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差し伸べられた手

あれから、一ヶ月経つ


天音が消えてから、戒は一週間の間学校に出てこなかった

しかし次の週には何事も無く登校しており、クラスメイトの視点からすると表面上は立ち直っているようにも見え無くはなかったのだ


何故、平静すぎる日常に戻れたのか分からない。もしかすると自分にとって天音はそれほど大切な存在ではなかったというのか?

確かに彼は最初は気分的にも大きく落ち込み何も手がつかなかった。しかし、今では多少変わったが平穏を装っているつもりではある


むしろ、前よりも人の気持ちが分からなくなった。あの後から世界が作り物の虚構で構成されているような気がしてならない

そうなったのはやはりあの少女である天音を救えなかったからだと戒は分かっていた


そうしている間にも無常な事に時は過ぎ、そろそろ冬の季節に差し掛かりつつあった





戒は最近そうしているように両手をズボンのポケットに突っ込みながら教室へ向かった

途中で教師の一人に呼び止められ、注意されたもののさほど気にしてなどはいない

むしろ今となっては、教師たちの職務に忠実な姿が滑稽で可笑しくも思える。規則を守るというのが馬鹿らしくてたまらない

人は目に見えない、罰せられない場所ではむしろ決まり事を破る傾向が多いというのに


ふと、頬に冷たい感触を感じる。指で触れるとそれは細かく砕けた氷のようであり

周囲を見渡すと紙ふぶきに似た白い小さいものが、ぽつぽつと穏やかに降ってきている


「雪が降っている・・・。」


徐々に強くなる白い粉雪が舞う中、戒は呟くのだった


以前よりも独り言が多くなってしまった自覚はある。それがストレスからくるものだろうとは承知している

胸ポケットに手を伸ばすが流石に生徒たちの目が多い。グラウンドには白い息を吐き、突然の雪にはしゃぎ回る生徒たちが視界の端に映った


タバコに手を出すようになったのは学校に戻ってきてからだ。戒は康生に頼んで彼らの吸っている物を分けてもらい

それから自分でさまざまな手段を使って手に入れるようになった

康生達とよりを戻したのは、戒が一応の『詫び』を受け入れることによって解決した


喫煙という行為をすること。それに特に理由も無い。気持ちいいからとか、健康がどうとか、進路に関わるとかといった考え方は戒の頭の中からすでに吹き飛んでいた


何でもいいから楽になりたい。それこそが動機らしい理由と呼べるのかもしれない






「よう、戒」


「ああ」


教室に入ると康生が声をかけてくるのに短く返し戒は通り過ぎる。今は彼みたいな人間とあまり関わりたくなかった

彼と復縁したのは体育館の裏で煙草を吸っている康生達に声をかけたからである。気を紛らせたい気持ちからの行動だったが

本心ではあのときの再戦でも試したかったのかもしれない

康生の仲間は戒がグループに復帰するのに難色を示したが、当の康生は以外にも受け入れ仲直りの印の『侘び』として戒に万引きを手伝うように求めた

戒はそれに応じて法を侵し、再び仲間として受け入れられるようになった


今では戒も彼等と同じように不良生徒と認識されているようだ


「つれないな、お前も」


「今日はあまり話したくないんだ」


「ああ、そうかい。ほらよ」


康生が白い箱を取り出して戒に投げて寄越した、戒は軽く片手でキャッチすると財布から五百円硬貨を取り出し彼のほうへ放った


「しかし、お前も変わったよな。前はもっと根暗の真面目君だったんだがどうしてこうなったのか?

まあ良かったな、あのままだとお前は人生かなり損してたぜ」


「そうか?俺は変わってないぞ」


五百円玉を取り落としそうになりつつも財布におさめた康生がニヤニヤしながら言った

その顔が昔はあまり好きではなかったが今となってはどうでもいい


「もしかして宇都宮が居なくなったのと関係があるんじゃないのか?もしかして何かやったんじゃないんんだろうな」


戒はそれを無視した。答えたくなかったし康生のような人間に話す義理も無かったからだ

傷口を抉られ、一瞬マグマのような怒りが噴出しそうになるが歯を食いしばるだけに留まった

くだらない奴にわざわざ本気になる必要もない。今となっては面倒事など御免だった


「関係ないな」


「そうか、お前も意外とタフだなぁ」


「・・・。」


康生はからかうように笑ったが戒は無視した。まるで挑発しているかのようだった

そうしていつものように下らないやり取りの応酬に応じて居ると、あっという間に始業のチャイムが鳴る


「おい、戒。いつもの場所でな」


戒は無言だった。今日は早く帰って自室で寝ていたい

こうも放課後まで律儀に授業を受けている自分が馬鹿らしく思えてくる。これではあの教師たちとまるで変わらない


(笹山やこいつらのように簡単に物事を決められたら楽なんだろうな)


