六章7:わたしのむかしのこと ~出会いと別れ~(*スー視点)
――お腹が空いた……
人間の所から逃げ出して、
もうどれぐらい経ったんだろう?
わたしは未だ、逃げ込んだ森の中を彷徨っていた。
――どうやったご飯が食べられるんだろう……
怖い人間のところに居た時は、
一日に一回ご飯が貰えた。
口も上手く開かないわたしは、
固いつぶつぶのご飯を食べるのに、
随分苦労したと思う。
あんまり美味しくなかったし、
上手く飲み込めなかったし……
それでも、お腹に何かが入るだけマシだった。
外の世界でわたしは一人。
もう誰もご飯をくれない。
どうやってご飯を食べたら良いか良くわからない。
お腹が空いていると、
元々不自由な体が余計に動かなかった。
まっすぐ歩こうと思っても、
身体がフラフラして横に曲がったり、
そのまま転んだりした。
少しの距離を進むだけでも、
凄く時間がかかった。。
だけどそうのんびりと歩いてる場合じゃなかった。
周りからガサゴソと音が聞こえ始めたり、
空では大きく羽を広げた黒い生き物が、
カァカァと声を鳴らす。
周りからは【死】を思い出させる、
怖い匂いが充満してきて、
身体の震えが止まらなくなる。
外にでて一番怖かったのが、
【敵】がいることだった。
【人間】も怖かったけど、
【敵】も同じくらい怖かった。
森の茂みの奥から、
そして空から鋭い体の部位を持った生き物が、
わたしみたいな小さくてひ弱な生き物を、
襲っているところを何度も見かけた。
掴まった小さい生き物はみんな、
捕まえた生き物のご飯になって死んだ。
なんとか今日まで襲われないでいる。
だけど、わたしみたいな弱い生き物は、
明日には襲われるかもしれない。
同じようにわたしも他の生き物を、
襲って食べれば良いのかもしれないけど、
身体が上手く動かないわたしにはそんなことできない。
――お腹が空いた。襲われるのは嫌。寒い……
わたしは行く当てもなく、
ただ寒くて暗い森の中を歩き続ける。
最初は何もかもが怖かった。
お腹がすくのが辛くて、苦しかった。
でもずっと歩き続けていると、
そんなのだんだんどうでも良くなってきた。
頭はぼうっとして、
今わたしが何をしてるのか、
どうしてこんなところへ孤独にいるのか、
良く分からなくなっていた。
ふと、頭の中に、狭い檻の中だったけど、
兄妹たちと寄り添いながら、
過ごしていた日々のことが思い出された。
――またあの頃に戻りたい。
みんな体は不自由だったけど、
身体を寄せ合って、温かかったあの日々に。
――だけどもう兄妹たちはいない……だってみんな【死んじゃった】んだから。
その時わたしは、
はたりと【死んでしまった】兄妹たちの顔を思い出す。
みんな、寄り添っている時以外は苦しそうだった。
だけど死んでしまった途端、
凄く楽そうな、穏やかな顔をしていた。
寄り添っている時よりも、
幸せそうな顔をしていたように思った。
――そっか、【死んじゃうこと】って、そんなに辛いことじゃないんだ。
【死んじゃえば】楽になれると思った。
身体の不自由さと、痛みと、
お腹の空きも全部無くなるような気がした。
――だったら、早く死んじゃいたい。
もう疲れた。
楽になりたい。
兄妹たちみたいになりたい。
そう思いながらわたしはトボトボと下を向いて歩き続ける。
気が付くと、地面の感触が変わっていた。
ずっと歩いてきた、落ち葉でフワフワとしたのじゃなくて、
石みたいにカチカチに固い地面。
刹那、凄く眩しい光が脇からわたしを照らした。
小さな私では見上げることすらできない程、
二つの眩しい光を放っている、
大きな箱が凄いスピードでこっちへ迫っていた。
突然、わたしの体を誰かが掴む。
そこからは良く分からなかった。
身体が地面から離れて、グルグル回った。
何かに下から引っ張られるような感覚を感じてから、
暫く経って、ようやく体勢が落ち着いた。
絡まっていた人間の手が、わたしを離した。
――何が起こったんだろう?
鼻に嗅ぎなれない不思議な匂いが流れ込んでくる。
少し、【死んじゃった】時の嫌な匂いに似ている。
足を上げると、少し粘ついた液体が糸を引いた。
首を少し上へ傾けてみる。
人間が倒れていた。
足元の液体は人間から流れ出ていた。
「かはっ! ぐっふ、げほっ!」
倒れている人間が、口から何かをたくさん吐いた。
呻きを上げながら、苦しそうに身体を震わせている。
怖い人も、何もいないのに、何故か人間は怖がっていた。
こんな人間を見るのは初めてだった。
――大丈夫?
