騒ぎの後で
いつものように戒が学校に出てみると笹山は昨夜転勤届けを出したとの話を康生達から聞いた。今日付けで別の学校に移ったらしい
なんとも早く動いたものたど内心舌を巻いたが、忌々しいことに彼の悪行が表向きになっていない原因の一つに逃げ足の速さも関係しているのかもしれない
ある意味で大した処世術だが、あまり感心出来きるものではない。戒はいつの日か笹山の罪が明らかになる事を密かに祈る事にした
この件はしばし生徒たちの話題にたびたび上ったが、彼がいなくなったのを惜しむ声は一部を除いてあまり無かったし、今日の社会の授業が自習になることも手伝って喜びの声のほうが多数を占めているようだ
中でも大喜びしたのは女子生徒のグループだろう。笹山が在学中に女子トイレに盗聴器を設置していたという半信半疑な噂も出ていたくらいである
彼には彼女たちが付けていた多数の『あだ名』が存在していた
曰く変態教師、社会教師の七不思議、フェミニスト・・・。戒も聞いていてあまり気分がよくなるような事ではないのであまり知ろうとはしなかったが
それで康生に別の話題に切り替えさせられたが、彼は非常に残念がり再度持ち出そうとしてくる。戒は僅かに嫌悪感を抱く
適当に相槌を打ってはやり過ごしているものの、流石に飽き飽きしてくるものではある
彼女達や笹山を面白半分で話のネタにしていた一部の生徒は彼の転勤を悔やんでいたようだが、戒は彼等の気持ちに共感も理解も出来そうに無い
当事者である自分としては早々に風化して欲しい話題であるのだ。そして、密かに彼は携帯の中の笹山が天音の腕を掴んでいる画像のメモリーを抹消していた
自分に変な趣味は無いと思うし、残しておいてあまり気分のいいものではなかった
一応、天音にそのことは話したが彼女は小さくうなずいただけで特に言及して来なかったことが不思議ではある
彼女の性格ならもっと何か言って来そうではあったが、口頭の説明だけで気が済んだのか必要以上の追求は無い
何がともあれ笹山はたった二年間の赴任期間を経て、三年目を迎える前にこの高校から去ったのはあっけない幕切れであった
「でさ、何で笹山が居なくなったのか知ってるか?」
今日何度目かの話題。康生が戒に聞くが、自らが関わっているとは流石に言えず曖昧に笑いながら手短な相槌を打つしかない
「さあ、身内の都合って奴かもしれないな。あの人もう年だし実家に帰りたくなったのかも?」
面白くない話のネタにも我慢して笑って答える。当事者としてみると肝が冷えるような思いだが、それを表沙汰にするわけにもいかないのだ
惚けた振りをして答えをぼかす戒。康生は盛り上がらない戒の態度に気付いてか少し不満そうに眉をひそめた
「お前さ、この手の話には本当に興味が無さそうだな」
「興味は有るよ。笹山は僕も嫌いだけどやっぱり噂としても盛り上げるには情報が少なすぎるし、あまり人の噂で話をしたくない」
「ふーん、変わってるなお前。他人のスキャンダルはもっと楽しんだほうが良いぜ」
「覚えとくよ」
康生は彼を失笑するように鼻を鳴らしたが、戒は動じない
彼はその程度で怒りを露わにするほど幼くは無かったし、いつもの康生の癖だとわかっていた故だ
「まあ、お前も外れ者にされたくなければ話題を合わせていったほうがいいぜ」
「ああ、気をつけるよ」
「お前もう少し気の利いたこと言えよな。つまらないぜ」
そう言って康生は笑う。半ばつられる様に戒も小さく笑みを浮かべると戸を開ける音が教室中に響いた
どうも集団で過ごすという事に一種の窮屈さを感じずは居られない。周囲と同じ反応で場を盛り上げることを強いられているような圧迫感
それは、お世辞にも広いとはいえない教室の空間で三十人以上が詰まっているという、物理的な圧迫感と同じで愉快な気分にさせるようなものではない
無論、人によっては他人と合わせたほうが気持ち的に安定するし楽しいかもしれない。普通はそうなのだろうし道理も理解できる群れる連中の気持ちも解らないでもない
それに戒は自分がいわゆる『普通』でないことを自覚していた
皆が振り返って教壇の方向に視線が集まる、担任の教師が仏丁面で自分の教え子たちを見ている。教師の登場と共に室内の喧騒が波を引いたかのように収まった
「お前たち。元気が有るのはいいが、自習用のプリントはきちんと提出するように
いつまでも私語で盛り上がるのを悪いとは言わないが、来年から進学や受験だぞ。少しは緊張感を持って授業を受けろよ」
先程と変わっておしゃべりに花を咲かせていた女子生徒やトランプでフォーカードを遊んでいた男子生徒がまるで何事も無かったかのように
机の上で手を動かし、並べられていたものをしまう。手品師のような手際の良さに戒も思わず感心してしまう
その後、いつもの儀礼的な朝礼が済んだ後に退屈で助長な授業が始まった
時間が過ぎ、昼休みになる。戒は康生達と食堂に行こうと財布の中身を確認していたとき目に留まったもの
それはあいも変わらず笹山や他の話題で盛り上がる女子生徒達を横目に弁当を広げ窓の外を見つめている女子生徒・天音が座っていた
