六章6:わたしのむかしのこと ~生後から遺棄~(*スー視点)
わたしはかつて【犬】っていう生き物だった。
口と体が長いけど、足が短い、
わたしを産んでくれたお母さんと一緒の黒い毛色をしていた。
他にもわたしと同じような子が五匹いた。
匂いが一緒だったから、
この子たちはわたしの兄妹だとすぐに分かった。
わたしたち兄妹は、お母さんと一緒に何故か窮屈な、
檻の中へ押し込められていた。
だけど、みんなお母さんと一緒にいたから幸せだった。
もちろん、わたしもそう。
だけど他のみんなと、
わたしは少し違うところがあった。
兄妹たちはみんな時間になると、
元気よくお母さんとのところへ行って、
おっぱいを飲みに行く。
その中でいつもわたしは一人遅れていた。
みんなと同じように動こうとするんだけど、
少し体が固いような気がいつもする。
ちゃんと歩こうとするけど、
足や腰に上手く力が入らなくて、まっすぐ歩けない。
匂いがあるから良いけど、
目もいつもぼんやりしていて、半分くらい見えない。
良く分からないけど、
私だけ何故か【最初から】体つきが少し変で、
凄く動き辛かった。
「社長、ヤバいの出てきちゃいましちゃね」
ふとそんな声が聞こえた。
不自由な首を少し上へ傾ける。
そこには毛の生えていない大きな生き物が、
わたしを見下ろしていた。
「これだけ産ませりゃ、そういうこともあるだろ。まぁ、今だったら買い手が付くだろうし、もし何か言われたら”成長段階”って誤魔化しゃ良いだろうよ。それよりも今のダックスブームを逃す訳には行かないしな」
お腹と身体が大きな生き物がそう云うと、
私をみていたもう一人は「それもそうっすね」とさらりと云って、
わたしの前から居なくなる。
――なんのことだろ?
肌色の生き物が何を云っていたのか、
最初は分からなかった。
だけど時間が進んで、
なんとなくあの時の言葉が何なのかわかるようになってきた。
●●●
時間を追うごとに、
元気だった兄妹たちが変になり始めた。
前は元気にお母さんのところへ行ってたのに、
わたしを含めた六匹の兄妹の内、
四匹の体がおかしくなり始めていた。
急に背中が曲がったり、
上手く歩けなくなったり、目が見えなくなったり、
色々だけど、でもみんながわたしと同じように不自由になり始めた。
みんな自分の変化に戸惑って、不安そうにしている。
だからわたしはみんなのことを慰めることにした。
わたしは元々不自由な体だったから、
何も感じない。
逆にみんなが不自由を感じて、
不安に思う気持ちが理解できる。
できることは寄り添って、
心配しないように少ししびれを感じる舌で、
顔を舐めてあげることだけだけど、
それでもみんな喜んでくれた。
いつしか私たち【体が不自由な子達】は、
お互いに不自由さの不安を分かち合うように寄り添い始める。
――みんなでこうしていられるのって良いな。
ずっとこんな時間が続けば良いなと思った。
ずっとみんなでこうして寄り添って、
暖め合えればいいなと思った。
だけど、そんな時間はほんの短い間だけだった。
ある日、目覚めると冷たさを感じた。
何故か私に寄り添っていた兄妹の一匹が冷たくなっていた。
薄目を閉じて、口からだらんと舌を出しているけど、
ピクリとも動かない。
――どうしたの……?
わたしは兄弟の顔をいつもみたいに舐める。
みんな体は不自由だけど、こうすればくすぐったそうに、
だけど嬉しそうに身体を揺らしてくれる。
でも今日はピクリとも反応してくれない。
――ねぇ、起きて? 起きてよ!
何度も、何度も冷たくなった兄妹の顔を舐めたけど、
やっぱり反応が返ってこない。
匂いも凄く嫌な感じがした
生臭くて、寂しくて、
嗅いでいるだけ悲しい気持ちになる匂い。
その時、黒い影がわたしを覆った。
肌色をした大きな生き物が、籠の向こうから、
冷たい顔でわたしたちのことを見下ろしていてる。
「あー……マジかぁ……めんどくせぇ……、社長ー! 一匹死んでますけどぉー!」
大きな生き物がそう叫ぶと、
「んなもんさっさと捨ててこい! 早く行け!」
「へいへいっと……んったく、【犬】の癖に【人間】様を煩わせんじゃねぇよ……」
大きな生き物は凄く面倒臭そうにそう云うと、
籠を開けた。
わたしの顔を乱暴に払い除けて、
動かなくなった兄妹を無造作に掴むと、
どこかへ連れてってしまった。
そしてその兄妹はもう帰ってくることは無かった。
その時、わたしは初めて、
この目の前にいる肌色の大きな生き物が【人間】、
っていうのだって知った。
●●●
時間が経つにつれて一匹、
もう一匹と兄妹たちが動かなくなった。
嫌で、悲しい匂いを発するようになった。
その度に人間がやってきて、
兄妹を乱暴に掴むとどこかへ連れて行く。
「また死んでる……マジかよ……」
「んだよ、金にならねぇで死にやがって」
「金になってから死ねよ、ド阿呆」
人間は動かなくなった兄妹を掴むたびに、
イライラした様子でそう云う。
そんな人間が怖くて、
わたしは不自由な体をなんとか丸めて、隠れる。
――動かなくなることは【死】っていう状態で、それは人間を怒らせる。
わたしはそう理解して、怯えながら日々を暮らした。
だけど、そんな人間だけど、笑っている時もあった。
「お前は元気だなぁー、おーよしよし! 高く売れるんだぞぉ~へへっ!」
兄妹の内、二匹は元気なままで、籠の外に出た。
お母さんの犬は、兄妹を取り上げられて、唸ったけど、
人間が乱暴に籠を足で蹴ると、怯えて黙る。
――人間って怖い。凄く怖い……
いつまでこんなのが続くんだろう。
わたしはどうなるんだろう?
