよね」
「はぁ?」
だって、とシンシアは上目遣いにランスを睨んでくる。
「私はお話しできただけでどきどきして、何年も忘れないのに。頭を撫でてもらえた日は記念日にしているのに」
「シンシア、それは間違いだから」
「知りません」
すねた口調の新妻に、ランスは観念して白状を始める。
「俺は平民だから、シンシアにそういうことを考えるのはいけないことなんだって、ずっと思ってたけど。それでもどうしようもなくシンシアに惹かれてたよ。それこそ、無茶苦茶な提案に乗って貴族に婿入りするくらい」
シンシアは睨むのをやめてぽすんとランスの胸に頬を預ける。
「頑張り屋なところも、前向きなところも、見かけによらず逞しいところも尊敬してる」
「褒めてるの?」
ランスは真面目な顔で頷いた。
「ものすごく。それから、わりと甘えんぼうなところが可愛いし、このきれいな髪にも柔らかそうな唇にも、ずっと前から触れたくて仕方なかった」
「も、もう、いいわ」
「いやまだまだ。折れそうな腰にこうやって触れるようになるなんて、夢見てるみたいだし」
「ランス様っ」
腕の中から逃れようとするシンシアを、たやすく拘束して口づけを降らせる。
「俺にこーんな分不相応な見栄を張らせた人が、俺の愛を疑うなんてゆゆしき事態だからね。しっかり伝わるまで、今日は放さないことにする」
にっと笑って見下ろせば、彼の妻は、顔を真っ赤に染めて震えた。
なんて幸せ。
あのとき張った見栄は、彼女と自分をつないでいて、それにしがみついた結果の功績が、自分を認めさせる一助となり。
今もランスは世間全体に大きな大きな見栄を張っている。着慣れない服を着て慣れない社交をすることは楽ではないが、なんでもないふりをしている。これもそのうち平気にしてみせる、と思っている。
それでシンシアの側にいられるのだから。彼女に相応しい男に近づけるのだから。
ランス・ガーラントは、愛しい妻のためならば、いくらでも見栄を張り通せるのだ。
お読みいただきありがとうございました。