some sams
空気があまりにも汚い。昼間からライトを点けなければならないほど視界が狭い。窓はだいぶ前から閉められたままだ。エアコンのフィルターは信用ならない。だから締め切ったところで気休めにしかならない。汚い空気を取り入れ、二人して吸い込み続けているのは間違いない。どうしようもない。
突然、霧が引き裂かれ、前からライトを遮る何かが現れた。車だった。何も聞こえなくなった。シートベルトを引っ張りながら前に倒れ、シートベルトに引き戻され、背中がシートに打ち付けられた。前方ではエアバックが音を立てながら膨らみ、萎んだ。エアバックが退場すると、ひびの入ったフロントシールドに、無数の金属片が回転しながらゆっくりと落下していくのが映った。
助手席の彼女は頭から血を流し、その目は見開かれたまま動かず、ただ空を眺めていた。
助手席
にいたはずの彼女がいない。フロントシールドには大きな穴が開いている。彼女は前のオープンカーの上に仰向けに横たわっていた。シートベルトを外してドアを開け、車を降りた。依然空気は汚いが、心なしか遠くが見えるようになってきた。周囲は広大な砂漠を侵食する廃車置場のようだった。沢山の車が前方の車に衝突し、後ろから衝突されていた。スポーツカーを見つけては、差し込まれたままになっているイグニッションキーを手当たり次第に回した。かからないものがほとんどだったが、時たま唸り声を聞かせてくれるエンジンもあった。中には車体がすっかり錆びついているものもあり、車内では死体が腐乱していた。喉が渇き腹も減ってきたので、近くにある車を漁ったが、ミネラルウォーターのペットボトルを一本見つけられただけだった。
車の中に菓子が入っているのを思い出して戻ってきた。もう少しでドアに手が届くというところで、轟音がして、とっさに手をひっこめた。自分の車が目の前を通り過ぎていく。彼女が車から投げ出され、前方のオープンカーの上に叩きつけられた。続いて一人の男が自分の車の上を、放物線を描いて飛び、彼女と同じようにオープンカーに叩きつけられ、彼女の隣に仰向けに収まった。オープンカーに乗り込んで男の顔を見て、はっとした。こいつは俺だ。死を媒介とした俺と彼女との結合の美しさをただただ眺めざるを得なかった。俺がうらやましかった。長年の夢が俺によって永遠に砕かれた。諦めて後ろの車まで走った。予想通り後ろから衝突してきたSUVには、彼女が乗っていた。SUVのドアを開け、彼女の隣に座った。彼女と見つめあう。沈黙がしばらく続いた。彼女は視線をそらしたがっていたが、俺はそらさなかった。じっと見つめ続けた。俺は彼女と接吻を交わした。交わし終わった途端、轟音と衝撃とが走った。体が宙に浮かび上がり、彼女が視界から消え、フロントシールドに空いた大穴のイメージが俺を満たした。
「助けてくれ、敵に追われてる。振り切れそうにない」
雑魚め。素人が敵の中に突っ込むからだ。
「すまない」
「すまない。こちらも手一杯だ」
「遠くにいて間に合いそうにない」
皆一応儀礼的に返事をしている。
「助けてくれ、大枚はたいて手に入れたんだ」
課金者だからちっとは力になってくれるかと思ったらこのざまだ。どうせ助けたところでまた追い回されるに決まっている。そんなやつを敵のど真ん中に突っ込んでまで助ける価値なんかない。
また課金するんだな、と呟いた。
上陸作戦が実行されていた。艦隊を防衛し、陸上部隊が無事上陸すれば作戦は成功だ。しかし、制空権が確保されていないというのが何とも胡散臭い。ゲームを面白くさせようという仕掛けなのだろうが、リアリティに欠ける。このゲームのいいところはリアリティが高いところにあるのに、どうも徹底されていないようだ。
戦況はこちらに有利だった。空母が何隻も展開していて、空軍戦力は十分だったし、敵は十分な数の迎撃戦力を整えていなかった。燃料はまだ十分あったが、弾薬が減ってきているので補給を受けに空母に戻ることにした。戦況が有利に運んでいるのにリスクを取って積極的に攻める理由がなかった。
