飛鳥の忠告
普段と変わらない日常、過ぎていく日々
戒は決められたサイクルに従って行動するように学校に通って飛鳥の待つ文芸部室に通い放課後は天音が佇んでいる屋上に向かう毎日を送っている
今年で三年生の飛鳥は本当ならば、試験勉強に追われている筈なので
流石に夏休みは部室に出てこないものだと考えていた戒だったが、彼女は普段通り顔を出してきたので驚いた
話を聞くと既に進学は決まっているとのことでほかの学生と比べて羽を伸ばしているようにも見える
戒はこの前の康生達の話が微かに引っかかってはいたが、そこは考えないようにしていた。思い出しても決して愉快な出来事ではなかったから
「で、戒君は将来の未知を決めてるのかな?」
「いいえ、まだ具体的には。一応進学するつもりですけど」
洋食レストランのテーブルで戒は曖昧に言葉を濁した。
飛鳥が部活の終わりに彼を連れて奢ると誘ったわれ、断る理由も存在しなかったので着いてきたまでだ
いくら先輩といっても、女の子にご馳走になるのはあまりいい気分でもなかったがどうしてもと彼女が勧めるので仕方なく戒も着いてきたのだ
戒の一応成績は不安のない地位をキープしてはいるがそれだけで万全とは言い難い
一応彼自身も都内の就職大学に進学するプランは立てていたが、その後就職する企業や自分の目的などはまだ曖昧でイメージをつかみ切れていない
流されているままに生きているとは思っているが、特に是正する気は起きない。自分が何のために生きているのかもまだわかっていない
だからこそ先輩の飛鳥が夢を追い続けていることがとても羨ましく眩しいものに思えてしまうのだ
「私はもう一度トラックを走ってみたい」
やはり彼女はもう一度陸上の道を進むつもりなのだ
「大学で陸上部に?」
「そう、全国大会に出場して競技場の空気を風と一緒に切りながら走って、白いテープを切るの。高校では出来そうに無いけどそれが今の私の夢」
当然だとは思った。彼女は元々陸上部に所属していたことは戒は承知している
だが、二年生の頃に負った傷跡は彼女の序頃の中に深いダメージを残していないか心配だった
一応戒も飛鳥に世話になった身だ。彼女の将来が安泰であることを望む事には偽りの気持ちは無かった
「その後は普通の家庭を持ちたいな。好きな人と結婚してから子供生んで、成長を見守りながら時に任せてお婆ちゃんになっていきたいな
ありきたりだけど、平凡な幸せが一番」
戒はようやく分かったような気がした
飛鳥がたまに部室に来ないのはリハビリや練習をしていたのだろうと
彼女は足に重大な怪我を抱えていても健気にも夢を掴もうとしている。それは将来のイメージがまるで無い戒にとって羨ましいものだった
「夢を持つことは、とてもいい事だと思います」
戒は言った。月当たりな言葉だが本心である、事実として彼女の志は尊敬に値する。ならば応援するのが当然だろう
「うん、ありがとう。お互いに夢掴もうね」
飛鳥は戒に手を伸ばす。握手を求めているのだと悟り、彼女の手を握った
意外に固い皮の感触に内心驚く、恐らくは筋肉トレーニングで付いたものだろう。思っていたよりも飛鳥は努力しているのだとわかった
そうした普通の幸せから自分は無関係だと思っていた。自分は居ても居なくてもいい存在、すなわち虚無であると信じ続けている
自分の味気ない今を思えば、彼にとってその思考は当然の帰結であり答えだった
しかし、今はそうでない自分が居る
過去、友達になった少女。何も知らなかった幼い戒
知り合って少しして彼女の姿は見えなくなって
それがだんだんと天音の後ろ姿に重なり・・・
「戒君。どうしたの?ボーッとして」
飛鳥が心配そうに声をかける。いつもの光景だったが、連想に耽っていた戒は反応が遅れる
「あ、すいません。自分あまりにもトロいので」
「もしかして考え事?」
飛鳥が顔をぐっと寄せてくる、戒は先輩の面と向かい合う事が出来ずに、目だけ背ける
あまり良い予感がしない。そしてそれは的中したようだ
「女の子さんの事。」
「ッ!」
戒は口に含んでいたウーロン茶をせき込んでしまう。背後で座っていた一組のカップルがびっくりして振り返った
