空からの誘い
屋上前の扉の前で戒は扉に背を預け、目を閉じている。薄く目を開けているが、傍目から見ると寄りかかって寝ているようにも見える
無論の事だが、彼は漂う埃の匂いに巻かれながら天音を待っていたのだ
昼休憩のチャイムが鳴り、既に三分程の時間は経過している
その一分前には戒は扉の開錠を済ませていた
昨日は防犯的な支店から一旦は締めていたのだが、また開錠する手間を考えると彼女が来る前から開いていたほうが効率がいいと思ったからである
自分が先に入っても良かったのだが、礼節として一応は待っておいたほうがいいのだろうとのことで彼は屋内で待っていたのだ
早く来たのは、天音をあまり待たせたくなかったからである
彼女がいくらあんな性格だとは言えども、女の子を先に待たせるのは社会的に考えて失礼と思った故だ
埃の臭いは我慢できないほどのものではなかったが、昼食前の衛生的な観点から考えるとやはり好ましくはないので長居はしたくない
戒は袖をまくって時計を見る。先程から三分程度、長針が進んでいた
もう少し待ってこなかったら帰ろうかと考え始めた戒だったが、階段を駆け上がってくる足音が耳に入り顔を向ける
踊り場から下方に目をやると、気の強そうな視線がこちらを見かえしていた
「遅れた事は謝っておくわ。屋上に行きましょう」
短い謝罪を済ませると長い髪を揺らし、待ち焦がれたように宇都宮天音は駆けて行く
(相変わらず強引なんだな。)
戒は言葉にせず、率直な感想を胸の呟くのだった
錆びた扉を開くと、冷たい風が吹き込んでくる
まだ寒さが残る四月の終盤である、今の季節は冬の冷たさの面影を存分に残していて昼が過ぎるまでは未だに肌寒い時期が続いている
温度が上がり、過ごし易くなるのは五月の中盤くらいだが今年はまだ冬の名残が強い
今は学生食堂で食事をするだけでも節電の為に暖房が切られている為に過ごし易いとは言えない
だが、逆に言えば食堂やそれすらない教室で食べるだけだとしても、雨風凌げる屋内ならば何の不都合もないのだ
しかしだ、屋上で弁当を広げるという初めての屋外で昼食を取るというならば、肌にまだ熱しきれていない午前の空気の冷たさは少々酷ではある
冬服を着込んでいたとしても冷気を含んだ風は、首の隙間や袖の間から容赦なく吹き込んで体温を奪ってしまうのでやや過ごし辛い
それでも寒いことには変わりないが、冬のそれよりは幾分かマシだったので我慢する苦はさほど無かったのだが
「弁当の事はありがとう。それでさ、宇都宮さんは何で屋上で食べることしたんだい?こんなに寒いのに」
戒が寒さを我慢しつつ率直に疑問をぶつける。分かりきった答えが返ってくるのは明白だがさすがにこんな寒空の下で無言で弁当箱をつつくというのも味気ない気がしたからである
要は、会話のきっかけがほしかったのだ。一人ならともかく流石に二人で無言のまま昼食を鳥と言うのは、流石に気まずいものが有る
「空を見るためよ」
「やっぱり、理想郷ってやつの事かな?」
茶化したように言ったが、天音は答えない。無言で弁当箱を開いて、その中身を箸でつまみ口に運び始める
無視された形にはなったが彼女の食べる速度が意外なまでに速い。箸を掴む手先が意外なまでに器用というのも有る
ひょっとしたら致命的に不味いのかと警戒しつつ、渡された弁当箱の包みを解いて中身を確認する戒
蓋の奥に隠されたおかずの顔ぶれを確認すると、戒は感嘆のあまり思わず声を上げてしまう
「うわ!これ凄いね。君が作ったの?」
「そうだけど、何か文句ある?」
当然の如く言い切る天音に内心、また驚いてしまう
「冷凍食品が一つも入ってない、それに見栄えも栄養も計算しているみたいだ・・・そして意外な事に美味しそうだ」
「なんか遠まわしな嫌味に聞こえなくはないけど、私なら出来て当然よ。」
全く照れる素振りも見せず、天音が素っ気無く返す
その様子は無愛想ないつもの彼女と変わりないような気がしたが、心なしか声が得意そうに上擦ったように聞こえたのはそういう事なのかもしれない
弁当箱の中身は卵焼き、ハムときゅうり入りのポテトサラダ、沢庵に糊を巻いたおにぎりなど地味だが色合いが良く、野菜重視で健康を考えたヘルシーなメニューで構成されている
実際に手を付けてみると卵焼きはやや甘く、ポテトサラダは塩加減が絶妙で沢庵は薄い塩味だった
おにぎりも小ぶりではあるが形の良い三角形で無理やり握ったように米がつぶれてなく、箸でつまんだ程度では形が崩れない
一介の女子高生が手がけた手作り弁当としては合格点といったところだろうか。戒も飛鳥から弁当を作ってもらったことはあるが
彼女とはまた違った趣のあるメニューに正直舌を巻かざるを得ない
これだけ本格的ならば期待も高まるというもの。刺激された食欲にぐう、と腹の虫が鳴ってしまう
(これは評価を変えざるを得ないな。)
飛鳥と違って天音に家庭的なものは似合わないと考えていた。だが、その考えはどうやら改めざるを得ないようだ
無論だが、単なる料理と材料の分量に繊細さを要求されるお菓子作りとは全く土俵が違う事は戒も弁えている
しかし、先程に見せた天音の自信満々の態度や見事に調理された弁当を見るに、仮に煽って作らせたとしても涼しい顔をして見事なクッキーを持って
