六章8:わたしのむかしのこと ~決意、そして転生~(*スー視点)
「んーっんっんっー……」
お母さんはいつもこの優しい歌を口ずさみながら、
わたしのことを撫でてくれていた。
この時だけは体の痛みが和らいだような気がした。
苦しさから一瞬解放されていたような気がしていた。
相変わらずわたしは、
【死んでしまった知人くん】のお母さんと、
お父さんの所で暮らしていた。
二人はとってもわたしに優しくしてくれた。
布団はいつもフカフカで温かいし、
ご飯は美味しいし、
知人くんのお母さんとお父さんは、
いつも【犬】のわたしを抱いてくれたり、
撫でてくれたり、声をかけてくれたりする。
拾ってもらった時から優しかったけど、
【知人くん】とのお別れがあってからは、
なんだかもっと優しくなったような気がする。
そんな優しさにわたしは覚えがあった。
わたしの本当のお母さんは人間に酷い目に合されていて、
すごく疲れ果てていた。
だけどわたしや、わたしの兄妹へは顔を舐めてくれたり、
優しい目を向けてくれたりしていた。
――きっと知人くんのお母さんとお父さんはわたしのことを、
彼の代わりだと思っているだ。きっと……
今のわたしがこうして幸せに暮らせているのは、
知人くんが助けてくれたおかげ。
本当はお母さん・お父さん・知人くんと幸せに暮らしたい。
でももう知人くんはいない。
寂しいけど仕方ない。
――だったら、わたしは知人くんの分まで一生懸命生きよう。
相変わらず体は不自由だ。
最近、妙に身体の色んな所が痛いように感じる。
だけど幸せだから、そんなのあったって嫌にならない。
――頑張って生きよう。大切にしよう。知人くんが繋いでくれたこの命を……
そう思って暮らしていた、
ある日のことだった。
●●●
ある日目覚めると、わたしは起き上がれなかった。
身体がブルブルと震えて、まともに息ができない。
体中が痛くて、堪らなくて、
でも鳴こうと思っても苦しすぎて鳴けない。
「おはようスー、ごはん……!!」
朝ごはんを持ってきてくれたお母さんは血相を変えて、
こっちへ走ってくる。
「お父さん! スーが! スーが!」
お母さんはわたしをそっと抱き上げて叫ぶ。
向こうからお父さんがやってくる。
そこでわたしの意識は途切れた。
●●●
気が付くと、わたしを眩しい光が照らしていた。
ぼんやりとする視界の中に、見たこともない人間の姿が見える。
その人間は、わたしの体をくまなく触る。
そして首を横へ大きく振った。
「正直に申し上げます。この子は先天的な障害を持っているようです。大変申し上げ憎いことなのですが……持ってあと三か月と言ったところです」
みたことのない人間がそう云う。
すると後ろから、何かがバンって叩かれる音が聞こえた。
「いい加減なこと言わないでください!」
お母さんの声だった。
初めて聞いた、お母さんの怒っている声だった。
「スーは死にません! スーはうちの子が……知人が助けた子なんです! そんな簡単に死ぬだなんてこと言わないでください!」
――そっか、わたし【死】にそうなんだ……
なんとなく自分の体のことだからわかっていた。
自分に兄妹たちと同じような【死】が迫っていることを。
じわじわと【死】がわたしを蝕んでいたことを。
わたしは近いうちに【死んで】しまうのだと。
――そんなの嫌だ!
自然とそんな想いが浮かんだ。
死ぬのが怖い訳じゃない。
ただわたしは【生きたい】んだ!
この命は【知人くん】が繋いでくれたもの。
あの時、【死んでしまう筈だったわたし】の代わりに知人くんは
死んでしまった。
このままおめおめと死ぬ訳には行かない。
それでは最初に人間の温かさを教えてくれた彼に申し訳ない。
――死ぬの、嫌ッ! わたしは生きたい!
