衝突の時
次の日、意外な事に天音は学校に登校した
このまま不登校児になってしまわないか心配していた戒は彼女の姿に安堵する
だが、天音は戒の姿を認めた瞬間に一度だけ憎悪が混じった苛烈な視線を差し向け、それから無視するかのようにいつもどおり窓の外を見上げている
しかし、戒は何も言うことが出来ない
落ち度は全面的に自分に有るのだし、何しろ自分は天音の心を侮辱してしまった。それは強姦にも等しい許されない行為だ
それが正しいことなのかどうかはわからない、ただ空に心を奪われている天音が危うく感じたのは事実だ
あのままだと彼女が本当に空に消えてしまうような気がして戒は何もわからずあの告白をしてしまった
戒は無言で天音と同じ方向を見る。何の変哲も無い澄み切った群青の天空
人類がそのまなこに写す光景の中で最もありふれた風景であり、表情を変える大空
彼はそれが何かしら表情を持っているように感じてならなかった
人は単体で天空に舞うことは出来ない。霹靂の大空を我が物にせんとそれに挑んだ過去の偉人たちは数知れない
彼等は世間にどれだけはぶられようが罵られようが、自らの意思を貫こうとした夢の賢者たちだ
文明や技術の進歩によって現在の人類が空を飛べることには変わりない。しかし、真の意味で空を征するまでには至っていない
愚かな人間は通り過ぎるだけで、この大空を支配してはいないどころか、移住かどうかも分からない暗黒の宇宙に固執し、
いまだ空に永住の地を見つけておらず、数千年前から続けてきた地を這う生活をいまだに続けている
資源を浪費しつくし、母なる星を汚しながら目の前の豊かさに騙され場当たり的な毎日を過ごし
更には無駄に時間を浪費している
自分を含めて人間は愚かだ、そしてそこから抜け出すことなど出来ないのかもしれないと戒は思った
もしかしたら天音は地上に縛られている人類を哀れに思って理想郷を探しているのかもしれない
それが本当なのかどうか、戒は知らない。彼女だけが天空のアルカディアへの招待状を有しているのかもしれない
人間たちがいまだに到達し切れていない雲の陰に隠れた理想郷へと『彼女』は招待されたかったのかもしれない
仮に空に行けたとしたら、その一部となって今も地上世界を見下ろしているのかもしれない。愚かな戒達、人間を哀れみながら地上を見下ろすのだろうか?
自分は馬鹿で平凡な俗物であると戒は自覚している。だからこそある意味では純粋な彼女の思考が理解できなかった
彼女はある意味自由すぎるのだ、常識の枠にとらわれた考え方をせず意思を貫き通している
そう、だからこそ自分は・・・
「おい、戒」
誰かの声が彼を空想から現実へと呼び戻した
聞き覚えのある声に振り向くとそこには康生が椅子に座った自分を見下ろしている
戒の認める大多数の愚かな人間の一人が
「……」
「何だよ、最近お前なんか愛想悪いつうか、キモいんだよな」
康生が不満そうに声を漏らす、その声にやや険悪そうな響きが混じっているのを戒はかすかに嗅ぎ取ったが知ったことではない
そもそも、あのボーリング場の一軒で彼らとは手を切ったつもりだったが、そう簡単に物事は進んでくれないようだ
康生はまだあの件を引きずっているらしいが戒からすれば単純に迷惑である
無視してくれたほうが後腐れなく済むのだが、何故かどうにも康生本人は彼に絡みたいらしい
「うるさいな、放課後のことならもう」
拒絶の意思を示し、適当に流そうとするが康生に見逃す意思はないようだった
「別に、おめーを誘いに来たわけじゃねえから」
「そうか、僕は課題があるから後でね。無駄な時間を使いたくないから」
なら、何のために話しかけてきたのか?
どうでもいいので、さっさと話を切り上げてしまう
いっそのこと仲間はずれや無視してもらっても構わなかったが、康生自体はそうも行かないようだった
「お前さ、最近宇都宮と会っているようだけど。付き合ってんのか?」
戒はその質問に答えなかった
先日の件は既に謝っているし、それを踏まえた上でも康生の問いはややぶしつけな香りがしたからである
しかし、だからといってむげに知り合いを扱うことも出来ない。だが、既に彼はその域を逸脱している
半端な付き合いは手を切るのも面倒である、不便だと戒は思う。早めに手を切ろうとも
「別に、彼女の落し物を拾ったことがあって少し話しただけだ」
「ふーん、本当にそうなのか?」
康生は瞳に探るような意地の悪い光を宿し、自分より背の高い戒の顔を覗く込むようにして見上げてくる
流石に腹に据えかねて戒は立ち上がり身長の差もあってか位置関係が逆転する。戒が康生を見下ろす形になった
やや引き下がった康生ではあったが瞳から粘つくような視線はまだ戒を捕らえており、眼光は鋭い
「そんなもんさ、これで下らない好奇心は満足したか?」
挑発的な口調で戒が言う、はっきりものを申せてすっきりする
突き放した物言いになってしまったが、他人に好き勝手に詮索されるのは好きではない
それに威嚇の意味もある、舐められない為だ。しかし、それで引き下がる康生ではなかった
「何回も屋上に行っているらしいじゃねえか?結構噂になってるぜ」
考えたことは有るが、彼としてもそこまで頻繁にかかわっていたわけでもないし
他の人間に見られないように注意を払ったつもりだった。しかし秘密はもう漏れている
しらを切ろうか無視してしまおうか、数秒の間悩んだときに天音の姿が目に入った。彼女は相変わらず空を見ている
ひたすらに、手には開いた文庫本を握ってはいたがそのまなざしは天を突き刺すように鋭く、まるで意志の強さを表しているようで
天音のその姿が眩しかった。本心を偽っている自分よりも戒は美しい少女がとても大きく映る
(彼女は偽っていない、自分の心の求めるものを。そして僕はこんな小物に頭を下げていたのか?)