無理矢理にでも戒の口に放り込みそうではあるのだが
「料理は出来るんだね。これで掃除が出来てもっと愛想良かったら、すぐに彼氏が出来ると思うよ」
皮肉を込め冗談めかして戒が言ったが、天音はそれに答えなかった
彼は少し落胆したが、彼女とあまり話すことが無かったので気にせず彼女が渡した弁当に舌堤を打ち、堪能することにした
両者とも無言のまま味気無い時間は過ぎていく。戒が弁当を食べ終わるのに時間がかかったと言うこともあるが
「ありがとう、中々美味しかったよ。弁当箱は洗ってから他の人間の目に付かないように机の中に入れておくよ」
礼を告げる戒にぴしゃりと天音が言った
「食べるの遅いわね、あんた」
「よく噛むからね。健康のためさ」
「ひょっとして不味かった?」
「結構甘めに評価するけど、普通に美味しかったよ」
実際は遅い食事で退屈な昼休みを潰す為の時間潰しだったが誤魔化しておく、天音の弁当が以外に美味でよく味わったと言うのも理由には入るが
食べ終わった頃に時計を見ると既に五時限目の授業が始まる午後一時から十分前、十二時五十分だった。自分でも遅いと思う
後二、三分もすれば授業の準備の為に教室に戻らなければならない
今日の日程では午後初めの時限は移動教室ではなかったため、まだ多少の時間的余裕はあるのだが、会話する余裕は有る筈だ
戒は天音にとりあえず話しかけてみた
「空を見ているのもいいけどそろそろ教室に戻らないか?窓からでも見えると思うけど」
「神城くん」
「うん?」
「あなた、空の向こうに何か見えない?」
こちらを向いた天音に言われ、戒は積乱雲で六割ほど覆われた頭上の蒼穹を仰ぐが、巨大な雲が浮かんでいるばかりで航空機や野鳥の群れの影すら見当たらない
特に変わったものは確認できなかった
「別に、今は飛行機とか飛んでないから普通だと思うけど」
「そう、私は声が聞こえたような気がする」
「・・・。」
天音はそれっきり黙りこくってしまう、戒は何も言い出せない。会話は簡単に途切れてしまった
普通ここまで邪険にあしらわれてしまうと相手は自分に何らかの嫌悪感を抱いているかもしれないと疑ってしまうかもしれないが
彼女からそのような機嫌の悪さ等は察知できない。戒の知る限りいつもの天音だった
沈黙が続くのもそうそう良い気分ではない、戒はさっきの天音の言葉を頭から消し去って彼女に聞いた
「どうして、空にそこまでこだわるんだい?」
天音は無言。しかし戒を無視しているようには見えない
視線は相変わらず彼のほうを向いており、形の良い桃色の唇は緩やかに閉じられている
だが、一陣の風が彼女の髪を揺らし彼女の顔が一瞬だが隠れてしまったときときにその声は戒の耳に入りこんでいた
「空には幸せの街があるのよ、理想郷。あるいは天国かもしれない場所が」
今度は戒が絶句する番だった
「また理想郷か・・・ひょっとしてそっち系の漫画の読みすぎじゃない?」
「人間が決めた単語で表現することが出来ないほどの壮大で夢のような場所。全ての生き物が最後に行き着く魂の楽園・・・
それが空の向こうにあるとしたら神城君は信じる?」
「信じるも何も、ありえない筈だよ」
天音の言った事に会は何も言えなくなった。言葉で反論することも無意味なように思えて仕方ない
余りにも非現実的な事を継げる天音に戒の思考が追いつかないのでもない
だが、空に在る理想郷、天国。その言葉が戒が過去に封印したはずの罪が呼び起こされ彼の胸のうちを締め付ける
まるで遅効性の痺れ毒のように天音の言葉は徐々に少しずつ戒の体に浸透していく
幼い自分の可愛げないたずら話
本が好きだが友達の少ない眼鏡をかけた可愛らしい幼女
そして感情と共に戒が消失してしまったもの
それは過去に戒が追った古傷
「やっぱり君は・・・?」
「神城君?」
そして、突然背中から突き刺さるような痛みが戒を襲った
「うッ!」
突然胸を押さえて苦しみ始める戒に天音が寄り添ろうと足を踏み出すが、戒はそれを振り払うように入り口の方向へと走り去っていく
後に残された弁当箱の上を冷たく風が吹き抜けて、戒の消えた方にむいたまま彼女の髪を揺らした
階段を下りていく戒。激しい胸焼けを覚え屋上から立ち去った彼
最上階の四階から三階まで降りて時計を見た。時間はまだ七分ほど余っている
(戻るか?)
自問自答するが答えは出てこない
天音に何も言わずに飛び出してしまったのは自分でもわけの分からない衝動に突き動かされての行動だった
何故に、自分でもそんな軽率な事をしたのか?
再び投げかける疑問にちらつく、幼い少女の影。ようやく思い出す過去の記憶
「あの子なのか?」
遠い日の約束。すっかり色あせて心の奥底に沈みこんでしまった思い出
焼けて茶色くなった写真のようにそれが蘇える。十年近くもの月日を越えて
『空の街の事も教えてくれるの?』
あの少女と天音の面影が重なって半ば確信する。彼女はあの少女なのかもしれないと
日常の中に埋没し忘却の海へ消え去った遠い日の約束、その意味をようやく思い出した
戒は呆然としながらも胸の中でそれを噛み締めていたのだった
これで第一部は終わりです