先輩の涙
放課後、当然の如く康生達からも戒は無視されていた。それどころか一部の生徒からは好奇心や敵意の篭もった視線を向けられるようにも感じる
周りの人間が自分に敵意を持っているような錯覚に陥りそうになってしまう
周囲から拒絶された戒にとって世界とはこんなにも恐ろしく強大である事をいまさらながらに自覚する
個人など、世界は簡単に圧殺できる。経済的に、物理的に、精神的にも・・・
自業自得だと自嘲する。いまさら意外に思うこともない
得に戒は驚きもしなかった。彼等とは反目することが多く軽い衝突のようなものもあったのだ
元々、戒も彼らと関わるのはあまり気が乗らず付き合いもつまらないと考えていたためちょうどよかったと思っていたからであり
所詮、クラスの中で孤立しないが為の策の一つで打算ありきの関係だった訳で元の鞘に収まった訳だ
一人のほうが何かとやりやすいと戒は考えている、だが何故か疑問を覚えずには居られない。
本当にそうなのか?それでいいのかと心の内の自分が問いかけてくる。脳内に浮かび上がる副次的な疑問がクエスチョンマークとなって明滅しているようですっきりしない
複数の生徒が群がりながら談笑していく脇を戒は歩いていく。取るに足らないこと、遊びの話などで盛り上がり時に嬌声を上げる生徒たちの姿は活発そのものだ
だが、一見中よさそうに見える彼らの間にも打算は働いているのかもしれない
笑いながら話し相手をけなしている人間もいるはずなのだ。さっきまでの戒がそうであったかのように
手を組んで歩いてくる男女が戒とすれ違う
戒はそれを見ないようにしながら足を進める。どこへ向かうかは彼自身にもわからないままだった
気がつくと文芸部の部室の前に立っていた
(先輩はもう居るのかな?)
ふと、そんなことを考えてしまう
今の時期なら飛鳥は進学で色々忙しいはずである。一般試験より早く行われるであろう推薦を受けて居るのならば尚更だ
彼女はきっと居ないはずだ。そう信じたいだけではなく、そう思い込みたかった
目の前の戸が、戒にとって非常に遠い場所にあり、手が届かないように思える
しかし、それは目の錯覚であり。扉は確かに手を伸ばせば触れられる距離にあるのにもかかわらず彼はそうしようとはしない
数秒間、固まったように戒はそこに立ち尽くしていたが、すぐに踵を返して反対側の階段に向かう。まるで何かから逃げるかのように
屋上にも行かず、そのまま帰ろうとしたその時だった
「神城君?」
しかし、そんな彼を引き止めるように声がしたのは彼が階段の手すりに手をかけたとき彼の意識をよく知った声が引き止める
思わず反射的に振り返る。あまり大きくはないがはっきりと聞こえる声、彼のよく知る人物が部室の前で戒に視線を送っていた
「先輩、居たんですか・・・僕は用事を思い出したので失礼します」
戒は下手な言い訳で彼女の言葉を封じようとした。今の自分は何を言われても暗い方向にしか受け取れない
迷うようにうつむいた後、再び階段の方に視線を向けるが
「・・・待ってよ。」
白石飛鳥が駆け寄って彼の腕を掴み、まっすぐな視線で戒の顔を覗き込む
戒も彼女の顔を見ると飛鳥は一瞬だけ視線を逸らす、おそらくこの前の件が記憶に新しいからだろう
彼女の方が戒よりもわずかに高い、天音に詰め寄ったときの彼女の小ささをつい思い出してしまう
互いの匂いが分かるほどに近づいた飛鳥の顔に射止められ、戒はそれを振り払うことも無視することも出来ない自分の意志の弱さを憎んだ
それは、天音に拒絶されたあの時の事を思い出したからなのかもしれないと戒は思うのだ
「少しでいいから話さない?」
彼女から次の言葉が出たのはそれから数秒の事だった
「とにかく、座って」
部屋に立ち上るほのかな緑茶の香り。寒さを帯び始めてきた最近はこのような温かい飲み物が欠かせなくなってきているのかもしれない
礼を言って椀を取り一口含む。体中に熱が満ちていくようでその感覚が戒の気持ちを穏やかにした
「・・ありがとうございます」
一応の礼を言って飛鳥からカップを静かにテーブルに置く戒。陶器越しに肌に伝わる熱も、幾分か冷え切ってしまった心をほぐすのに役立ったが
まだ気分は最悪のまま固定されていた。それ以外何も言えないのはこの間のファミレスの件が緒を引いている為だ
何故自分はこんな場所にいるのかが良く分からない、飛鳥とは袂を分けたつもりだった
少なくとも戒自身はそう思い込んでいた
「もしかして悩んでる?」
「さあ、どうでしょうね?むしろ気分はいいと思うんですが」
強がりを言って皮肉げに笑ってみせる。しかしそんな偽りの仮面をも飛鳥は容赦なく剥ぎ取るように言ったのだ
「天音さんの事とか」
図星だった。前置きを置かずに単刀直入に言ってのけた飛鳥の態度がややうっとおしく、それでいて羨ましくもある
きっと彼女は悩みなんてあったとしてもすぐに解決してしまいあまり問題にならないのかもしれない
それが自分の為になるとこの先輩は知っているのだ。だが、彼女の優しさに触れながらも戒の口から言葉は出ない
「もしかして、当たった?」
戒の表情を読み取ったのか、飛鳥が確信したかのように微かに瞳を揺らす
しかし、戒が返事に答えることは無かった
