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空へ・・・(3)

小さいときから私は空が大好きだった

だからこそ空の向こうにいきたいと考えていたし、宇宙飛行士を目指してそれなりに努力は怠らなかった

私にとって勉強を頑張るのはさほど苦では無い。友達も少なく何よりも両親がそれを望んでいたというのも要因だろうが

その殆どのパーセンテージを占めていたのは私の地力と記憶力のお蔭だと断言する


だからなのだろう、あんなことまで覚えていたのは

他愛も無い男の子との約束なんて昔のことなど・・・なんて少女チックなのだろうと自虐してはいたが


私も始めは大真面目に取り繕っていたが、約束を果たされずに時間が経ち様々な事を知る内に

世の中はそこまで価値の有るものでは無いのではないか?との疑念が渦巻くようになった

市立図書館の蔵書をほぼ読みつくし、同年代の人間より知識や勉学、外見に優れていた私は学ぶことや人間関係に飽きを覚えてしまう


この世の殆どの人間がつまらない道楽に身をやつし、快楽を求める様は私からすれば醜く浅はかなものにしか見えなかった

結局、万物の霊長類を気取っていても、大多数の哺乳類ヒト科は他の動物と同じなのだ。

自己中心的で、その場限りの生き方ばかり一生懸命なつまらない連中ばかりが私の視界に写ってばかり

残念なことに両親もそのテンプレーションに当てはまっていた。それを知った時、私は全てが馬鹿らしくなってしまい

その辺りからだろうか?世の中に対する諦めのようなものが付き、物事を俯瞰的かつ冷静に見るようになったのは


そして何時からだろうか?空ばかり眺めるようになったのは

頭上に蒼く広がる無限で開放的な空間は、私にとって未知の理想郷に見えたのだろうか

無数に形を変える雲と水色の蒼穹の無限空間が織り成す空模様はバリエーションに富んでいて私を飽きさせなかったのかもしれない

あの男の子の言葉もあったのだと思う、私はその時から神の住む空の国に生きたいと願うようになった


もしかしたら空の声が微かに聞こえるようになったのはその頃だったのかもしれない

私を呼ぶ誰かからの声を私は空の神のものだと信じて疑わなくなっていった


そのころの私にとって宇宙とは放射線や紫外線に溢れた暗闇に覆われた死の空間としか認識しなくなってしまう

科学によって明らかになっていった宇宙は既に私にとって未知の理想郷では無くなっていた

そう考えていた折に彼と再会したのは、幸運だったのか不運だったのか分からない

彼の目はかつての輝きを失い、凍りついたような視線で世の中の出来事を俯瞰しているように映った


その時はつまらない奴だと思っていた。しかし、彼が初めて私を屋上に連れて行ってくれたときに自分の考えが間違っていたのだと悟ってしまう

彼はある意味では変わっていなかったと言えたのかもしれない。少なくとも私と二人でいるときはそうだった

しかし、彼は否定してしまった。私の望み―――空に行きたいという理想さえも踏みにじられた後は

私の居場所は空にしかなくなってしまった



だから、私が居る筈だった場所はもう―――――

戒は天音の態度が気に食わなかった

彼女の為を思って空への執着を諦めろと言っているつもりだ、しかし彼女はそれを捨てようともせず冷たく心を閉ざしている

自分は出来る限り彼女の為に行動してきたつもりだった。その苦労を彼女は知ろうともせずにただ、自分の殻に引きこもっているようだ

そのことが実に腹立たしく思え、戒の怒りの炎に油が注ぎ込まれていく。告げるように静かだった言葉は徐々に荒くなってしまう

それが彼から平静さを失わせ、天音の表情の変化にも気付けなかったのはある意味では仕方の無いことだったのかもしれない


「空ばかり見て、何になるって言うんだ!」


自分の口から出てしまった大声に内心驚いた戒だが、さらに彼を驚愕させたのは自身に集中する周りの不機嫌の入り混じった視線でも

胸のうちに湧き上がってくる天音への怒りでもなかった

言ってから後悔する。さっきまでの自分は醜い嫉妬心に支配されていたのだと

急速に胸の内が冷えていく、自分が勘違いからとんでもない間抜けを侵してしまったのだと


「あんたなんて信じた私が馬鹿だった」


目の前には、信じていたものを否定され瞳を潤ませた天音の顔。

涙に濡れた顔がよりいっそう幼く見せ、彼女を小さく見せていた

しまった、と後悔するが彼が止める間も無く天音は走り出していった


「宇都宮ッ!」


戒を突き飛ばし、人並みを強引に横切って駆ける天音。その向こう側には展望台の外へ向かう非常口への階段がある場所

言うまでも無いが、そこは通常ならば一般人が立ち入れる場所などでは無い整備業者用の通路だった


(・・・天音!)