――兄妹がいっぱいいたころに戻りたい。
だけど、もうこの籠の中にいるのは、
殆ど動かなくなって、目の色が死んでいるお母さんと私だけ。
どんなにお母さんに寄り添っても、何もしてくれない。
わたしはずっと不安の中で過ごし続ける。
そんな日々がしばらく続いたある日の朝。
お母さんが冷たくなって、動かなくなっていた。
お母さんからも嫌で、悲しい匂いがした。
お母さんも【死んでしまった】のだと、わたしは思った。
するとまた人間がやってきて、怒った顔で籠の中を覗き込んだ。
「社長ー! 親が死んでまぁーす!」
人間はいつもの調子で叫ぶ。
奥から、お腹が大きなもう一人の人間がやってきて、
籠の中を覗き込んだ。
「まぁ、あれだけ産ませりゃな。ご苦労さん、おいお前、捨ててこい」
「わっかりました。それで、この変なチビはどうします?」
二人の人間の視線が私へ集まる。
それが怖くて、わたしは体を震わせた。
「さすがにこいつはダメだな。こいつもついでに頼むわ」
さらりとお腹の大きな人間は云った。
「マジっすか……」
もう一人の人間は凄く嫌そうな顔をする。
「最近保健所の受付がいつも一緒でやり辛いっすよね。最近ちょっと俺らのことを怪しんでる様子があるって言いますか……」
すると、お腹の大きな人間はニヤリと笑った。
「別に保健所じゃなくていいだろうが」
「あっ……それもそうっすね」
「穴はちゃんと深くな。異臭騒ぎが起こると足が付くかもしれないからな」
「わぁってますよ」
人間は籠を開いて、手を伸ばしてくる。
まずは死んでしまったお母さんが引きずり出されて、
どこかへ連れて行かれた。
怖かった。
――何か変なことをされる。
そう思った私は、上手く動かない足を一生懸命動かして、
籠の奥へと逃げ込む。
――絶対に掴まっちゃダメ。
籠はわたしには広い。
だけど人間はそうじゃなかった。
「逃げんじゃねぇよ!」
わたしはすぐに人間の手に掴まった。
どんなにもがいても人間の手からわたしは離れられない。
そのままわたしは連れ出されて、
そしてまた狭いところへ押し込められて、
上から蓋をされた。
真っ暗な、狭い中で、わたしはもがき続ける。
だけど蓋は開かないし、外にも出られない。
足が震えた。
身体が強張って、尿が漏れた。
怖くて堪らなかった。
でも時間はそのまま過ぎてゆく。
やがて、近くからザクザクと変な音が聞こえた。
ザクザク、ザクザク。
暫くすると、音が止んで、蓋が開いた。
冷たい顔をした人間がわたしを見下ろしている。
「んったく、ちびってんじゃねぇよ。金にもならねぇ、役立たずが!」
人間は忌々しそうな視線でわたしを睨みながらそう云うと、
手を伸ばしてくる。
怖くて、震えて、身体がピクリとも動かない。
「おい、君! そこで何をしてるんだ!?」
どこからともなく、聞いたことのない人間の声が聞こえた。
すると、わたしへ手を伸ばしていた人間は、
慌てた様子で元の箱へ戻す。
――このままここにいちゃダメ。
そう直感したわたしは力を振り絞って、歩き始めた。
相変わらず足は上手く動かないから上手に歩けない。
目だってぼんやりしている。
だけど匂いを頼りに突き当りの壁へ向かう。
壁はわたしの身長より高い。
――早くしないと。
人間の匂いが遠いうちにここから抜け出さないと思ったわたしは
なんども見上げるほど高い壁をよじ登ろうと身体をぶつけ続ける。
でも身体は全然浮き上がらなくて、まったく壁を昇れない。
――急がないと!
何度も、何度も、わたしは壁を昇ろうと身体を打ち付ける。
そして力いっぱい身体をぶつけた時、突然足元がふわっとした。
さっきまで立っていたところが壁になって、
身体をぶつけていた壁が床へ変わる。
さっきまで私の上にぽっかりみえていた外の風景が、
今度は目の前に見える。
わたしはそこへ向けて歩き始めた。
初めて感じた外の空気は凄く冷たくて、身体が震える。
――でも人間の近くにいるよりもずっと安心できる。
そう強く思ったわたしは匂いを頼りに、
ふわふわとした地面を歩いてゆく。
深く掘り下げられた穴を横切って、
そして目の前の草木がたくさん生えている、
森の中へ進んでゆく。
やがて人間の声と匂いは森の匂いに掻き消されてゆく。
そしてわたしはもう、
怖い人間に会うことはそれっきりなかった。




