空の理想郷
夕暮れの最後の残光に染められた教室
既に下校時間の過ぎた学び舎の一室に見える人影は二人の生徒と一人の中年教師のみ
これは補習といった学校内の授業一環に含まれるようなものでもない
その証拠に入り口の近くに立つ男子生徒は携帯電話をまるで警察手帳を指名手配犯を威嚇するように見せ付けるように構え
それを見せ付けられている側の教師は焦りと緊張と憤怒そして屈辱で顔の形相が歪んでいる
既に老い始めた体から溢れる負の感情は目の前の男子生徒に突きつけられているようであり、法の制約さえなければ目の前の男は生徒―――発作的に戒を縊り殺してしまうほどにそれは濃密だった
「君は何をやっているのかわかっているのかね?これは教師に対する反逆だぞ!」
無言の空間を打破し、少しでも自分を有利にさせようと教師である笹山が声を張り上げた
戒を萎縮させようと張り上げた怒声。気の弱い生徒ならばそれだけで、竦みあがりいかなる不条理があろうとも笹山に土下座してしまいかねない迫力を秘めている
笹山も伊達に三十年近くこの職業についているわけではないのだ。ある程度は生徒を従える術を彼はこの半生の中に自分の体にしっかりと叩き込んでいたらしい
長い間、彼がこの職に居座れたのも小ざかしい気転と悪知恵。そして組合の力を最大限に活用したからであり伊達にも笹山は戒の手に余る人物に思える
だが、それに戒は動じる様子も無く淡々と告げる。ここで引いたら自分が出てきた意味がない
それに、弱気な気持ちは最初に携帯電話を突きつけた時点で粉砕している。後は野になれ山となれだ
「大声を張り上げて誤魔化すつもりが有るのなら、今の状況を説明していただけますか?」
反論に動じなかった笹山の顔にも僅かに焦りの色が見えた。しかし、彼はまだまだ怯む様子が無い
「君には関係の無いことだ。私は下校のチャイムが鳴っても帰ろうとしない宇都宮に注意しようとしただけであり、これは正当な指導だ」
「教育的指導という奴ですか?なら、何故彼女を組み伏せていたんです。先生は体育の担当じゃないですよね?
もしかして口に出来ないようないかがわしいことでもするつもりだったんですか?」
「く・・・それは・・・」
幾分か冷静になって取り繕おうとした笹山に追い討ちをかけるように戒が告げる
「前の学校のことは色々と噂になっているんですよ。証拠が無かったのか表向きにはあまり騒がれなかったようですけどね」
「貴様・・・何故そのことを?」
明らかに狼狽した笹山が唸る様に言った
案外素直に尻尾を見せたな。と戒は胸中で笑む、正直に言うと証拠を握っていてもシラを切られ場合はこちらが窮地に立たされていたかもしれない
今までバックに面倒事を潰してもらって来た笹山本人は意外にも荒事に慣れていないのかもしれない
ましてや、只の一生徒に行いを糾弾されるなんて想像もつかなかっただろう
「情報源はインターネットの非公式掲示板ってやつです。もうみんな知ってますよ。先生が前の学校でやった事は」
余裕の笑みのようなものを浮かべ、戒は最後の仕上げといわんばかりに笹山を追い詰めるかの如く宣告する
笹山は最後のプライドで何か言おうと口を開けるが、そこから漏れた言葉は意味不明な単語の羅列じみたもので、たどたどしく力の無い呻き声だった
彼の完全なる敗北だった
「その様子だと事実だったようですね?」
畳み掛けるように戒が言う。無論、不敵な笑みも忘れずに笹山を威圧する
「く・・・神城、覚えとけよ」
捨て台詞を吐き、笹山が顔を歪ませながら立ち去っていく
彼の姿が見えなくなった後、戒は大きくため息を吐き教室の壁にもたれかかった
「・・・ふう」
大きく息を吐く戒。同時に不敵な面構えが一気に崩れ、どこにでも居る疲れた学生の顔に戻る
荒事には幾らか立ち会ったことがあるがここまで緊張したのは初めてだった
そのあまりの狼狽振りから戒はもう少し追い込んでみようとは思ったが、追い詰めすぎるとあの手の気の弱い小心者は何をするかわからないので何も言わない
仮にも喧嘩になれば体格がやや大きい笹山のほうが慎重に若干の軍配があがる。何より戒自身が教師に手を上げた問題生徒として槍玉に挙げられかねないし、事態がややこしくなりかねない