戒は彼女の後を追った。

追わなければいけない、直感が警鐘を鳴らしていたからだ

彼女がこのまま消えてしまう、二度と会えなくなるかもしれない

何故か、そう思えてしまう。その理由を考える余裕は今は無かった




風が強く吹き荒れている。この場所が高度な場所にあるせいか風の勢いを殺す遮蔽物が皆無であるために風速が強いのだ


天音はそこに足を踏み入れた。バランスを取るのにも難儀する場所では有るがまったく怖いとは思っていない

なぜなら、そこはガラスで覆われた展望台よりもずっと空に近い場所であるからだ


彼女はフェンスを乗り越えた。戒は焦った、そこから数歩も歩けばその向こうには何も無いからだ

踏み出し続ければ彼女の体は意図もあっけなく投げ出されてしまうに違いなかった


無論。彼女は死んでしまいたいと思っていない、自分に自殺願望なんて存在しない

死ぬわけにはいかなかった。戒に拒絶され、突き放された今の自分には空しか受け入れてくれる場所が無かったからだ


(もっと近く・・・空へ)


それでも天音は進むことをやめなかった。まるでその向こう側にも彼女の体を受け止めてくれるものがあると頑なに信じているかのように

全く死を恐れない呪いをかけられてしまったかのように、天空に続く理想郷への見えない階段へと向かうように


足が止まる。


その先を踏み出すことは彼女はしなかった。それ以上進めば天音の体は重力に引かれ地面に落下してしまう

そして、彼女はそれが課せられた天啓であるかのように空を見上げた



透き通るような蒼。所々に浮かぶ雲は大海にいくつも浮かぶ白い島の様にも見えた



天音はゆっくりと両手を広げた。まるで白鳥が巨翼を伸ばすかのように

人間の十字架にも見えるそれは、まるで彼女が生贄に捧げられる古代の巫女のようにも見える

あえて例えるならばその神とは無論の事、天に潜む理想郷の主に対してなのかもしれない



これまで生きてきていいことなんて何も無かった。自分の悩みを仕事の都合で家に帰ってくることが少ない両親にさえも相談することが出来なかった

そして転校に次ぐ転向の繰り返し、友達が出来ても直に離れ離れになってしまう為に彼女の友人は本と空だけになった



空だけがいつも自分を見ていてくれる。温かみの混じった陽光を日が昇る間ずっと与えてくれる

過去を振り返っていると、背後から険の篭もった声がかけられた



「宇都宮・・・止めるんだ!」



それは風が運んでくる足音とともに走ってきた戒が、天音を諌める声だった

天音は声に反応するかのようにゆっくりと振り向いて戒の方に向き直った。少女らしい細い体が風に吹かれる案山子のように揺れており非常に危なっかしい

無感動であまり感情を表にしない戒が始めて慌てている様に見え意外であり。そんな彼の姿を見るのはある意味愉快だった

同時に、罪悪感のようなものが心の端にこびり付いている。真摯な戒の顔が昔の『彼』のものと重なって見えた


「今更、何をしに来たの?」


「話を聞いている余裕が無い。そこから離れるんだ、早くこっちへ」


戒は必死で呼びかけるが風の音が強く、まともに声が出せない

そんな彼の様子を知ってか、天音の唇が言葉を紡いだ


「私、ほんの一時期だけど親に虐待されてた時期があるのよ」


「・・・何?」


「初めて他人に話す事だけど、成績が少し落ちただけで毎日ぶたれたわ。一番に戻るまでそれは続いたの

でも、今思えばあれは躾の一環だったのかもしれない。親に聞いてみる機会なんてもうないでしょうけど」


戒より声が小さいのに、天音の言葉ははっきりと彼の耳の中に入ってくる。その衝撃的な告白に戒の思考は停止しかけた

その言葉で、何かの合点が言った。ちりばめられた疑問のパズルがゆっくりと噛み合って一つの解を作る

何故判ってやれなかったのか?後悔が彼の胸の中に押し寄せてくる。自分は天音の事を何一つ解っていなかったのだ

だが、彼は言葉を発した。沈黙が自分の心を壊してしまうかもしれない、追う思った上での悪足掻きだった


「世の中なんてつまらないことばかり。真剣に生きていくのが馬鹿らしくなってこない?」


「それが、空に行きたい理由なのか」


「それだけじゃない。年を経る毎に私の周囲は純粋さを失ってだんだん醜くなっているように見えたの。そして、自分さえも変わっていくのを感じた

でも、空だけはずっと変わらない。永久に美しい不変の理想郷・・・私はそこに行きたいと思った」


擦れた様な声しか絞り出せなかった。それなのに天音ははっきりと問いが聞こえていたかのように反応を返す

それは始めて戒が見る純粋な彼女の笑みだった。ひどく優しげで儚い印象を抱かせる笑顔、そしてどこか歪さを感じさせる