去ってゆく康生に軽蔑の眼差しを送り、戒も自分の場所へ戻った







放課後、康息たちと遊びの段取りを済ませた後に彼はある場所に向かおうとした

今の自分がひどくつまらなく下らない事を押しているのかは自覚しているが、そこから抜け出そうとは思わない

成績は見る見るうちに下がり、戒は元優等生の不良というレッテルを普通に過ごすクラスメイト達に張り付けられている

それを払拭しようとは思わない。今の自分は生きている化石なのだ、化石が何をしようが他人の知ったことではない



「戒君」



聞き覚えのある声、独特の優しさが篭もった鈴のような声音を戒が耳にしたのはずいぶんと前だったような気がしてならない

その言葉で心が癒されそうになる。しばらく聞いていない彼女の声だ


「・・・飛鳥先輩」


戒は搾り出すように返事をした。彼女がとても輝いて見える、汚らわしく堕ちていく自分とは徹底的に違うように

無視しようと思った。しかし彼女の姿を認めた途端、押し込められた感情があふれ出して縋りたい気持ちになってしまう


「良かったら部室に来ない?あまり時間は取らせないから」


「先輩、俺は・・・」


戒は言葉に詰まるしかなかった。今の惨めな自分を彼女に見せたくも無かったし

先輩として数少ない友人であり、心を許せる飛鳥に迷惑をかけたくなかったのだ。だから彼はその場から何も言わずに去ろうとするが彼女の手が戒のそれを掴んだ


「少しだからお願い、来て」


戒はその手を反射的に振りほどこうとする。自分のようなけがわらしい落ちるだけの存在に希望と未来に満ちた彼女が触れてしまうのはおこがましいように思えたからだ

しかし伊達に元運動部なだけあり、意外と彼女の力は強かった。まだるっこしくなり、更に強い力で振りほどこうとする戒だったがふと飛鳥の瞳が視界に入った


(泣いている、のか?)


天音の最後の顔が脳裏にちらつく。自分のせいでこの世界から消失してしまった少女

彼はとりあえずそれ以上口答えする気は起きず、素直に従った







部室に着いた。戒の知っている文芸部の部屋とさほど様子が変わっていない

確実に変化することといえば飛鳥は来年からこの部室に足を運ぶことがなくなるということだけだった

そう思うとわずかながら辛辣な気持ちが滲み出てしまう、戒の頼れる人間はこの学校から居なくなってしまうのだ

そんな気持ちをふき取るかのように戒は当たり障りの無い話題を振っていた


「先輩はどこの大学受けるんですか?」


「とりあえず国立の推薦を受けることにしたよ。家から近い駅で十五分位のところ、偏差値は六十真ん中くらいかな?

もしかしたら落ちるかもしれないけど・・・」


飛鳥はその大学の名前を言った。戒も知っているそれなりに有名で全国的な知名度も在る名門校だ


「そうですか、都内の国立大学・・・凄いですね」


戒は素直に祝福の意を告げた。とにかく飛鳥が再び競技場の上で走る事を望み、夢に向かって前進するならば喜ぶべきことでもある

未だに天音の失踪に捉われている自分と違って彼女には自立した強さがあるのだから


「戒君はどうするの?そろそろ行く大学の目星を付けたり、就職の段取りを整えないと」


彼は言葉が詰まった。それは今の戒にとっていずれ来るであろう未来への壁でありいずれ訪れるもの

常人ならば準備を整え身長に計画を練っておくべき未来への道しるべなのだ


「まあ、ぼちぼちやってますよ」


戒は飛鳥にやや卑屈の色が垣間見える笑みを浮かべていった、以前の彼ならばしなかった偽りのための笑い。己を偽るだけの簡単な処世術

それに笑い返さず飛鳥は眉をひそめた。彼女には今の戒が自分の将来などまるで頭に無いことが分かりきっていたのかもしれない

表情を変えた彼女を見て、不味いと思ったのか戒は笑いを引っ込め無表情になってしまう


両者ともそこで会話が途切れてしまい、君の悪い沈黙が空間を埋めた


ふと、飛鳥の視線が戒の制服の胸ポケットを凝視する

不味いと思って反射的に隠すように手で抑えようとした戒だったが、彼女の手のほうが素早く彼のポケットに収まった白い箱を抜き取っていた


「君・・・これ、煙草。」


「・・・。」


煙草の外箱を取られた戒が、ばつが悪そうに視線を話す。飛鳥よりやや背の高い彼だったが猫背気味に彼女のほうを向かない彼はまるで親に叱られる寸前の子供のように小さく見えた

