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茜色の誓い

慣れた道のりといっても、今の戒にとっては足取りは驚くほどに重い

まるで鉛が足裏に張り付いているようだ


それでも、今は歩くことを体に命じる。今はそれしか出来ない

確かな足取りを伴って一歩ずつ確実に足を進める、その重みこそが自分への罰だと言い聞かせながら

萎えそうになる性根を飛鳥からの言葉を噛み締めるように想起させ、心に鞭を打つ

優しくされると自分はそれに甘えてしまうかもしれない。突き放すことによって彼女はある意味、自分を励ましてくれたのだと思いたかった

きっかけは何でもよかった。今ここで止まれば、自分は永遠に負け犬と化すだろう

そうなれば、全てが無駄になってしまう


だが、不安もあった。彼の心の暗い部分が甘い囁きを寄越してくる

天音が屋上に居るとは限らないと自分の中の冷め切った部分が呟く

戒があの日以来従ってきた斜に構える気持ちに真っ向から反抗する。あの場所に自分の意思で連れてきたのは自分自身だと

空に近い場所を案内したのは戒そのものであるのだと言い聞かせるが。あの日以来、天音がどうしても幼い日に別れた少女と重なってしまう

だが、戒本人が天音を裏切ってしまった以上、彼女にとってもそこが既に居る意味など無いとしたら?


それでも、気持ちを伝えたかった。謝った後に自分の言葉で


頭の中で警鐘を鳴らす弱い自分の声を押さえ込みながら、戒は屋上への階段を駆け上がっていった



外へ出るドアを開けると隙間から冷えた空気が入り込んでくる

屋上には、かすかに冬の匂いが混じった冷たい風が吹きつけていた。思えば彼女と再会したのは四月の中頃

遮蔽物のない場所なので、どうしても風を遮断するものがなくそのまま吹き抜けてしまうために温度が低いのだ


寒さに震えながら確認する。フェンスの向こうに見えるセーラー服の後姿が腰まで伸ばした艶やかな黒髪を風に遊ばせていた

やはり、似ていると思った。遠き日の記憶にあった『彼女』に生き写しだった


宇都宮天音は、いつもそうしているようにそこに居た

戒はためらいがちに口を開いた


「宇都宮さん」


天音の姿を確認して思わず声が漏れた。彼の知る限りこの場所を訪れる女子生徒は彼女一人しか居ない

彼女が戒の目の前で背中を晒している。戒は忍び寄るように天音の近くに寄った

唐突に彼女が背後を振り向いた。先ほどの声が聞こえていたかどうかは分からない、天音が戒のほうに顔を向ける

二人の視線が重なった


「あ・・・」


それしか言葉が出ない。なぜなら戒に視線を向ける天音の瞳は、外の冷たい風そのもののように冷え切った眼差しでこちらを見ていたのだ

削り出した氷の刃の鋭さと冷たさを秘めた視線に、戒はすっかり圧倒されてしまう

戒は何か彼女に言おうとした。いつも屋上で交わして無視されているような軽口じみた挨拶が喉元まで競りあがるが声にはならない

無機質がかった視線の中にある無感動な瞳は、まるでよく出来た精巧な人形であると勘違いさせてしまう程である

迫力を秘める冬の星空を宿したような瞳。それはとても冷たい物のように思えてならない


そして、戒はその瞳に見覚えがある


(そうだ、あれは確か笹山が宇都宮に何かしようとしたときの・・・)


あの時、笹山によって教室から連れ出されかけていた天音はこんな風に冷たい視線で彼を蔑んだのかもしれない

それを受けて激怒した笹山は彼女を何処かしらへ連れて行こうとした。公にされては居ない噂レベルだったが彼は以前指導した女子生徒について似たようなトラブルがあったと言われる

笹山本人には悪いが、強引に生徒に指導を与える悪徳教師という構図が何かしら犯罪を連想させるものであり、天音は彼を挑発するだろうとの予想は着く。現場に戒は最初から居合わせては居ないが想像の範疇だった

見かねた戒は携帯の写真で現場を収める事でその場を脱したのだ

あの時の事はよく分からない。今同じような状況に陥ったら、自分はまた彼女を救えるだろうか?