●●●
わたしは一命を取り留めた。
わたしへ【死ぬ】って言っていた人間も驚いていた。
お家へ戻って、また前と同じような生活を始めたわたし。
だけど、もう前のわたしじゃない。
相変わらず体は痛いし、満足に歩けないし、
目も良く見えない。
お家に戻ったあとも、何回も死にそうになって、
その度に【死】を宣告された。
でもその度にわたしは何回も立ち上がった。
――生きたい!
この命は知人くんが繋いでくれたもの!
彼のためにも簡単に死ねない。
ううん、死にたくない!
ずっとずっと、わたしの心の中に生き続けている【知人くん】
彼のためにも死ねない! 死なない!
きっとわたし一匹だったら心が折れてたと思う。
だけど知人くんのお母さんとお父さんがわたしを支えてくれた。
たくさん優しくしてくれた。
たくさん励ましてくれた。
だからわたしは立てた。
何度も、何度も体が痛くなった。
暖かい季節は、暑さで体が何度も動かなくなった。
寒い季節は体の節々がいつも痛かった。
苦しかった。
辛かった。
わたしがそう長くない命だっていうのは分かっていた。
自分の身体の事だから、
こうして生きていることさえやっとだと感じた。
でもわたしは生きた。
生きて、生きて、生き抜いた。
――人間の優しさを教えてくれて、わたしの代わりに死んでしまった知人くんのためにも生き続ける! 簡単に死ぬもんか!
何回も暑い季節と寒い季節が訪れた。
暖かい季節が訪れる度に、
わたしは自分が頑張ってここまで生きられたと実感した。
だけど――分かっていたけど、やっぱり限界が訪れた。
元々わたしの身体は弱いし、
そんなに長く生きられるなんて思ってなかった。
すぐだったことが、少し伸びただけなんだと思う。
どんなに避けたくても、
これは避けらないことなんだって分かっていた。
●●●
寒い季節からそろそろ四回目の、
暖かい季節を迎えようとした頃だった。
もう既にわたしは自分一人じゃ、
立ち上がれないくらいに弱っていた。
知人くんのお母さんとお父さんはもう取り乱したりしないで、
穏やかかに、だけど寂しそうにわたしを撫でてくれる。
「スー、大丈夫……?」
お母さんが悲しそうにそう云いながら撫でてくれる。
本当はお母さんに、今までありがとう、って言いたかったけど、
わたしは【犬】だから人間みたいにそうできない。
代わりにいつもはどこかを舐めたりしていたんだけど、
もうわたしにはそんな力は残っていなかった。
「スー、お前は強い子だ。凄く強い子……」
お父さんも大きな、暖かい手で撫でてくれる。
その時、いつにも増して、視界が霞んだ。
もう大好きな知人くんのお母さんとお父さんの顔が良く見えない。
――そんな時間なんだ。
後悔は無かった。
できることは一生懸命やった。
わたしは胸を張って、堂々と、一生懸命生きたって誇れる。
――もう一度だけ、知人くんに会いたかったな……
わたしの代わりに彼が死んじゃったから、それは無理なこと。
だけど、やっぱりわたしはもう一度知人くんに会いたいと思った。
ずっとそう思っていた。
――もし、願いが叶うなら、もう一度で良いから知人くんに会いたい
。会って、大好きと伝えたい。
わたしは薄れる意識の中、
そんなお願いとお母さんお父さんへの感謝を感じながらそっと目を閉じて行く。
ついさっきまで感じていた体の痛みはすっと無くなって、
わたしは暗闇の中に沈んだ。
●●●
暫くすると、真っ白な眩しい輝きに包まれた。
急に視界が開けて、びっくりする。
何故か、わたしは空に浮かんでいた。
ずっとあった身体の痛みもなくて、
私は黒い空の上へフワフワと浮かんでいた。
【ゴオォーッ!】
右の方から力強いけど、
優しそうな音が聞こえる。
右側には人間よりも大きな白くて強そうな人間が、
