二人の理想郷
耳鳴りがする、誰かの呼び声が聞こえる
今は酷く頭が痛い、しかしそれに耳を貸している場合ではない
汗で湿ったシャツとパンツを取り替える為に下の風呂場に行く、外はまだ暗く早朝のようだった
二階にいる親の寝室にまで音が聞こえないことを祈りつつ、裸になった戒は冷たいシャワーの洗礼を浴びる
流れていく流水が、程よい冷たさを体全体に与え温度を下げていく
眠気が徐々に覚めていくのが分かる。二日酔いじゃなくて良かったと溜息を吐きそうになるがそれと同時に疑問符が浮かび上がっていた
部室で眠りかけていた自分をここまで送ってくれたのは誰かという疑問
しかし、それにはすぐ答えの予想は付いた
恐らく、飛鳥が送ってくれたのだろう。年下とはいえ男一人ここまで担いでくるには相当な体力と衆目の視線があったはずだ
奮闘努力の先輩の好意を素直に感謝する。自宅への道を知っていたのは以前に一緒に帰ったことがあるからだ
彼女の家は自分より遠い、また会ったら礼が言うべきだった
感謝の気持ちと自分が彼女に支えられてきたことを思い知らされる
思えば、飛鳥には迷惑ばかりかけてしまった
その代価は戒が一生かかっても払いきれないかもしれない
だが、あれが最後の我侭になるだろう。少なくともそうであって欲しいと願う
(ありがとうございます、先輩。僕は今から己を貫く為に行きます。)
後悔はしたくない。それに校舎の取り壊しは何時始まるか分からない
だからこそ戒は制服に着替え、家を飛び出し。明け方特有の青白く不気味な藍色に染まった空を駆けていった
今度天音と出会うときは彼女の気持ちに素直に向き直ってやりたいと思いながら
屋上の鍵を何時もの様に開錠する。これをやるのはあの日以来だった
ゆっくりとドアノブの冷たい感触に触れる、躊躇いを振り切るようにそれを回し一気に押す
屋上に出ると濃い藍色と薄水色の絵の具をでたらめに混ぜたような空が頭上に広がっていた
息を大きく吸い、朝の澄んだ清浄な空気を肺に溜める。準備は整った
この時間帯の校舎に人は居ないはずだ、だから今しか出来ない
静かな濃紫色に覆われた街。奥手の山の向こうから太陽の光が微かに漏れている
今回は三度目の正直。もし彼女を取り戻すことが出来なければ、永遠にあえなくなるであろう確証が戒にはあった
もう少しで美しい夕焼けが見れる時間になるだろう。だが、彼はそれを待たずに空へ向かって呼びかけた
「宇都宮を返してもらうぞ!」
戒は大声で天に向かって吼えた。以前とは違う、それは新しい夜明けを迎える為の過程にして結論
大空の向こうに彼女を捕らえた『彼』に対する宣戦布告
天音は返してもらうとの意思表示にして戒の決めた決定にして信念
「天音、君が帰ってこないなら僕は命を絶つ。君の居ない世界に価値なんて無いからな!」
宣言した次の瞬間の事であった、明らかに戒を取り巻く大気の流れが変わったのは
冷たい雪の冷たさを持った風が小さな台風となって屋上を吹きまわした
(あの時と同じ?)
