その二 お客さまは不思議探偵
わたし達は無言で、院長室の床に置かれた穴の開いた釜を眺めていた。
「どうしましょう」
シスター・マーガレットは細い溜め息を吐いた。泣いた後で目が張れているのが痛々しい。穴開き釜を抱きしめたせいで、頭巾はクシャクシャ、首の白いカラーにはシワがより、黒い修道女服の前は白い埃と灰と、お釜の外側に付いていた赤錆びで汚れている。簡潔に言えば、ひどい。せめてお洗濯は、わたしが引き受けようと決心する。
「どうもこうも……つい先日、もうこれは修理では手に負えないから、すべて買い直すように、と職人にも言われたところですよ。新しい物を購入するしかないでしょう」
院長は虚ろな目を釜の上に彷徨わせた。
「申し訳ございません、院長。気を付けていたんですけど、いたらなくて……」
わたしはひたすら床を見つめていた。
今日の爆発で、ついにうちの修道院の台所は、壊滅状態に陥った。
そもそも半年前の爆発事故で修理した際、カマドを直す職人のおっちゃんに「もうこれはわしらの手には負えないわ。本当なら、床下の基礎から打ち直す工事をしないと無理!」と匙を投げられたのを、無理矢理直してもらったという臨終間近のカマドだったのだ。
ちなみに、前回もわたしが破壊した。
今回もまた、わたしがこの手でトドメを刺してしまったらしい。
悪いとは思っているんだけど、不可抗力だ。そのせいか、最近のわたしは罪悪感が麻痺してしまったようで、なんだか現実感覚が薄かった。
「ローズマリー、あなたが悪いせいではないとわかっていてもねえ、私も修道女になって三十年になりますけど、こんなケースは初めてですよ。魔法の体質でこんなことになるなんて、修道院史上、初めてのことですから」
院長先生は大きな溜息を吐いた。
「お鍋は新しいのを買って、カマドは職人の方にきちんと作り直していただきましょう。今度こそ、ローズマリーは近付かないようにね」
「はい、二度と近付きません」
わたしは深く頭を下げた。どうせお料理は苦手だもの。助かったかも。
「しかし、院長、修理すると言っても、先立つものが……」
副院長のシスター・オリーブが口を挟んだ。
「あら、そろそろいつもの寄付金が届く時期でしょうに」
「今年は、まだですわ。連絡もありません」
「そういえば、いろいろ届くのが遅いわね。街は不況だから、そのせいかしら」
「国中の不作はまだまだ続いていますし、街の不況は先月より深刻になったそうですわ。破産した商人も増えたらしいですから、期待されない方がよろしいかと……」
「ああ、そうだったわね。では、お金の区面は……そうね、この件だけ首都の主教会に援助をお願いしましょうか」
「それも先月、断られたではありませんか。もう限界ですわ。ここ数年、毎年のように台所の改修工事をしていましたから」
うーん、心臓が痛いな。
いつもながら、院長と副院長の会話は、わたしの精神衛生上、ものすごく悪いわ。
「あ、あら、そうだったわね。でも、カマドは必要だし」
「あとは借金するしか道がありませんわ。しかし、職人頭には先月の未払いの分がまだ残っていますから、先にそちらを納めないと、職人は寄越さないといわれたばかりです」
「そういえば、そうだったわね……」
院長がうめくようにつぶやいた。
うん、そんなこともあったわね。あれは確かにわたしのせいだと反省はしている。でも、反省だけではお台所の修理はできない。世の中、先立つものは金、なのよね。それは俗世でも修道院でも一緒だから。
「はあ、いったい、どうしたらいいのかしら。このままでは、毎日の食事の用意もできなくなってしまう……」
院長以下、一同が絶望を噛み締めた、その時だった。
ノックが聞こえた。
「はい、どうぞ」
院長の入室許可に応じて、ドアが開く。
ふくよかなシスター・メープルが入ってきた。お客さまを案内している。
都会から来た若い紳士は、わたし達の方へ軽く会釈した。
「リンデン院長、私の用は済みましたので、そろそろお暇します」
院長の机の前で、若い紳士は軽く目を伏せた。仕立ての良い藍色の三つ揃いに、同じ色の中折れ帽、都会風のトレンチコートを左手に持っている。
あら、この人、前にも来たっけ。
確か、第ゼロ次元の白く寂しい通りに住んでいる不思議探偵だとか。元は多次元管理局の局員で、すごく強い魔法使いだって聞いたような……本物かしら?