空母のうちで一番近場にある一隻に着艦要請を出すと、先に着艦要請を出していた攻撃機があった。上空でぐるぐる宙返りしながら自分の番を待っていると、着艦許可がキャンセルされた。さっきの攻撃機が着艦に失敗して、空母の甲板の上で炎上したのだ。甲板を使用不能になるぐらいへこませはしなかったようだが、スクラップを片付け終わるまで着艦できなくなった。仕方ないので、着艦要請をキャンセルして、そこから最近の空母に向かった。全くこれだから雑魚は困る。もし燃料がぎりぎりだったら、俺があの課金者みたいになるところだった。
ヘッドアップディスプレイに目標のトラックが映し出される。ミサイルが発射され、トラックに近づいて、画面が白く染まった。画面が元に戻ると、そこにはもう何もなかった。破壊力が大きすぎるのだ。周囲は歓声に包まれた。オペレータたちが飛び上がって喜んでいる。皆が駆け寄ってきた。
「やったな、サム」
「テロリストをやっつけたんだ」
「ああ、嬉しいよ」
内心、邪魔をしないで欲しかったが、サムは皆が盛り上がっているのに水を差す気にはなれなかった。モードはオートパイロットに切り替わっていたが、まだ作戦空域なので油断は禁物だった。天候が悪化するとこいつはすぐに落ちてしまうのだ。
サムは車に乗り込んで、イグニッションキーを捻った。大きなエンジンが唸った。駐車場から通りに出た。街は真っ暗で連続する信号が列をなして、三色のパターンを繰り返していた。ハイウェイに入って、速度を上げる。ハイウェイはまっすぐだが真っ暗で不気味だった。
町に入り、ハイウェイを降りて、再び氾濫する信号機たちの中に戻ってきた。信号が赤だったが十字路に突っ込み、左からやってきてそれを見たワンボックスカーのドライバーが慌てて左にハンドルを切る。二台は斜めに衝突し、二台ともスリップした。ワンボックスは交差点で九十度左に曲がる格好となり、その後対向車と正面衝突した。一方サムの車はというと、九十度右に曲がって暫く道路をまっすぐ進んだ後、上り坂の始点で止まった。サムは体をどこも傷つけることなく死んでいた。ただただ死んでいたのだ。
先ほど接吻を交わした彼女は前方の俺のオープンカーの上に横たわっていた。
一台の大型SUVがこの幾多の衝突事故が作る地層を破壊しようとするかのように、車の上を走り、押しつぶしながらこちらに迫って来る。
「サミュエル、来い」
車内から拡声器で男が叫んでいる。ここだけ切り取ったら、まるで人質解放を呼びかける刑事か、抗議デモの参加者みたいだ。面白くてたまたま近くにあったカメラを構えた。ところで彼は何故俺の名前を知っているのだろうか。その答えはすぐわかった。彼はサムだったのだ。では彼が呼んでいたのは、俺ではなく、この墓場に溢れるサム全員だったのだろうか。俺はSUVに乗り込んだ。
「飲み物をくれないか。もう喉がカラカラなんだ」
ハンドルを握るサムは鼻で笑った。
「後部座席にある。でもな、もうすぐ俺たちは死ぬんだ。だから飲んだって飲まなくたって何も変わりはしない」
後部座席の方に飛び移ると、そこには段ボール箱いっぱいにペットボトルが入っていた。ミネラルウォーターを取り出し、蓋をあけて浴びるように飲んだ。先ず服に、そして後部座席に液体がこぼれたが気にしなかった。好きなだけ飲むと、助手席に戻った。もう道路という概念が崩壊していた。見渡す限り事故車が並んでおり、このSUVがそれらを蹂躙する。
「なあ、どこに向かってるんだ」
ハンドルを握るサムは答えた。
「俺たちの墓場だ。死に場所として相応しい所を探しているんだ。なあサムよ、あんたはどこで死ぬのがいいと思う」
「スポーツカーの周りがいい。飛び散ったウイングが俺たちの死を祝福してくれるはずさ」
俺は興奮してきていた。どんなものかはわからなかったが、隣のサムによれば二人に死が近づいているらしい。それだけで十分許容範囲を超える快感が押し寄せていた。我慢できなくなって、声を上げて高笑いした。隣のサムはこちらを向いて微笑んだ。