しかし、それは以前体験したものとは毛色が違うものだ。空気は渦巻き、見えない暴風を纏った竜巻となり
恐らく『彼』の仕業であろう暴力的な風は、無色の圧力を伴った鉄槌となって戒を吹き飛ばそうとする。天音の時の優しく温かい風ではなく、まるで冷たく吹雪の冷気を伴った殺意を込められた風の刃だった
屋上の手すりに捕まり、かろうじて踏み留まる。しかし、老朽化して所々錆に侵食された鉄の柵は
ギイイ、と苦しむような音を立て、徐々に折れ曲がっていく
破滅的な音を立て、策が軋んでいく。戒の体力も限界でもう一分と持たないかもしれない
確実に殺す。と言わんばかりに風の圧力が戒を攻め立てる
ここは校舎の屋上、落下すれば唯ではすまない。打ち所が悪くなくても十二分に死に至る可能性もあるのだ
戒は死を覚悟したが、直後に聞き覚えのある声が耳に届いた
『もしかして―――戒?』
「宇都宮ッ!」
それはいくらかエコーがかかったものだったが、紛う事なき彼女の声だった
『止めて、お願い!戒を殺さないで!』
天音の声が何者かに懇願した後、風が止む。戒は湾曲した手すりから手を離し屋上の中心部に歩いた後、周囲を見渡したが求める人影の姿は無かった
求めていた。この瞬間を待っていた
数ヶ月待ち望み、一旦は諦めかけた彼女との対話
そしてリベンジを重ね、取り返すと誓った矢先にようやく得た絶好の機会
こうして、神城戒は宇都宮天音と再び対話する場を設けた。それは空の神と対決する場でもあったのだ
戒は上空に向かって声を張り上げる。空の何処に居ても届くように
色々と振り切った気持ちで、天音に呼びかけんと肉声を響かせる。喉の負担や近所迷惑など知ったところではない
「宇都宮ッ!、帰って来いよ!!」
『ごめんなさい。それは出来ないの』
耳元で囁く様に天音の声が聞こえた。戒は大声を出すのをやめた
そんな事をしなくても空と一体化し、天そのものである彼女に自分の思いは伝えられる事は理解できたからだ
「なんで。君は帰ってこないんだ!?」
疑問を呼びかけたが、天音の声は平静そのもの。それが、戒の心に若干の焦りを生んだ
『分からない、でも空にいるととても心地よくて何もしなくて良いの』
「君自身が空になったって事なのか?」
『それに近いけど、うまく説明するのは無理かもしれない。私にも良く分からないけど、多分人間が理解するのは難しいと思う
私が呼ばれたのはあなたの呼びかけに答えたから。戒を死なせたくなかった』
天音の声が返って来ると、戒は再度尋ね返した
「それが、君の求めていた理想郷なのか?」
『分からない、けどすごく居心地は良いの。悩まなくても済むから
でも・・・私はどんどん空に溶けてなくなってしまう。天に召された魂達と同じように
何故、今になっても『宇都宮天音』という『器』と『私』の自我が残っているのかは自分でも分からない』
「それはきみが未練を残しているからだ
君はまだ死んでいないし、地上に留まってもいいはずだ。心残りを残したまま死ぬなんて寂しいよ・・」
『無い事は無いけど、もう帰れないと思う』
何時にも増して、恐縮に抑えた彼女の声に不安を覚えた
これが本来の天音なのだろうか?それとも空が彼女にそういわせているのかは知らない
だが、今は問いかけるしかない。地上にしがみつく一匹の蚤同然に等しい存在である戒は呼びかけるしか出来ないのだ
「どうして?」
『地上は五月蝿くて紛らわしいから、肉体に囚われていると余計なものに心や在り方さえも縛られるのよ』
確かに、声の主は天音のようだった。未だに姿は見えないが
肉体に囚われていると、彼女は言った。戒自信そう思うときがある
しかし、問いを止める訳にはいかなかった。黙ってしまうと天音はすぐに空へと帰ってしまう、そうなれば手遅れだ
それは戒が『神』に敗北することを意味するからだ
「・・・君は自殺したんじゃないだろ?」
『違う』
きっぱりと『天音』の声が否定した。確かに彼女が死んでしまったのならばこうして話すこともなかったのだろう
天国と理想郷の区別は分からない。疑問が沸き、彼女に聞こうかと一瞬考えたが、それは今すべき事ではない
「体ごと魂が天国にいるって状態なのか?」
『うん、どうやらそうみたい』
それを聞いても戒はさっぱり、理想郷とやらがどういったものなのかは分からなかった
しかし、天音を返すという決意は変わらない。彼女には生身で言いたい事が山ほどあるのだから
「なら、帰ってこれるだろう?『器』は君の肉体のことだよ」
『体があっても・・・帰ってきてどうするというの?』
「ずっとその理想郷とやらで過ごすつもりなのかい?そのうちに本当に死んでしまったらどうするんだ?」
『彼が悲しむわ』
戒は失笑する。『彼』なぞ知ったことか、たかが『神』如きに何故天音を譲る必要があるのか?