だが、それは彼にとって事実上の肯定だったし飛鳥もそのように受け取ったようだった
戒は無言のまま、手に持ったカップの水面を見下ろした
湯気の立つ椀の中で揺れる自分の顔が見え、辛気臭さを感じずにはいられない。どうしようもないと思った
黙ってしまうのは自分の悪い性だ。しかし、いつまでも藁人形のように黙っているわけにも行かない
それにこれ以上自分で秘密を抱え込むのは嫌だった。神経が参っていた
「あれは・・・」
「え?」
「あれは、僕が悪かったんです」
戒は今日までのいきさつを飛鳥に語っていた。誰でもいい、吐き出してすっきりさせたかった
誰かに悩みを打ち明けたい、楽になりたい。飛鳥の優しさに触れた戒はまるで雪が解けるように悩みを打ち明けていた
誰かにぶちまけて楽になりたい、それが全てだ。教会で懺悔する罪人のそれに近い感情を戒は感じていた
「僕は宇都宮さんにとても許されないことをしてしまったんです。彼女を・・・」
様々な心情を吐き出し、ひっくり返したバケツのようにぶちまけてしまうといっそ清々しい気分になれることを戒は思い知った
天音が空に憧憬に近い思いを抱き、そこへ行きたいと話していたこと。彼女と過ごすうちに天音の中の危うげな部分を見てしまい気になってしまっていること
そして先日の喧嘩の事、そして天音の叫び
飛鳥は神妙に、ひとつも相槌すら打たずにそれでいて真剣な眼差しを戒に向けて彼の話を聞いていた
「まあ、情けないですけどこんなところです」
「そりゃあ、確かに戒君が悪いよ」
「・・・。」
飛鳥は少し強い口調で、母親が悪戯をした子供を嗜めるように言った
「女の子がそうされたら傷つくに決まってるじゃん」
「あの時は僕も何がなんだかわからなかった。彼女を空に取られたくなかった」
「それも、君の勝手な思い込みかもしれないよ?」
彼女はやや表情を険しくして、戒の行動を責めていた。同姓ゆえの同情からかいつも柔和な彼女らしからぬ辛口な言葉が戒に浴びせられる
彼はそれを甘んじて受け入れようとした。そして同時に自らの馬鹿さ加減を呪ってしまいそうになる
いまさら天音にあって詫びるなんて自分に出来るのだろうか?そう考えて楽な結論に思考を進めようとする自分の思考にも嫌悪感が増す
いっそ、今からこの場で消失してしまえたらどんなに良かった事だろうか?
「もう、宇都宮さんに会えないでしょうね。僕が最低の人間ですから」
言い訳のように洩らした自嘲の言葉が戒に歪んだ笑みを浮かばせる
自分には罰が必要だと言い聞かせているような表情に飛鳥は居ても居られなくなる
だからこそ彼に言った
「戒君。君、逃げるつもり?」
「今までだって逃げてきましたよ、今度もそうするつもりです」
己を嘲笑う。しかし飛鳥はそれを肯定せず戒の近くに寄った
飛鳥が立ち上がって右手を振り上げる、その行動が何を意味するのか把握する前に頬に走る鈍い痛み
「戒君。そうやって諦める前に何かすることがあるんじゃないの?」
「何って・・・彼女は」
「天音さんに君がするべきことはまだあるじゃない!少なくても君が何かするまでは仲がよかったんでしょ?」
理性の箍が徐々に外れ、喚き立てる飛鳥の醜態に戒は戸惑いを隠せなくなる
こんなに荒れている彼女の姿は見たことが無い、もしかして曖昧な自分の態度がいけなかったのだろうか?
「でも・・・僕は」
「戒君は天音さんに謝らないといけないんだよ!謝って、彼女に確かめないと」
喚き立てる様に言う先輩の激情に満ちた姿。戒は逆に冷静になってしまう
頬の痛みに連動するように飛鳥の言葉が耳に入ってくる。そして、心なしか彼女の目に光るものが浮かんでいるような錯覚がした
飛鳥はおもむろに戒を椅子から引きずり出して、強引に部屋の外まで連れ出してしまう
意外に強い彼女の腕力に戒は抵抗すらもできなかった
「こんなところに居ないで!早く出て行ってよ!!」
もはやヒステリック気味に飛鳥が喚きながら、戒を外に押し出す
普段のさわやかで飄々としている彼女からは考えられない感情の動きが分かり、戒は自分が逆らえないことを知った
部室から叩き出された戒はしばらく戸の近くにいたがあの様子だと飛鳥が中に入れてくれそうになかったので、そのまま帰る事にした
「戒君、君は本当に人の気持ちが分からないよね、女の子にそんなことを相談するなんて・・・。」
私の気持ちも知らないくせに。そう続くはずだった独白は彼女の胸の中に留まった
吐き出してしまったら自分も挫けてしまいそうな気がしたのだ。そして彼女はようやく自分の感情に気づいた
自分は戒が好きだったのだと、天音と付き合っていると勝手に思い込んで喫茶店であのような事を言ってしまったのだと
それも、元はと言えば自分のせいなのだ。何も思わずただ先輩と後輩の関係を維持していたらこんな感情に囚われず
あのような醜態をさらす事も無かった。あのまま戒が部室に残っていたら自分が何をするかも分からない、だからこそ追い出したのだ
今はただ、感情を制御できない自分が恨めしい
一人残された文芸部の部室の中で飛鳥は顔に手を当て、静かに嗚咽を洩らし始める
彼女が泣いたのは、足の怪我で都大会を諦めた時以来であった