剣を持って浮かんでいた。
【グオォーンッ!】
今度は左の方から、
怖くて気持ち悪い音が聞こえる。
姿形は右側にいる武器を持った白い大きな人間と、
あんまり変わらない。
でも色は黒くて、顔には大きな目が一つあるだけ。
その目は真っ赤に血走っていて、凄く怖かった。
【グオォーン!】
黒が太くて大きな剣を振り上げる。
【ゴオォーンッ!】
白の剣は、黒のソレを受け止める。
二つの剣がぶつかり合った時、
その間から眩しい光が迸ってきた。
圧倒的で、見ているだけでも気圧されてしまいそうなその輝きが
わたしを包み込む。
さっきまで見えていた白と黒の大きな人間が見えなくなる。
突然、体から軽さが消えて、
わたしは何かに吸い寄せられるような感覚を得た。
●●●
「にゅ……」
また目が覚めた。
目の前には灰色の空と、
それを覆う緑の木の葉っぱがたくさん見える。
地面のひんやりとした感触を、
背中に感じて少し気持ち悪い。
わたしは起き上がろうと身をよじると、
「にゅ?」
右の方の人間の手が見えた。
掌から地面の冷たい感触を感じる。
試しに足に力を入れてみると、
視界がグッと上へ上がった。
ずっと地面スレスレの視界だったから、
こうして地面が遠いのが不思議でならない。
そもそも体に一切の痛みが無くて、
思う通りにに動いてくれる。
――もしかして、これって……?
耳へ微かに水が流れる音が聞こえる。
わたしは音を頼りに走った。
身体が驚くほど軽い。
目もしっかり見える。
自由に動ける。
痛みも一切ない。
森が開けて、目の前に広い湖が見えた。
わたしは湖畔へ飛びつくように膝を突いて、
水面を覗き込んだ。
「ッ!?」
水面には見たこともない人間の女の子が映っていた。
「これ、わた、し?」
音と一緒に水面の女の子が口を動かす。
ほっぺも引っ張ってみる。
すごく痛いし、水面の女の子も同じことをしていた。
どうしてこうなったのか分からない。
だけど、受け入れるしかない。
――どうしてわたしは人間に……?
それに周りの風景にも見覚えが無かった。
知人くんのお母さんお父さんと暮らしていたところには、
こういう森はあったけど、
決まって木の向こうに大きな建物とかが見えた。
でもここには草木がたくさんあるだけ。
そもそも匂いが違う。
「ここ、は、ど、こ……?」
未だ良く身体が発音の仕方を理解していないのか、
綺麗に言葉が出ない。
呆然とわたしは辺りを見渡す。
その時、背中の方からガサッと音が聞こえて、
身体がブルッと震えた。
「にゅッ!」
凄く軽く感じる体は、
空を飛ぶみたいにジャンプした。
わたしの下には、昔森を彷徨っている頃に見た、
牙を持った狂暴そうな【敵】がたくさんいた。
【グルゥーガルゥ!】
地面へ降りたわたしへ、
森の奥から出てきたたくさんの【敵】が、
鋭い視線を投げかけている。
明らかな敵意と、そして殺意。
昔のわたしなら怖いと思っただけだった。
でも、今は違う!
――ここがどこなのか、わからない。
きっとここに知人くんのお母さんとお父さんはいない。
守ってくれる人間は誰もいない。
だけど、どんな状況だってわたしのやることは変わらない。
――どうして【犬】として死んだわたしが【人間】になっているのかわからない。
それでも変わらない。
住む場所が変わったって、
わたしの姿が変わったってやることは変わらない!
「わた、しは、死な、ない! 知人、くん、のくれた、命、無駄、しないッ!」
初めて想いを声に乗せて叫んだ。
すると、わたしの身体から紫の輝きが迸った。
感覚が大きくなって、身体に膨らみを感じる。
【ギャオォォォン!】
わたしの口から勇ましい咆哮が放たれる。
わたしは、今度は【人間】から敵を怯えさせるほどの、
大きな【黒い龍】に変身していた。