半ば爆笑しながら一気にまくし立ててやった
「その彼とやらの為の巫女になって生贄になるつもりなのか?笑わせないでくれよ。
君にそういった殊勝な性分は絶対に似合わない。いつものように粗暴なやりかたで僕や周りを困らせていればいいんだ」
天音の声が沈黙したのを確認して、戒は畳み掛けるように言った
『あんたに私の何が――』
「地上で見る夕焼けは綺麗だろう?あれは一日に二度しか見えないからそう見えるのさ
空にばかり居たって、すぐに飽きてしまうんじゃないのか?」
天音の言葉を遮る様にして会は言う。彼女にあの言葉を言わせるわけにはいかない
彼女に辛い思い出をフラッシュバックさせてはいけない。もう一度彼女が自分で自分を貶めると本当に『宇都宮天音』が消失してしまうような気がしたのだ
「帰ってきたら文芸部に来ないか?部を維持するのにあと一人居るんだ」
先程とは別に優しい声音で天音に話しかける。今となってはこういった穏やかな気持ちで彼女に接したのは初めてかもしれないと思いながら
『部活ってなんか面倒くさそう』
「そうか?他の分はどうか知らないけど文芸部は本読みながらお菓子食える場所だぜ」
『それは・・・ちょっと良いかも』
良い感じに話が逸れたと戒は笑みを浮かべた
うまくいけば天音が帰ってくるかもしれない。彼女の居場所を示してやることが大事だった
「それに地上は綺麗な夕日も見れる。卒業するまでだけど毎日連れてってあげるよ」
『でも、』
「地上にもいいところは一杯有るんだ。悪い面のほうが目に付くかもしれないけど」
『帰ってもいいのかな?私・・・』
「僕が傍に居るだけじゃだめなのか?」
『それは・・・』
「空に至って話す人間も居ないんだろ?ならさ、一人二人くらい下らない事で笑う人間が傍らに居た方が人生楽しいんじゃないか?
それに、地上を見下ろすばかりじゃ楽しくないだろ?宇宙なんて暗いだけですぐ見飽きるだろうし、空で雲ばかり見ても似たようなものだろう?
俺達は神様じゃない。地上から見上げたたほうが気付く事も一杯有るんだぜ」
そう、今の戒の様に
『帰ってきても、笑われるし留年しかない』
「君は頭がいいんだろう。君を笑った奴なんてすぐに笑い返してやるさ」
それでも彼女を侮辱する人間が居たらたとえそれがどんな奴でも叩きのめす
康生や取り巻きがかかってきても、今の戒にとって恐れるものでもない
『そんなのじゃ誰も認めてくれない』
「認めてくれる奴は居ると思うよ。君は誰が見たって魅力的だから」
外見はね。とはさすがに口に出せない
そもそも彼女の魅力なんて知る人間は自分だけで良いと戒は思っていた
一生彼女を愛する。それこそが戒の決めた『未来』なのだ
『本当に帰ってもいいの?』
「理想郷を見たんだから、後は君の好きにすれば良い」
『私は―――たい。ごめんなさい』
天音は誰かに謝る様に言った後、彼女の声は途絶え聞こえなくなってしまった
その時の言葉は小さくて聞き取れなかったが戒には彼女の意思が伝わった
戒は後押しに最後の言葉を言い放った
これまで胸のうちに秘め、温存してきた戒自身自覚していない本当の感情を言葉に乗せて彼女に送るように
「戻って来いよ!その・・・君が好きなんだ!!」
瞬間、風が吹いた。思わず身構えてしまう戒。
だが、それは『彼』のものと違い穏やかで――――暖かかった
風の中で微かに聞いた彼女の声は「馬鹿・・・」と照れくさそうだった
戒は上空から何かが落ちてくるのを関知した
最初はソレのことを翼を広げて飛ぶ鳥だと認識したが、どうやら違うようだ
鳥だと思っていたシルエットは人間の胴体で、翼に見えた箇所は風に煽られた長い髪の毛だった
それが、誰かだと戒は瞬時に分かったのは彼がよく知る人物であったからに他はない