サムがエンジンを止めると、二人でガソリンの携行缶を持って外に出て、周囲の車の中に手当たり次第にガソリンをまき、次々とマッチを擦って火をつけた。サムの言う大破壊の瞬間が近づいており、その時間の経過が二人を破壊神に変えていくのをひしひしと感じていた。気の済むまで火をつけて回った後、周囲が見渡せるように二人でトラックの屋根に上った。周囲は炎に包まれ、トラックは炎のカルデラ湖に浮かぶ小島のようだった。隣のサムは時計に目をやっていた。彼は秒針が振れるたびに何か新しい世界を発見したかのような表情を浮かべ、次の一秒を好奇心に満ちた顔で待った。
「そろそろだな」
隣のサムが呟きながら空を見上げた。真っ暗だったはずの空は晴れていた。遠くから何かが飛んでくるのが見える。先ほどまでとは質の違う轟音がして何かが飛んできた。何なのかは逆光でよく見えなかった。
約束より十分ぐらい早めに店内に入ったが、もう彼は来ていた。彼とはネットで知り合った。何でも彼のプレイヤーとしての腕が一流なので、会ってみたいというのだ。変な奴だと思いつつ、飲食代をおごってくれるというので取りあえず会ってみることにした。ゲイはこういう新しい手口を編み出したのか、と少々疑ったが、写真を送ってくれと頼まれたことは一切なかったし、彼は俺のゲームの腕にしか興味がなさそうだった。
「週にどれぐらいスコアを稼いでるんだい」
「ざっと五万位かな。どっちかっていうと少ない方だよね。あのゲームずっとやってればあっという間にそれぐらい行くし」
「まあ確かにやりまくってる、って感じじゃないね。要はスコアじゃないんだよ。空戦も対地攻撃も一流なんだから」
「そんなことないよ」
「無駄なく戦っているよ。週間スコアランキングはそんなに上位じゃないけど、一回の出撃あたりのスコアは結構上位じゃないか」
「まあね。ちょろいもんだよ」
「それに着陸が上手だ。空母の着艦もほとんどミスがない」
「下手な奴が多いだけさ。全く下手な奴らは困るよな。この前も燃料が残り少ないってのに、俺の前のバカが着陸に失敗して、滑走路を塞ぎやがった」
「それは気の毒だったな。ところで、ゲームだけじゃなくて本物の飛行機にも興味はあるのか」
「勿論あるよ」
「そうかサム、じゃあ今度空軍のショーに行ってみる気はないか」
「本当か。ずっと行きたかったんだが、どこも家から遠いんでいけなかったんだ」
「それはよかった。人のいない所で見せてやるよ」
心から彼の誘いを喜んでいたが、同時に薄々感づいてきた。
「あんた、空軍に知り合いがいるのか」
「ああ、沢山いるさ」
レコードが部屋中に散乱していた。もはやどこに何のレコードがあるのかよくわからなくなってしまっていた。レコードにはすべからく埃が積もっていていた。レコードを分割して張り合わせたものや、真っ二つに割かれたまま忘れられているレコードも少なくなかった。いくつものレコードの断片を合成してきた。どれがどのような断片の組み合わせなのか、もうさっぱりわからない。今座っている椅子から立ち上がることすらできない。立ち上がったら、足元でレコードが割れてしまうから。どうせ埃をかぶっているのだから、レコードたちは遠からず失われてしまう。そうとわかってはいても、立ち上がれない。埃のせいにできなくなってしまうから。
屈曲した欲望と愛情のせいだった。何とか正確に表現しようとあがくために駄作ばかりが積み重なっていってしまう。後で何かの手がかりになるんじゃないかと思うと、一つも捨てられない。仕方がないからレコードたちに惨殺されるのをゆっくりと待っていた。でも我慢の限界なんだ。足が震えた。床に広がるレコードに足を乗せて、立ち上がろうとすると、椅子ごと前のめりに倒れてしまった。レコードが音を立てる。
サムの体は黒光りして円盤に刻まれた立体構造に同化していった。