ひとしきり噎せた後に、テーブルを拭いてから飛鳥の言葉を否定する
「ぼくは別にあいつの事なんて考えてないですよ」
心なしか抑揚が変だ。これじゃあ肯定しているのだと同じ事だと戒が感づき無口になるが飛鳥はからかいもせず冷やかしもせずにじっと彼の方に優しげな視線を向けていた
最近の自分は彼女の事になると動揺してしまう。以前では考えられなかった心の揺らぎを感じる
自分自身の変わりように驚いてしばらく無言で居る。飛鳥の声が聞こえた
「・・・戒君、どうしたの?」
「大丈夫です。茶が喉に詰まっただけで」
ひとしきり言い訳を述べた後、戒はあまり気分の良くなさそうに俯いた
直後に飛鳥の言葉が来るまでは
「でもね、あの子とはあまり関わらない方がいいと思うの」
先ほどまでふざけていた飛鳥が至極真面目な顔をして戒に告げる。その言葉の意味が戒には解らなかった
「何を言ってるんですか?」
戒の中に困惑と戸惑いが生じた。飛鳥が何を言っているのか分からない、彼女の言葉の意味が理解できないといった風に
「あの子はあまり良くない気配を感じるの、戒君もあまり近寄らない方がいいと思う
笹山先生の件だってあの子が関係しているんでしょう?関わっても君に言いことなんて無いよ」
なぜ知っているのか、思わず立ち上がってしまった弾みでテーブルを叩いてしまう。突然音を立ててしまったことで周りの席から迷惑そうな視線が集まる
戒は静かに席に座った後、飛鳥の目を覗き込むように視線を鋭くした
彼女は罪悪感でも感じたように一瞬目を逸らしたが、すぐに強い意志を瞳に乗せて戒の眼光を受け止めた
「見たんですか?」
静かに、だがはっきりと聞こえるような声で戒は飛鳥に聞く。それは確認のための問いであったが彼女の目を見る以上答えは言葉で聞くよりも分かりきっているようなものだった
飛鳥にしては珍しく、返答までにしばらく間が空いた
それは、戒にとって返事を聞くまでも無く肯定したのと同様の意味を持っていた
「・・・うん」
「そうですか。」
言葉にやや軽蔑の感情が乗ってしまうことを戒は抑えられなかった。自分の自室を知らぬ間に他人に除かれたときのようなざらついた感情が心臓にへばりつく
彼女は天音と自分が屋上で逢っていたのを盗み見るような真似をしたのだ
正直に言うと、裏切られたようで腹立たしい。マグマのようにドロドロした感情が喉の奥にまでせり上がりぶちまけてしまいそうになる
それを抑えるのはたまらなく不快だった。幸いなことは親しい人間にエゴに染まった醜い感情を向けたく無い故に、辛うじて感情の壺に蓋をすることが出来たことくらいか
「分かりました、飛鳥先輩」
「戒君・・・?」
自分でも驚いた。そんなにも冷たい声が出せると言うことに
しかもそれはこの前の康生や親などにでもない。親しくしている先輩である飛鳥に対して彼は軽い警戒心のようなものを抱き始めていた
流石に長く感情を制御出来ない。裏切りに向けられた憎悪に理性がゆっくりとへばりつき、侵食され溶けて行くように我慢は限界を迎えつつある
このままだと何をしでかすのか分からない。そしてここは店内だ余計なことをすれば無関係の人間まで迷惑をかけることになる
互いの視線をぶつかり合わせるように見つめ会う二人。だが、逃げるように先に声を出したのは戒の方だった
「今日はありがとうございます。代金は払っておきますから」
抑揚の無い声が口から滑り出た後に伝票を自分の元に寄せる。飛鳥はその荒々しい仕草に触発されて初めて狼狽したようだ
「待って、今日は私が・・・」
「さようなら、先輩」
早口で告げ、逃げるように伝票を拾い上げ足早にカウンターに向かう、代金を払うために
取り残された飛鳥が何か言いたげに立ち上がるが、戒はそれを無視するように入り口の方向へ歩いていった
戒は、彼女との会話を打ち切って立ち去って行った。これ以上何も告げられたくないと言外に宣告するように
「君の為に言っているのに」
一人になった飛鳥か寂しげな声が漏れた。彼女はしばらく戒のの去った入り口に名残惜しげな視線を置いていた