自称魔法使いや自称預言者、流れの占い師、魔法の心得があると自己申告して一夜の宿を借りに来た旅の吟遊詩人なら、見たことがあるけど。
最近、近代化が進む境海世界の国々では、比例するように魔法が少なくなり、魔法使いも減少しているそうだ。
つまりわたしは、魔法使いという者には、胡散臭い人にしか会ったことがないのである。
「まあまあ、リリィーナさん、こちらこそ、お礼を申し上げないと、当院の宝である金の十字架を取り戻してくださいまして、まことにありがとうございました」
「いえ、私はお届けに来ただけですから。お役に立てて何よりです」
不思議探偵リリィーナさんは、控え目に微笑んだ。
あー、あれね。一ヶ月ほど前、大聖堂に飾ってあった、小さな金の十字架が盗まれた件か。院長は、探偵を雇ってまで取り戻したんだわ。
そういえば、この修道院ってエイレス国でも辺境にあるけど、国で最も古い教会だとか。あの古びた金の十字架も、修道院の創立に関わる貴重な聖遺物とか伝わっている物だったわね。
「私は明日の汽車で、白く寂しい通りに帰ります。もし、なにか局に御用命の際は私に連絡を……」
リリィーナさんが言い終えないうちに、院長の目がカッと見開かれた。
「ありますわッ!!!」
「は?」
あ、この人でも驚くんだ。
わたしは好奇心を刺激され、目を丸くしている不思議探偵リリィーナの様子をこっそり観察していた。
「不思議探偵のリリィーナさんなら、広い境海世界のいろんな国へ行ってらっしゃるし、いろんなことも御存知でしょう。どこかに、この子が学びながら仕事に就けるような良い所は、ないものでしょうか」
院長先生がわたしを示した。わたしはとっさに目を伏せた。わたしが観察していたのに気付かれたかしら。
リリィーナさんはわたしの方をチラッと見て、ちょっと首を傾げた。
「灰色の制服は、見習い修道女の方ですね。ゆくゆくは修道女になられるのでは?」
「それが、ある事情から、当院にはこれ以上置いておけないのです。あなたは優れた魔法使いでいらっしゃるから話しますが、じつは、この子は、本物の花の精なのですよ」
院長先生は再び不思議探偵リリィーナを驚かすことに成功した。表情が変わると普通の人間らしく見えるわ。前に来た時も、何を考えているのか読めない、ニコニコ笑顔しか見たことがなかったから、胡散臭いとしか思わなかったけど。
「というと、この国の古い伝説にある魔法の花の申し子ですか。詳しくお聞きしてもよろしいですか」
リリィーナさんは魔法使いとして興味を引かれたのだろう。無理ないか。花の精の申し子なんて、境海世界でも珍しいだろうし。
わたしの場合、本当の二親は、月光と月光花ってことになるのかしら。
花の精霊界には『魂の森』があって、花の精はそこから生まれ出る、という伝説だ。でも、わたしはそんなの知らない。だって、この修道院の庭に赤ん坊の状態で出現して、ここまで育っただけだもの。花の精霊の自覚なんて無い程度に普通の人間なのだ。
「そうですわね、ちょうどお茶の時間になりますし、ご一緒にいかが。ローズマリー、お茶の仕度ができるまで、お庭を案内してさしあげなさい」
こうして、院長先生は、わたしの身の上相談を持ち掛けることにより、お茶の時間まで不思議探偵リリィーナさんを引き止めるのに成功したのだった。