戒の空(1)
いつものように飛鳥と別れた戒は下の階に降り、葉の繁った人工林の横を歩み校門を目指す
春過ぎの五月に差し掛かった今の時期、影の有る場所では冬の寒さの名残が残留し肌寒さを覚えるものであり
部活を終えて帰って行く生徒達も早く暖かく、過ごしやすい季節にならないかと会話しつつ、何人かで集まり帰宅の徒に着いていた
校門の近くには人がまだ群れていた。その頭上には赤く輝く太陽が昼の明るさを引き連れて山の向こう側へ没しようとしている
山と接しているように見える太陽は眩い茜色の陽光を町全体に振り撒けており、聳え立つ無数の建物が夕焼け色に染められていく
戒はその光景に一抹の感動さえ覚えながら飛鳥のいっていた言葉を思い出した
『夕焼けって綺麗だけど、すぐに暗くなっちゃうね。だから私はあまり好きじゃないんだ、すごく儚い感じを見せ付けられているようで』
(こんなに綺麗なのにどうして先輩はあんなこと言ったんだろう?)
考えてみても解らない。そもそも他人の気持ちを完全に把握することなど出来ない
そうした所で天音はずっと空を眺めているのか理解できないから
ふと、思い立ち校舎の方に視線を向けた。そこも街の建物と同様に白い壁が夕日の色を浴びて橙色に染め上げられている
その三階の真ん中は戒の教室だ。そこに小さな人影が見える
戒は一瞬にしてそれが誰なのかを把握した。自分のクラスに下校時間を過ぎて残っている人間は彼の知る限り一人しか該当しない
(懲りずに何を考えてるんだ?宇都宮さんは!)
心の中で盛大に愚痴をこぼしつつも、戒は人並みの流れを逆行し掻き分けるようにして歩いてきた道を引き返していた
自分が着く前に彼女がまた面倒ごとに巻き込まれないことを祈りつつも、どうしてそこまで彼女に係るのかは解らないままであった
誇りっぽい校舎の中に入ると階段を二段ずつ飛ばしながら上に駆け上っていく
笹山は今は居ないので彼に見つかる心配はゼロだが、他の教師に天音が見つかってしまった場合はまた厄介なことになりかねない
それにああ見えて彼女は気が強い。皮肉めいた悪口を教師にぶちまけて問題をこじらせてしまいそうだ
見た目は繊細なのにいざ口を開くと烈火のごとく罵詈雑言が飛び出す少女。それが戒の知っている宇都宮天音という少女に抱いた印象だ
彼が何故そこまで彼女に節介を焼こうとするのかは自分でも解らない。只、懐かしい感じがするのだ。彼女を見ていると
そうこうしていくうちに自分の教室の前に辿り着く、教室の徒を潜ると相変わらず天音が自分の席に座り窓の向こう側を眺めていた
「宇都宮さん、いいかげんにしろよ!」
戒は少し強い口調で言った。昨日のように優しく説き伏せようとしても彼女は無視するだろうし彼自身早く帰ってしまいたかったということも有る
その為には手早く彼女を説得しなければならないのだが・・・
「うるさい、黙って」
「君がいつまでそこにいると他の見回りの先生まで迷惑がかかる。それに同じクラスメイトとして放っておけない」
半分は言い訳のようなものだ。正直に言えば戒は同級生だろうがなんだろうが彼女がどうしようと口を出す気は無かったし
天音が他の教師に怒られたとしても彼にとってどうなるというわけでもない
強いて言えば昨日に引き続いての御節介の様な感情だと解釈している、他に理由があるのを戒は自覚していなかった
「無理して真面目ぶって、どうなんだか?本当は建前なんてどうでも良いくせにさ」
天音が戒を嘲笑うように笑みを浮かべる。ささやかな悪意を向けられながらも引き返すことはできない
正直そんな彼女の態度に不快感を覚えないわけでもなかったが、戒は説得を続けた
「もう君も高校二年なんだろ?子供っぽいことは止めなよ。空なんかずっと見てても何にもならないと思う」
口からついて出た言葉に戒は内心驚きを隠せなかった。確かに天音の言っていることは腹立たしく感じるものの彼女が空を見ようが何をしようがそれは彼女の勝手なのだ
しまった、言い過ぎた。公開した直後に天音の顔から一瞬にして血の気が引いたあとに鼓膜を震えさせる怒声が戒に衝撃を与えた
「あんたに私の何が分かるってんだよ!!」
突如、天音が大声を張り上げた。戒は彼女の迫力にやや押されてしまう
いきなりの豹変に戒は内心驚くが、天音が目の端に光るものを見て気付いた
「いっつも仮面を貼り付けて過ごしているあんたなんかには分からない。空は私の・・・」
天音は微かに涙を浮かべていた。零れ落ちるほど多くは無いが目の潤みでわかる
言い過ぎたと自覚するが、いまさら遅い。自分の言葉がナイフよりも鋭く天音を傷つけてしまった事を悔やむ
微かに充血している天音の瞳。それを見て戒の胸の中にも何か不思議な熱が宿り始めた
(なんだ?この気持ち)
それは天音に対する怒りの感情ではない。もっと暖かでかつて彼が心の中に宿していた光
連続する日常の中で磨耗し、悲鳴を上げ、彼自身捨てたと思っていた過去への憧憬、懐かしさのようなもの
それが戒自身を呼び覚ますように、心の中で大きく膨れ上がる。彼女の涙に共鳴し彼にも熱い感情を喚起させるかのように
何かしてやりたいと思った。償いにもならない、彼女に許してもらえないかもしれないかもしれないが何かしらの落とし前は付けたかった
「分かった」
戒は熱に促されるように言葉を発した
自分でもよくわからない衝動に支配されている。心臓がもうひとつできたかのような熱い鼓動が自分を動かそうとしていた
そうと決めたら、過去にある少女に話したときと同じように心が現実の楔から解き放たれるように気持ちは軽い
「え?」
呆気に取られ、ぽかんと口を開け戒を見る天音
「それなら、今から僕が空の見える場所に連れて行ってあげる」
戒はそう言うと、天音の腕を引っ張って出口へと走る
何をしているんだ、笹山と変わらないじゃないか?という彼自身の声が胸の中で反響するが戒はそれを意志の力でねじ伏せる
自分のやろうとしていることは笹山のように自分の為にすることではないのだ
「ちょっと、神城君?!何するの?」
戒は答えずに彼女を引き連れてさらに上の階段を駆け上がっていく
天音の動揺が繋がった手を通して伝わってくる、思ったより細くて繊細な彼女の腕から熱が伝導するようだ
それに導かれるようにして戒は階段を駆け上がっていく。下校時間のことなど当の昔に頭から消え去っていたまま二人は上に昇って行くのだった
「あんな場所じゃ、本当の空は見ることが出来ない。」
「え?」
「見せてやるよ、綺麗な空を」
走りながら戸惑う天音に向かって戒は笹山に向けたのと同じ、不適な笑みを浮かべている
今の彼にとって校則だろうが、教師だろうが、あの笹山だろうが、今の自分を止めることなどはできないと思っていたから