無言の中に彼女の気持ちが伝わってくる。今更ながらに天音を理解した戒は最後の問いを搾り出した


「僕もそう考えるときがある。でも、それは逃げる人間の考えじゃないのか?」


「・・・そうかもしれないわね」


質問は天音を冷静にさせるための賭けに等しい言葉をかけた。天音はそこまで馬鹿じゃない、愚かな自分のせいにしてくれればいい

時間を稼げば彼女も分かってくれる筈だ、戒はそう思い込みたかった

しかし、戒の思惑を易々と見抜いたかのように天音の視線が鋭利さを増す


「茶番を続けるつもりなら・・・飛び降りてもいいのよ?」


同時に戒の顔から血の気が引いた。天音は愉快さに唇を歪めると同時に心が痛む感覚を覚えた

やはり、自分はここに居てはいけないのだ。戒を怒らせてしまったのも自分がうまく感情を表せなかったせいだ

地上に自分の居場所などは無い。自分は悪い人間なのだ


「ま、待ってくれ!」


策が見破られてあからさまに狼狽する戒に天音が牽制の言葉を浴びせる

弱気を悟られないように声を荒げて彼女を戒めようとする考えは遂に失敗に終わる。天音のほうが戒より何倍も上手だった

彼女を説得するなど今の彼には出来ない。すっかり自信を無くした自分の言葉はもう彼女に届かないのであろうか?

風は徐々に強さを増している、塔の軋みを戒も感じており状況は悪くなる一方だ

今はまだ平気そうに見えるが天音がいつ落下してもおかしくはない状況


(焦るな・・・焦るな。冷静になれ)


どのようにして彼女を説得できるか考える戒だが、焦りと不安の重圧により思考が混乱し何をしていいか判らなくなってしまう

天音は狼狽する戒を冷めた様な眼差しで見つめて言った


「あんた。自分が恵まれていることも知らないのね」


「・・それがどうしたって言うんだ?」


突然の問いかけに、反射的な答えを返してしまう戒

そしてその返事を聞いた天音の声が険しさを増して彼を糾弾する


「私なんか、今まで生きてきて殆ど良い事なんて無かった。でも良いの、もうすぐ迎えに来てくれる」


彼女が戒と会って屋上に行くようになってから、その気配は感じられた

それが誰なのかわからない。自分の解釈では人知を超えた理想郷の主なのかもしれないと結論を終えている

いつかはそれが自分を迎えに来てくれると確信していた。自分が空に向かうことは退屈な地上に別れを告げるのと同義だった


「迎え・・・?」


戒の疑問に答える代わりに天音は指を刺す。天に向かって



「風が・・・」



突如、風が大きく吹き渡った。気を抜けば体ごと押し流されてしまいそうな強烈な風圧に戒は顔を庇いつつかがみこんだ

天音が空を指した直後に起きた不可解な現象、戒はそれが彼女の意思で引き起こされたものであると直感的に理解した


その現象は言うなれば非常に局地的な小さな台風だった。立っていると確実にバランスを崩すほどの暴風が限定的に発生している

明らかに異常な現象である。空はここまで晴れているのに台風の兆候を示すものなど何も見当たらない


そして、強風から顔面を守るように掲げた指の隙間の間から戒は驚くべきものを目撃してしまった



(嘘・・・だろ?)



天音はこの暴風の中をまったく平気なように立っているのだ

そして彼女の長い髪は風に揺られて軽く舞うだけで暴風の勢いに晒されているようにはまるで見えないのだ

気象現象の法則を無視して強引に仮定するならば、彼女自身がこの『台風』の目に居るということになる


そして、戒は再び見た


(何で、笑っているのに涙を流しているんだ?)


率直な疑問。それを口にすることによって天音を引きとめようとしたが遅いようだった

風の渦は勢いを増し、戒は立っているのも辛くなった。恐らく、大声を張り上げても彼女には届かないだろう

自分が何も出来ない事を悟り絶望の篭もった視線を天音に向けると、彼女の可憐な唇が言葉を紡いだ。なぜかその意味が分かった



「さようなら。そして・・・」



最後の言葉は突風にかき消されて聞こえない。自分を恨んでくれていい、戒には幸せになって欲しかったから

どうして素直になれなかったのだろうと、いまさらながらに思う。地上から離れるとき初めて彼の事が愛おしく思えた

誤魔化しの硬い殻で覆われていた心が、最後になってようやく開放されたことが嬉しくもあり悲しくもあった


天音は強風の中で戒に向かって微笑んでいた。それが戒が見た最初で最後の彼女の笑顔

風が一段と強くなり、天音の姿が透明な風の膜のようなもので覆われかき消されていく





「天音ッ!!」





風が止み戒が目を開けたとき、そこに天音の姿は無かった

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