責められるのは仕方の無いことだが、今の腐った自分を彼女に見られたくなかった


「すみません・・・今はそれがあったほうが楽なんです」


飛鳥はその言葉に怒ったようだった


「未成年とか、そういうのじゃなくて煙草なんかに頼った生き方ばかりしてると君も何時か駄目になるよ!」


暗くは無いが、基本的に大人しい気質の飛鳥にしては大きく声を張り上げて戒の言い訳を制する彼女

その辛辣な言葉が彼の耳に入って容赦なく心臓を突き刺しているようだった。全く彼女の言うとおりだ、今の自分は駄目な生き方をしている

まっすぐな生き方をしている彼女の言葉が耳に痛い、しかし自分には這い上がる勇気さえ沸いて来ないのだ


「先輩、ごめんなさい。僕は駄目な人間です・・・だから飛鳥先輩だけは夢を追い続けてください、自分のような人一人救えない屑にならないように」


「戒君!」


戒は一気に告げると飛鳥の静止の声も聞かずに入り口まで歩き、そして廊下に走っていった

まるで彼女の言葉を拒否するように、自分の殻に閉じこもるように・・・戒は逃げてしまっていた


「戒君・・・。」


後輩が一気に走り去っていくのを見て飛鳥も追いかけようとしたができなかった

さっきの言葉を言ったとき、彼の目は深い葛藤と悲しみに覆われていた。飛鳥にはそれが自分でどうにかなるものではないと一瞬で悟ってしまった

彼はもう自分の手の届かない世界に走り去ってしまった。恐らく、もう彼女の目の前にも姿を現さないかもしれない

自分と飛鳥が悲しみを共有してしまわないように、自分だけが罪を背負って行く

表面上の彼しか知らない飛鳥はそれ以上干渉することを躊躇ってしまったのだ。彼女は自分の無力さを実感しそこにしばらく立ち尽くしていた


(もう、私にはとても・・・)


飛鳥は泣きそうになった。無力な自分を呪いそうになる

何故人はここまで不便なのだろう、多大に思いを共有できないのか?共有したとしても互いの価値観から生ずる齟齬をどうするのは難しいことなのかもしれない

自分が会を責めずに優しく接していれば彼もああはならなかったのかも知れない


『あの子とはあまり関わらないほうがいいと思うの。』


あれは嫉妬から出た彼女自身の醜い心の内だった

ファミレスで戒に宇都宮のことを忠告したのは彼女がとある日陸上部の後輩と話しこんでしまって図書室に忘れ物を取りに行った時、戒とすれ違ったのだ

屋上へ向かう会の事を付けて行く飛鳥。自分が紹介した場所に彼が一人で行くのだろうと考えちょっとした悪戯心が芽生えた

彼を後ろから驚かしてやろうと思った。初対面のときの戒ならともかく今の彼なら笑って許してくれるだろうと思っての行動だ


しかし、屋上にはすでに先客が居た。自分よりもっと綺麗で長い黒髪の少女が戒と共に空を見上げていたのは鮮烈に焼きついていることだけは覚えている


今となっては、何故自分がそんなことを思いついたのか分からない。今にしてみれば運命が招きよせた彼女の不幸だったのかもしれない

そこから先は覚えていない。家に帰った後自然と涙が頬を伝っていったのと、一年前に怪我をしたときと同じようなどす黒く醜い感情が自分を支配していたのは覚えている


涙がとうとう零れ落ちる、今の戒自身も自分のことで精一杯なのに。自分が追い込んでしまったのも同然だ

更に彼女が居なくなったと聞いて、心の片隅で自分が喜んでいたのを今でも覚えている


(私じゃ、戒君に謝ることも出来ないよね・・・。)


自分がとても醜く汚い人間であると自覚してしまうと目頭が熱くなり、いたたまれない気持ちになる

今の自分には無く資格さえない。彼を励ます資格さえも自分には無いのだから


視界の端に映る、白いものが彼女の端に映った

最初はごみかと思い、ハンカチで涙をぬぐった後に窓の外にいくつか舞うそれを確かめて目を丸くした

窓を開けると冷気が吹き込んでくる。部屋に舞った白いそれは触れるとたちまちの内に溶け、飛鳥はそれの正体を知った


(雪・・?なんで?まだ十一月に入ったばかりだというのに)


その雪の意味が飛鳥には分からない

ただ、その空が自分の変わりに泣いてくれている様な気がして少しは胸の内が軽くなったような感覚を彼女は覚えた

そして、戒の心がいつかは救われる日が来ればいいと彼女は念じた


「宇都宮さん。あなたが彼を心配に思っているなら・・・戻って来て。」


天音と戒が立ち寄っていた屋上の方向を見上げながら飛鳥は願った

虫が良すぎるのは自覚している、それでも戒を救えるのは彼女しか居ないと飛鳥は確信している。自分で戒を泥沼から引き出すことは出来ないと思った

彼は純粋で傷つきやすい。今の状況は戒が自分に罰を与えているように思えてならないのだ


雪はだんだん強くなり小雨のように小さかった白い氷粒も、少しすると飛鳥の小指程度の大きさのものになっていく

窓側からそれを眺めなつつ、飛鳥は戒の事を想っていた

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