凄く苦しそうで、放って置けなかった。
なんだか可愛そうに思った。
辛そうだと思った。
だからわたしは人間へすり寄った。
そして兄妹たちへ昔したみたいに顔を舐めた。
少し冷たく感じた人間の肌。
だけど、わたしが舐める度に、
人間は少しくすぐったそうな、
嬉しそうな顔をしてくれる。
――この人間は違う。
そう思った。
怖くて、いつも怒っているのが人間だと思っていたけど、
こんな人間もいるんだなと思った。
――辛くないよ、わたしが傍にいるから。
【犬】のわたしは人間のようにしゃべることはできない。
でも、せめて、この気持ちだけは伝わってほしい。
そう強く願いながら、人間の顔を舐め続ける。
すると、大きな人間の手が動いた。
一瞬、怖くてびっくりした。
だけど、人間の手はわたしの頭と顔を優しく撫でてくれる。
それが気持ちよくて堪らなかった。
初めて感じる人間の柔らかい手の感触にわたしは嬉しくなった。
まるで兄妹たちと一緒にいた時のような気持に戻った気がした。
自然とわたしは倒れている人間へすり寄ってゆく。
「だい、じょうぶ、だ、か、ら……」
そんな声が聞こえたかと思うと、
人間の手がするりとわたしから離れて、
地面に広がっている液体の中へ落ちた。
人間は寝てるみたいに動かなくなった。
わたしも疲れていたから、
人間と同じことがしたくなった。
わたしはもう居ない兄妹たちのことを考えながら、
人間に寄り添ってそして眠った。
●●●
「母さん、知人は……」
「うっ、うっ、ひっく……」
そんな二人の人間の声が聞こえて、
わたしは目を覚ました。
わたしは温かい人間の膝の上にいた。
ポツリ、ポツリと滴がわたしの頭を濡らす。
乗っている膝も小刻みに震えている。
顔を上げてみると、
そこにもまた知らない人間の顔があった。
人間だけど、優しそうな、柔らかそうな、
まるで【わたしのお母さん】によく似た雰囲気の人間。
「うっ、うっ、ひっく……知人……ひっく……」
――大丈夫?
辛そうにして、
目から水を零している人間が可哀そうに思った。
だからわたしは、
添えられている人間の細くて長い指を舐めた。
すると、優しそうな人間がピクリと反応する。
ずっと辛そうにしていた顔が優しくなる。
人間の優しい手がわたしの体をそっと撫で始める。
気持ちよかった。
ただただ気持ちが落ち着いて、
ずっとのこのままこうして撫でていて欲しいと思った。
「きっと、この子は母さんのことを慰めているんだな……」
また別の人間の声が聞こえた。
今度は、わたしの膝の上に乗せている人間よりも声が太くて、
背もおっきくて、身体も大きい。
顔も、さっきわたしを始めて撫でてくれた人間によく似ている。
その人間もまたわたしのことを優しく撫でてくれた。
「優しい子だな……知人みたいに……」
大きな人間も、膝の上のわたしをそっと撫でてくれる。
後で人間の会話を聞いて、
優しいそうな人間が【お母さん】
大きい人間が【お父さん】
という名前なんだと分った。
●●●
それから気が付くと、わたしは温かくて、
良い匂いのするところに居た。
フカフカのお布団の上で丸まって寝ているわたしを、
【お母さん】と、【お父さん】が見ている。
「名前は……【スー】なんてどうだ? 寝ている時の声がそう聞こえて可愛いからさ」
お父さんはそう云って、
わたしを優しく撫でてくれた。
「【スー】……可愛い名前ね。貴方は今日から【スー】よ……」
お母さんもそう云って、
頭を撫でてくれる。
この日からわたしの名前は、
【スー】になった。
よくわからないけど、
わたしはお母さんとお父さんの暮らすことになった。
二人はわたしに凄く優しくしてくれた。
沢山撫でてくれて、温かい布団の上で寝かせてくれて、
美味しいごはんもたくさんくれた。
生まれた時にいた、狭い籠の中とは全く反対だった。
お母さんとお父さんの優しさに触れて、
疲れた体が日を追うごとに元気を取り戻す。
相変わらず体は不自由だし、目も良く見えない。
でもいつも必ずお母さんとお父さんの匂いが、
近くにあって嬉しい。
――だけど何かが足りない……
お母さんとお父さんと一緒に居られるのは幸せ。
ここにはご飯もあるし、温かい布団もある。
きっと、ようやく安定して暮らせるようになったから、
わたしが少し贅沢になったんだと思う。
我慢しようと思う。
だけど、止められない。
――どこにいるのかな? あの人間は?
わたしを最初に撫でてくれた、
あの水の中に沈んでいた人間はどこにいるんだろう?
わたしに人間の優しさを最初に教えてくれた、
あの人間に会いたい。
もう一度、撫でて欲しい。
声をかけて欲しい。
そう思うようになって日々を過ごす。
そんなある日、ようやくその願いが通じた。
●●●
「スー、知人にお別れをして……」
お母さんに抱っこされているわたしは、
下にある大きな箱の中を覗き込む。
途端に心臓が跳ね上がって、嬉しくなった。
箱の中にはたくさんのお花に囲まれて、
眠っているあの人間が居た。
だけど、あの匂いが鼻に届いて、
嬉しかった気持ちが萎んでゆく。
嫌で、不安な、匂い。
わたしは舌を出して、
眠っている人間【知人】のほっぺを舐める。
だけど前みたいな温かさも反応もない。
ただ冷たくて、石みたいに固いだけ。
――【死んじゃってる】……
今、目の前にいる、
どうしても会いたくて、
そして撫でて欲しかった【知人】は、
もう死んでいた。
「知人、貴方がこの子を、スーを助けたのよ。スーは元気よ、貴方がこの子の命を守ったのよ……ううっ……」
お母さんはそう云って、また体を震わせて、
目から水を零し始めた。
そんなお母さんの肩をお父さんはそっと抱く。
そしてお父さんもまた一緒になって辛そうな声を漏らし始めた。
わたしも一緒になって声を上げたかった。
だけど私は【犬】で、人間と同じようなことができない。
でも、気持ちは同じ。
ずっと会いたかった、彼は【死んでしまっていた】
それが悲しくて、辛くて。
その気持ちを伝えたくて、
わたしは【知人】のほっぺを舐め続けたのだった。