康生は気付かない。戒が静かに怒りを燃やしていることも、彼を見る眼光が柔和な者から敵意に満ちた苛烈なものへと変化していくことを
「あいつ笹山を誘ったって聞いてるし、ひょっとしてお前も案外・・・オイ!!何をするんだ!?」
我慢の限界だった。このような手合いには口で言ってもわからない
腹の内側から熱があふれ出し、それがゆっくりと脳を侵しているかのような錯覚
それが徐々に戒から冷静な思考を奪っていく
「少し黙ってくれないか?」
低くて、威圧する声が自分の声から出たときには、戒は康生の胸倉を掴んで持ち上げていた
「お、おい!戒・・・何をするんだ」
康生が情けない声を漏らす。いつも威張り散らしている知り合いの醜態に嗜虐心が刺激され更に締め上げる様にして持ち上げる
まるで鶏の首を絞めているようだ、と戒は思った。冷酷な支配感が今の彼を完全に取り込んでいた
だが、抵抗が無いわけではない。康生は持ち上げられながら足をもじたばたさせてもがき膝が戒の腹に当たった
鈍痛を覚え、反射的に突き飛ばしてしまう。康生の体が後方の机に当たり倒してしまった
「てめえ・・・。」
起き上がった康生の目には怒りの炎が宿っている。当然だろう、取り巻きの近くで下に見ていた人間に虚仮にされたのだから
揶揄するような、相手を馬鹿にするだけの敵意は消え去り。彼の純粋な敵意が戒に向けられる
「どうした?、来いよ」
戒が挑発するように手招きをする。康生は腰を低く構え拳を顔の前に構えた
目が据わっており完全な喧嘩体勢。どうやら完全に怒らせてしまったらしい
身長では戒に分は有る。しかし、流石に喧嘩慣れしているであろう康生を相手取れるかどうかは不安しかない
どうにでもなれ、半ば自暴自棄な気持ちで戒はそう思った。もう大怪我をしようが退学になろうがどうでも良かった
一触即発。教室の空気が緊張感に包まれる
三十人弱もの視線が戒と康生の周りに集中する、高まるプレッシャー。そして早まる鼓動
いまさらどうにも止める事は出来ない。そして康生が喧嘩に強いのかわからない
先ほどの茶番なんて裏切ったうえでの奇襲のようなものだ、彼が本当に喧嘩するつもりならば自分は病院送りになるかもしれない
緊張が高まっていき爆発寸前にまで膨れ上がる。やる気満々の康生、静かに彼を見る戒
すぐにでも、殴り合いの乱闘を始める。誰もが予感し、幾人かの生徒が一歩引いたそのときだった
女子の甲高い叫びが教室を揺るがしたのは
「止めてぇぇぇっ!!」
それは天音の叫び声だと一瞬で戒には分かった
彼女の声が理性を引き戻し、沸騰した意識が冷却され、戒は腕の力を抜いたしまう
近くで獣のような呼吸音が聞こえてくる。それが自分のものだと悟るのに数秒の間を要した
体が自分の者でないようだった。数秒前はひどく凶暴な獣に取り付かれていたみたいに今の彼は穏やかそのものだ
教室の中は騒然としていた。何しろろくにクラスメイトと喋っていない女子生徒がいきなり大声を張り上げ一触即発の空気を取り払ったのだから
その間にも康生は戒から距離を取っていたが、取り巻きが寄ると怯えの混じった眼差しが強がりの鋭い視線へと変化する
その様子からして、彼にも喧嘩を続ける意思は失せた様だった
「てめえなんて、もう友達じゃねーからな」
絶交の宣言。それを聞いた後に胸が痛む
だが、それは康生に言われた言葉に動揺したわけではなかった。自分が馬鹿な行動をしたせいで天音に迷惑がかかってしまったことに申し訳無さを感じる
自分は天音に救われたのだ
「勝手にすればいい」
もう、友情も何も無い。今から戒と康生達は他人同士になったのだ
気遣う必要も既に存在しない、今から他人同士。それに束縛から解かれた開放感を戒は味わっていた
「宇都宮みたいな根暗と陰気なお前はお似合いだよ」
その言葉にまた煮え繰りそうになったが、さすがに二の舞を繰り返す程怒りは昂ぶってこない
一言だけ、康生に言葉を返した
「彼女はお前みたいな下種とは違うよ」
クラスの視線が戒に集中する。教室中が静かになる
無意識に孤立を覚えた戒は無意識に天音の姿を探したが。彼女はどこにも居ない
自分が謝るべきはクラスの人間や康生等ではなく天音だというのに彼女は去ってしまったのだ
この瞬間、戒はクラスで独りぼっちになってしまった