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空に愛された少女

屋上の扉の前に来た戒は、埃が舞う空間に顔を顰めた


相変わらず、あまり居たくないであろう埃の舞った空間は冬の乾季も手伝ってか、尚更のこと臭く汚く見えた

しかしながら、懐かしく感じる感情も胸の内にあった。この場所を訪れるのは数ヶ月ぶりだろうか

だが、此処も校舎新築のために数ヶ月後には取り壊される予定だと康生達から最近聞いた。飛鳥ともっと早く再開して居れば更に早く耳に入ったかもしれない

彼女なら教えてくれるだろうという確信はあった。あの場所を教えたのは飛鳥なのだから



天音と一緒に空を見た屋上が取り壊される。それはすなわち天音や飛鳥との思い出の場が完全に消滅してしまうということだ



扉を開くと金属と金属の錆同士が擦れ合う、ギイという音が耳に残る

それが古くなった校舎自身が壊されることを嘆く、断末魔のうめき声のように聞こえてしまったのは気のせいかもしれない

外に出ると冷えた風が制服の隙間から忍び込んできて寒かった

硬い扉を押し切って向こう側に出ると冷たく、透明な風が戒の頬を撫で付けてきたが空っぽの心の中をすり抜けていくようで辛い


空を見上げる、天音がかつてそうしたことのあるように手をゆっくりと広げ深呼吸する

まるで親しい故人の痕跡を遺族がなぞっているようだと考え、変な気持ちになる。天音の死体は見つかったわけじゃない

彼女は文字通り『消失』したのだ。戒の目の前で風と共に消えてしまった

そして、空っぽの自分がここに残ってしまった。天音の姿と一緒に魂まで持っていかれてしまったかのように・・・

それが彼女を貶めてしまった贖罪であるのなら、何故自分はまだ生きているのか?


(何故、僕はここに来た?)


自問自答するが答えは彼にも分からない、己の声は空しく自らの中で反響するだけであり。返答などは無い

戒は自分の喉が渇いているのに気が付いた。空腹に似た飢餓感を覚え胸のポケットに手を入れるが望むものはそこに無い

煙草は先程、飛鳥に没収されたのを思い出す、買いに行こうかと思ったが未成年に売ってくれる店はまず無いであろう事と康生を探しにいくのに手間がかかるので諦める

この数ヶ月で碌でもない体になってしまった。健康などには気を使わなくなったが早死を気にしてはいない

むしろ逆だといっても良かった。この世界で見苦しくして足掻こうが何も報われない、天音が空に行ったのは正しかったのだろうか?


変わりに胸いっぱい冷えた空気を吸い込むが渇きは癒されなかった

胸にむかつきを覚え苛々する、近くに何かものがあれば叩き壊してやりたいほどに気持ちが高ぶってくる


薬漬けになった体がニコチンを求めているのだろうか?むしゃくしゃして落ち着くことが出来ない

ざわつき、苛立つ気持ちが抑えられず、フェンスを数回蹴ってみるが

金網の壁は小さな凹みを作っただけで大きく形状が変わることなど無い

ふと、屋上中を見渡してみる二メートル半ほどのフェンスは鉄条網など存在せず、よじ登ろうと思えば簡単に出来そうではあった


(いっそ飛び降りてしまおうか?)


暗く澱んだ思考が片隅によぎる、突発的な破壊の欲求が理性を侵食し手に跡が残るのも厭わず細い針金の網を握った

天音もそうしたのだろうか?唐突な考えが浮かび背後を見る。当然ながら何も無い

しかし、その場所は確実に彼女が居た。天音が空を見上げていた場所でもあったのだ


(望むところだ)