天音にも糾弾が行くかもしれないが、今回のは落とし所としてはまずまずだろう
戒自身、笹山がこれから何もしないのであれば天音の同意を経て、画像は削除するつもりでいたのだが
「・・・あ、そうだ」
すっかり暗くなった教室の中。ようやく戒は天音の存在を思い出す
夕日が完全に没し、橙に染まった地平線にしかその名残が見えない以上彼女の姿は確認しづらい
戒は入り口の戸の横に備え付けられてあった電灯のスイッチを入れた
パチン。スイッチを弾く軽快な音が鳴った後、教室全体の蛍光灯に明かりが灯る。戒は教室の奥にへたり込んでいる天音の姿を認めて声をかけた
「大丈夫?何かされたりしなかったかい」
教室の横に座り込んで中空を見つめて呆けていた天音の瞳に光が宿る。戒が見たところ天音の制服に特に乱れはあったが最悪の事態は避けられたようだ
何事も無かったのは僥倖だった。そもそも笹山と戒が階段で会ってからまだ十分も経過していない、無事で何よりだった
戻って来て良かったと戒は思った。自分の知らないところでクラスメイトが悪徳教師の毒牙にかかるというのはあまりいい気分ではない
戒は彼女が立ち上がれるように手を貸す、しかし天音はその手を払いのけた
「何よあんた。それでナイトを気取ってるつもりなの?」
「え・・・?」
天音に露骨な拒絶の意思を示され戸惑う戒。確かに彼女を助けようとはしたがそれは善意からであり気まぐれであり
別に感謝されなくても構わないとは思っていたが、こうまで反発されるのは戒にとっても予想外だったのだ
「でも、君も大変だったんだろ?あんなやつに目をつけられて」
「別に、あんたみたいな軽い奴に助けられるほど私は落ちぶれていないわ」
先程の人形のような雰囲気から一気に燃え上がる苛烈な炎のような性格を現した天音
その雰囲気の変遷に驚く戒だが何も言い返す言葉が浮かんでこない
「夕日も沈んでるし私はもう帰る、せっかく空の上にアルカディアが見えたのに・・・あんたもあの馬鹿も私の邪魔をするのね」
天音の言った事が理解できず、反射的に戒は聞き返す
「君は何を言っているんだ?」
「いいから、どきなさい!」
拒絶の意思を示す天音。彼女の言っていることが理解できずに戒は戸惑いを見せた
戒を押しのけて無言で退室する天音。先程まで人形のように大人しくしていた彼女とは見違えるほどにすばやい動き
「アルカディア、理想都市・・・」
戒は天音の行っていたことを無意識に反芻していた。思春期に有りがちな妄想にしては引っ掛かる所が有る
それに何の意味があるのかは彼自身にも解らない。ただ一つ言える事は自分にも彼女の気持ちに対する微かな共感めいた感情が自分にも存在するということだった
(空の街、天国。宇都宮が考えていたことは窓の外を見ていたことに関係するのか?)
昔、幼い頃に上空に神の国があるものだと信じていたことがある
両親がキリシタンであり枕元に聖書をよく聞かされてから考えた空想であった
彼は子供特有の限りない想像力で神が死者と過ごす町を夢想していた。そしてそこに行ける様にある時期までは模範的でいようと真面目に過ごしていた時期もある
だが、ある日知り合いの女子生徒にその話をしたら薄気味の悪いものを見るような目を向けられてからその手の類の話はせず、周囲に埋没するように勤めるようになる
それは戒が中学一年生の頃の出来事であった
あながち、自分も天音の事を一方的に笑える立場ではない
心の奥底にしまったはずの過去の出来事が脳内に浮上してくる
まるで過去の自分が現在の自分に問いかけてくるような、不思議な感情
戒は窓越しから薄暗く染まった町を視界に納めた
当然ながら赤と濃紺に染まりつつある空には飛行機の類さえ飛んでおらず、黒いカラスの郡体が横切っていくだけだ
アルカディアなんて見えるはずなど無い。天音はいったい何を空に見ていたのか?
その後、彼も教室を出た。この場に居ても何の意義も感じなかったから
そして天音とはなるべく関わらない事に決めた
何故自分が彼女を助けようなんて考えたのか、そのときの戒は深く考えたりはしなかった