(そして僕は宇都宮に笹山と同じように見られている)


それでも戒は天音に言うことがあった、例え蔑む対象に成り下がっていたとしても。彼女に謝らなければならない。自分の愚かな行いを清算するためにも

その為には彼女に落とし前を付ける必要があった。責任を果たせないような人間に人と向き合う資格は無い


だが、なかなか言葉が口から出てこない。自分の中の臆病な箇所が戒に言葉を出させるのも躊躇させているかのようだった

戒はさらに抵抗する自分の中の弱気をねじ伏せて天音のそばへとさらに近づいていく


彼女が灰色の眼差しで戒を見やった。二人の視線が重なり合う

網越しに二人の距離は一メートルと離れていない。風に頼らなくても互いの匂いが分かるほどの至近

視線が合っていても天音はどこか別の場所ばかり見ているような気がしてならない


「あの、宇都宮さん」


再度彼女の名前を呼ぶ。たったそれだけ搾り出しては見たが後の言葉が続かない、外の乾季のせいか口の中がカラカラになっている

この場所に天音以外の人間は自分ひとりしか居ない。まともに人と向き合ってこなかった戒は謝罪の気持ちを伝えることもままならなかった

天音は無言のままフェンスの向こうへ振り返り、戒の存在を無視したかのように空の向こう側を見上げた


何か強い言葉が必要だった。このまま戒が何も言わなければ永遠に二人の接点はなくなるのではないかと恐れる

その事に対する怯えの反動と決意が、戒に言葉を吐き出させた


「この前の事は謝る。だからそれで済むという訳じゃないけど」


「謝るなんて、人として当然のことでしょ?そんな事も今まで知らなかった訳なの?」


振り向かない後姿から流れてきた澄んだ声。今日はじめて聞いた天音からの言葉。しかし声は冷たく突き放している

秋の肌寒さが彼女からの雰囲気を更に凍りついたものへと昇華させているようだった

心が萎えるまでに喉から声を搾り出す。自分の思いをぶつけるように

彼女の心に宿った氷を溶かす方法はそれしか思いつかない


「償いはする!だから・・・」


「なら、死ねって言われたら死ぬの?」


言葉に詰まる。謝って償うとは啖呵を切ったつもりだったが何をしたらよいのか分からない

ぞっとするような、美しくも怖気の走る笑みを浮かべた天音は氷の女王に見えた

しかし、それに答えないわけにはいかない。そうじゃなければこの場所に来た意味が無くなる


「君が望むのなら」


「・・・馬鹿じゃないの?」


冷たい表情を解き呆れるような声を出す天音、彼女はおそらく本気で言ったのではない

しかし、戒は自分の口から出た言葉に偽りの思いは無かった。

許してもらえる方法が無ければ天音が飛び降りろと言えば戒はそうするつもりだった

今の戒は本気でそうする覚悟があり、追い詰められていた。それを天音が悟ったかどうかは分からない

おそらく、戒を試したのだろう。中途半端な物言いをすれば戒と天音は対等の場所に居られなくなる


そして、一拍置いてから彼女は戒に言った


「なら、もっとよく空の見える場所に連れて行ってよ。私を」


それは奇しくも戒が幼少期に少女に交わした約束を髣髴とさせるものだった

今度は迷わない。少しの間を置いて今度こそ躊躇無く答える


「約束する」


誠意で搾り出した言葉にようやく天音は硬い表情を僅かに解いたようだ

しかしながら本当にこの後どうするか、戒はまだ考えていなかった


「今すぐ連れて行って」


「駄目だ、もう少し待ってくれないか?」


「また私を騙すつもり?」


天音の眉がつり上がり始める。せっかく話せる糸口をつかめたのにこれでは逆効果だ

以外に彼女が短気である事を戒は忘れてしまっていた。自分の言葉を伝えるのに必死でそこまで頭が回らなかった


「違う」


「嘘吐き」


「僕は・・・」


言葉が出ない。そんな場所思いつくはずも無いのにどうして自分は天音なんかにこだわってしまったのか

分からない、まったく分からないがこのままだと何も言えないまま気まずい雰囲気を作ってしまう

言葉を重ねるだけでは誠意は見えないのだ、そこで戒は決意を決めて天音に言った


「今度は、さっきも言ったように今度は命をかける。今週の日曜日に君を空に近い場所へ案内する

そうでなければ僕をどうにでもして構わない。笹山の件も僕に擦り付けてくれ」


天音が少し目を丸くして微かに驚いたのを戒は感じた。他人ならばまず気付かない表情の変化を読んだのだ


「馬鹿じゃないの?私にまであんたなんかの責任を取らせないで

でも、そこまで言うなら・・・約束は守りなさいよ」


「わかった」


空に人間が行ける筈が無い。もしあるとすれば死んで天に召されるときくらいのもの

只の人間の作り出した空想の産物に過ぎない。元より天国と地獄なんて戒は全く信じていなかった

それでも彼が天音に告げたのは彼女に赦して貰いたかっただけだ


彼の葛藤も知らずに天音は再びフェンスの外側に向き直って、空を眺め始めた。

戒はその様子を静かに見守っていくことしか出来ない

結局、この後も二人は言葉を交わす事は無く紅く侵食されていく灰の空にそれぞれの思いを馳せる


互いの願いを夕焼け色に染まった別々のカンバス上に描くように。

だが、二人の心は同じものを見ながら別々の方向を向いていたのだった

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