(昨日まで気付かなかったけど、ずっとあの席に居たんだ・・・)
天音は昨日の過激な言動とは裏腹にとても静かだった
色白だが、凛として鼻立ちがくっきりとしているシャープなラインは彼女が美人の部類であることを他人に説明するには十分だろう
腰の近くまで伸ばし、開けはなれた窓から吹きいる風が彼女の艶のある髪を小さく揺らしている
まるで彼女とその周囲自体が一つの芸術のように周りから切り離され、風景に溶け込んでいるかのようだ
一度気づいてしまうとまるで世界とは切り離された絵画のような光景に見える。戒はしばしの間それに見とれそうになった
昨日の姦しい彼女とはまるで別人の静かな天音の顔。だがその存在感の異様さが周囲に浮いていた
例えるならば、黄色い蒲公英の花畑の中に薄紅色の彼岸花が混じっているような存在感
彼女の個性は際立っていると思うが、奇妙なことにあまり存在感が薄い。まるで幽霊であるかのように
何故、今まで気付かなかったのだろうと思う。存在感が無いわけではないが良く見ないと忘れてしまいそうな蝶のように儚い雰囲気
しばし見とれていると、天音が振り向いた
「・・・!」
こちらの視線に気付いたのか、天音が戒のほうに首を向け視線を遣している
交錯する視線と視線。戒は戸惑いを自らの胸の中に覚えたが天音も同様に見えた
気の強そうにピンと張った眉が、ずっと見られていたことに気付いたように細かく揺れている
戒は目を逸らそうとした。逸らして無視してしまえば天音の瞳と合わせずに済むと考えていたのだ
だが、思ったよりもそうはいかない。まるで磁石のようにつながるような視線
戒の胸の内を包んだ懐かしい感触に彼が戸惑う。そのときが何時か、誰なのかは直ぐに思い出せない
そもそも、今のような経験があったことすら解らない。はるか昔の記憶の本棚は遠い時間の波によって押し流されて今はその残滓しか残っていない
その残骸を必死にかき集めようとする。何かは解らないがそれが自分にとても大切な物である事を戒は本能的に悟ったが、闖入者がそれに割り込んだ
「戒。お前何してんだ?早くしねえと」
記憶の探索はトイレから戻ってきた康生の声によって中断された。金縛りのような視線の邂逅から開放される戒
このときばかりは彼は康生に感謝する
「・・・あ、ああ。解った」
ろくに容易もせずに答えた返事は語尾が揺れてしまい、まともに言葉になったかも怪しかったが康生は特に気にしてないようだ
彼はあまり人の話を聞くタイプではない。逆に話を聴いてやっている振りさえすれば付き合いやすい人間では有る
「じゃあ、行くぜ」
のろのろと康生と彼の仲間達の後を追っていく戒。教室を出る前、一瞬だけ天音に視線をやるが、彼女はもうこちらを見ていなかった
天野の後姿を見送りながら、戒は寂しく思った
時間が過ぎて放課後。いつも通りに鞄に荷物を纏め部室に向かおうとしていたとき、ふと背後を振り向く
宇都宮天音は相変わらず文庫本を片手に窓の外を見上げている
周囲ので談笑している女子生徒たちは彼女に目を向けようとも話しかけようともしない。もっとも天音に接触しようとしたところで彼女に無視されるのが関の山だろうが
ほんの気まぐれな気持ちが戒の中に湧き上がると、彼は天音の机の前まで歩いていった
天音が微かに視線を投げ、再び文庫本のページに戻した。悪戯心が戒の心に湧いた
「本を読むならもっと気の利いた場所があるけど」
「・・・。」
只、ほんの気まぐれで声をかけてみたが天音は無言。顔すら合わさずに無視している、周囲の生徒達の話し声が少し静まった
二人の動向に注目しているのだ。誰も話しかけない女子生徒に声をかける戒の様子が他の生徒達の関心を浴びているのだ
戒はその沈黙を察し、少しの間机の前に立ち尽くした。天音は相変わらず文庫本を読んでいる様に見えた
だが、よく観察するとその視線は窓の向こうに向けられている。戒は周りの動きを注視しつつ宇都宮天音に再度呼びかけた
「空が気になるんだろ?」
「・・・。」
天音の瞳が微かに揺れ、顔が再び戒に向けられる
半分冗談で言った言葉に予想以上に反応したために戒も驚くしかない
再びつながりあう視線と視線。何か言おうと天音がようやく口を開いたが
「・・・あんた、読書の邪魔。うざいから早くどっか行ってよ」
一蹴されてしまう。どうやら気に障ったらしい。年頃の少女らしく薄く、丁寧に整えられた眉毛が斜を描き逆八の字を描いており、くっきりした瞳にもありありと不快感の色が見え隠れし戒を責めているようだ
本当は本なんて読んでいないくせに。と言いかけるが、無視されるのが関の山。大人気ないことは止めておく
「そうだね。」
反応を得て。戒は看板を掲げ教室を出た、しばらく背中に幾つかの視線が突き刺さるような感触を覚えたがあえて無視する
何も話せなかったことに対する軽い自責のような感情。今まで戒の胸の中にこんな熱さを感じたことは無い
天音の顔に何か思い当たる節があるのだ。今ではない、以前にもどこかで話したことのあるような気がしてならない
その感情が何なのか解らないまま、戒は放課後の文芸部へ急いだ