戒は覚悟を決め、金網をよじ登る。自分の命に対する執着や理性の警鐘の声などは不思議なことに全く彼を揺るがすことは無かった

彼は本気で飛び降りる気で居たのだ。狂気にも似た後ろめたい衝動が自分の体を支配しようとしている

体中が何かに取り付かれているようだった。こんな世界生きていて何になるというのだ?宇宙にさえ進出できない人間なんて何時かは滅ぶ

ならば今時分が死んだところで大して変わらないのだ。彼は今、狂人のように口元に病んだ笑みを浮かべていた





―――――――――――戒。





頭の中に何か声が響いたような気がした、誰かの気配が唐突に背後に現れ彼の頬に触れる。その感触は冷たい

金網から手を離して右頬を触ってみるとわずかに濡れていた、そして白いものが彼の目の前に降って来る


「雪が・・・」


瞬間、前方から大きな風が彼の体を吹き飛ばした。勢い良く飛んだ戒の体だったが落下の衝撃はほとんど無い

まるで見えない風が意思を持ちクッションとなり彼の体を受け止めてしまったかのように。更にそんな不思議な現象に戒は心当たりがあったのだ


「宇都宮・・・天音?」


呟いた後、それに答えるかのように舞い散る雪が局所的な風によって小さな竜巻を作った。水中を渦巻く白い渦のように

その中に見える人影の正体を教えられるまでも無く戒は承知していた

はっきりと区別が付かないものの断言できる墨を溶かしたような真冬の夜の色合いを見せる腰まで伸ばした黒髪と、やや幼げだが意志の強そうな黒瞳が彼を見ている

それは戒の常識に当てはめて考えてみるとまずありえないことであった。なぜならその少女は彼の目の前から永久に姿を消してしまったのだから

だが戒の予想は当たる、風の中に消えた少女。宇都宮天音が透明な風のベールを纏いつつ姿を見せた


何故?どうして?疑問の思考は問いの形となって戒の口から出掛かったが、それよりも優先的に彼女に聞きたい事があった


「君は、理想郷に行けたのか?」


どうしても尋ねたかった。その言葉とともに彼が今まで溜め込んでいた苛立ちや遣り切れなさが体の底に染み込み消えていく

彼女の安堵を素直に喜ぶと同時に、彼女がただ戻って来た訳ではないと妙な感触を覚えながら


『うん』


天音は柔らかな笑みを浮かべつつも問いを肯定する

その表情が思ったよりも透明で大人びていて自然で・・・以前の冷たい雰囲気を持つ彼女とは考えられないほどに穏やかに見えた

戒はそれを見て天音の幸せを祝う気持ちとともに一抹の予感を感じていた。不安が徐々に燻っていく

それを聞くことは戒にとってひとつの物語が終わることを意味している。尋ねる事は躊躇われ苦々しい表情を作ってしまう


『どうしたの?』


天音が優しく告げる。泣きじゃくるわが子をあやすような慈愛に満ちた母のような呼びかけは、ささくれ立った戒の心を一気に溶かした


「君は・・・戻ってこないのか?」


『ごめん、地上は悲しいことが多すぎたから。でも戒は負けないで、過去に縛られないようにどんな辛いことにでも・・・。』


「自分勝手なこと言うなよ・・僕はそんなに強い人間じゃないんだ。君が来なければ其処で死んでいた」


それを聞くと天音は少しだけ笑顔の中に寂しさを滲ませて答える

戒の中に感情の渦が猛り狂った。だが彼はそれをゆっくりと押さえ込み自分を納得させるように深呼吸した後やや長い時間をかけて言葉を搾り出す


「なら、僕を連れて行ってくれないか?君の居る空に」


『それは彼が許してくれないわ』


今度は天音が困ったような表情になった。それを見て戒は自分の我侭が彼女を困らせていることを知ってしまった

自分は狭量で周りのことを全く見ていない。天音の気持ちを察してやれず彼女を傷つけてばかりだった


それを、理想の場所にいけた彼女が心残りになりそうなことを自分は押し付けるのか?自分は本当に他人のことを思いやれない打算的で、卑怯な人間なのか?

彼女を大切に思うならば、彼女のしたいようにさせてやるのが天音に恋してしまった自分の責任なのだろう。ならば自分の役目は彼女を笑顔で送り出すことだけなのだ

しかし、どうにも感情が納得しない。幼児のように駄々をこねようとする戒に対して天音は困った母親のような顔になった


だが、納得いかない。『彼』という存在そのものに今の戒は天音を奪われたことに対する憎しみをぶつけるしかなかったのだから


「彼って何だ?神様面して空の上から僕たちを笑っている奴の事なのか?

そんなの・・納得できるわけ無いだろッ!」


天音は笑顔を作った。人の機嫌を取るための仮面ではなく愛するものを送り出す為の別れの顔を

彼女は自分の手の届かない存在になってしまった。それが耐えられない、半身を引き裂かれたような苦痛

そう、天音は空そのものである『彼』に免れてここに来たのだから


『戒。』


「何で君は行ってしまうんだ?僕が悪かったのか」


『ごめんなさい』


「謝る必要は無いんだ、頼む・・・戻ってきてくれ」


『戒、やっぱり私は・・・』


「君が居ないと・・・こんな世界なんてっ・・」


言っても聞かない戒に天音の唇がそっと戒のそれに触れる

一瞬だけのキス。彼女の唇から冷たい感触が伝わってくる

だが、それでも戒は彼女から目に見えない暖かいものが自分の中に流れ込んでくるのを感じた。それはきっと二人の絆の証なのだろう

しかしそれは明確な別れの合図を指しているように思えてならない


『さようなら、戒。』


「待ってくれよ宇都宮!僕を・・・置いて行かないで!」


天音の風が彼女を包み、緩やかに勢いを増していく

それは突風に近い勢いで周囲の空間を巻き込んだ竜巻となって白い雪が舞い上がる

戒は目を開けてられなくなったがそれでも彼女の名前を呼んだ。地上に引き止めるように


しかし、局所的な嵐が過ぎ去ったあとには、天音の姿はもうどこにも無く静かに白い雪が舞うだけだった


「何で・・・何でだよぉ・・。」


無力感に叩きのめされた戒の目尻から熱いものが零れ落ちる。それは彼が幼少期から忘れていた涙だった

膝を崩し、祈るように、神に縋る様に天を見上げる戒

だが、無常にも空は雪を降らすばかりで何も起きない。とうとう数ヶ月の間抑えていた感情が決壊し

戒は天に向かって吼える様に泣いた


本来ならばこの話で終わる予定でした


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