その少女は既に屋上から顔が見える程度に降下している
よく見た顔である彼女を視界に認めた時、戒は彼女の名前を呼ばずに入られなかった
「宇都宮・・・。」
空に消えた少女が帰還したのだ
戒は降ってきたゆっくりと少女を抱き止めると、以外に重い体に驚き体を持ちなおした
その持ち方が俗に言う『お姫様だっこ』である事に当の本人はまだ気付いていない
少女は意識を失っていたが顔が穏やかだ
赤ん坊のように純粋で安らかな表情、まるで天使みたいだと戒は思った
いや、まるで、ではなくまぎれもない天使なのだ。少なくとも彼にとっては
戒は何か言おうと思った。感情が様々な言葉を喉に閊えさせ、何を言ってもいいのか分からなくなる
しかし、こんな時にはシンプルに纏めた単語一つでも思いが伝えられるのだと悟り、一言だけ心を篭めて口にした
「おかえり」
戒が優しく呟くと、応じるように天音の閉じた眉が寝起きの前のように微かに震えた
目覚めのときにどんな悪態が飛び出すのか分からないが、久しぶりに聞く彼女の生の声が待ち遠しい
春休みなので早速デートの約束を申し込もうか、頭が余計な事を考える前に視界が眩しく光る
天音も輝きに気付いたのかゆっくりと眦を開き、それを見た
空は丁度朝焼けを告げる太陽が昇り始め、命が宿るように影色に染まった街に色彩を加えていく
二人が今まで見た中で最も美しい朝焼け
戒も天音もこの光景をずっと焼き付けていたいと思った。無論、二人一緒に
(そう言えば朝焼けは見たことがなかったな。宇都宮はどうなのか知らないけど・・・)
天音も上り行く朝日に瞳を奪われていた
一心に太陽を見つめる彼女の表情が幼くて昔を思い出させる
もし願いが叶うのならば、ずっと天音とここで夕日を見るのも悪くない。と密かに戒は思った
一日の始まりを告げる赤、橙色のグラデーションを添えた神々しい光は街を染め上げていき
地上に真の理想郷を見出した少女と少年の再会を、天が祝福しているようにも見えなくは無い
そう考えると、戒は悪い気がしなかった
【彼女と空の理想郷・完】
一応はこれで最終話です。貴重な時間を私めの駄文に目を通すのに消費していただき真に有難う御座います
後日談?そんなものは無いですよw考えたことはありますが(ところがギッチョン!)
実を言うと、この作品は前作の反省点を生かして多少怪奇的かつ幻想的なものを秘めた作品にしたかったのですが(活動報告に載せた没最終回はその名残)見積もりの甘さと力量不足から理想としたものが書けませんでした、残念です。
結局は学園要素とボーイミーツーガール的なものをねじ込んでしまったら至って普通の不思議な恋愛ものになってしまいました
もし戒と天音が二十代前半に設定されていたら、多分天音は帰ってこなかったでしょうし、戒も彼女が居なくなった数年後にに自殺していたと思います
そうならなかったのは恐らく若さと持ち前の明るさで戒を導いた、彼の先輩であり、もう一人のヒロインでもある白石さんのお陰ですね
まあ、下手に年食って歪んだり腐ったりしなければ、若いうちに幾らだってやり直せるものですよ
ですから、学生で退屈な生活を送っている読者さんは自分で自分を追い詰めたりせずに周りの人に頼ったり相談したりしてください
致命的に学生時代がつまらなくても、私のように社会人になってから割りと楽しく生きることも出来ますし(笑)
さて、次回作の方ですが半分くらいのシナリオは出来上がっています
これの主人公は戒より年上で若干恋愛要素も入りますが、彼とは全く立場が違った夢を追う青年の話です(本当はロボット物を書きたかったのは内緒)
一話目は七月上旬頃に投稿出来ると思いますので、気になった方はそこだけでも読んでくださると幸いです
それでは、また新作でお会いしましょう!




