再開の日
過去より人類は、果て無き大空に思いを寄せている
二束の足で直立し、地上を歩き回る以前から天空は薄く透き通っており、青天の天井として有史以前からそこに形無きものであり地上を見守っているのだ
鳥のように空を駆けることも出来ない人類は太古の昔より手の届かないそこを神の居場所と定め、自分達の魂が最終的に行き着く場所として祖先への敬意を示した
文明は時間と共に進んだが、それでも教育というものを碌に受けていない卑屈でか弱い貧者であろうとも、肥え太り高価な金の指輪をいくつも携えた傲慢な貴族であろうとも
雷光が轟くと雲に潜む悪魔に怯え、恵みの雨が降り注ぐと天空の神に感謝する
科学技術で人類が空に到達しえるようになっても、彼等自身は過去の祖先の記憶から天に対する信仰を忘れる事などない
まるで空に、人知を超えた神が居ると本能の内で理解しているかのごとく人は天空への恐れと信仰を現代に至るまで続けているのだった
空に死者の行き着く楽園があると問われれば、否とも是とも答えられるものではない
そのような人の浅ましい理屈に満ちた問いですらも、空はその無限ともいえる広大な空間と透き通る青色の中に全てを飲み込むからだ
いかなるものであってもそこは何者をも拒みはしない、やがては全ての魂がそこに集う場所である。そう信じられている限り空は人の上にあり彼らを見守るだろう
「神様の国は絶対にあるんだ!」
それは彼がまだ小学校の頃に隣の席に座った少女に向けて言った言葉であった
最初からそう言い放ったわけではない。何かの弾みにまだ幼く自制心も乏しい少年の言葉から出たものだ
「それ、本当?雲のむこうがわには何も無くてずっと行くと宇宙にでるって本に書いてあったけど」
髪を肩まで伸ばした色白の眼鏡の少女が純真な瞳でやや疑わしげにまるっこい少年の顔を見つめる
風貌とその手で開いている図解は中学生用のもので決して彼女たちが通う小学校で習う分野が記載されているわけでもない
この本は、彼女が親にねだってようやく買ってもらった中学生向けの簡単な宇宙図鑑だった
「きみは本が好きだね。ぼくにはむずかしいことはわからないけどそれって本当に見てないからしんじられないや」
少年が子供特有のあっけらかんとした無責任な物言いと、少しばかり開き直りが入った態度で豪語する
少女は彼の強い口調にやや押されながらも正確に反論を重ねてみせる。気弱に見えて我が通っている、しっかりした気質の持ち主だった
「だって、本は大人が書いたんでしょう?テレビやえらい学者の言うことってみんな正しいんじゃないの?」
少女は一瞬だけ疑う眼差しを眼鏡の奥のかわいらしい瞳に浮かべたが、少年が大真面目に自分の説を話すので彼女にそれが少しづつ伝染してしまう
何より、このときの少女にとって真実とは大人が教えてくれるものか自分で探すことによるしか選択し得ないのであって言葉の裏を取る術を知らない
更に、彼女がそこまで少年の言葉を疑い続けるには幼すぎた
「うーん・・・ぼくむずかしい事はわからないけどそういう町はきっと有るんだよ
そこは神様といっしょに死んだ人たちも仲よくすんでるんだよ。ママがいつも聞かせてくれる話はそうなってるんだ」
嬉しそうに少年が話すさまはまるで輝く太陽のようだった。彼が自分の母親のことを話すとき、いつも満面の笑みを浮かべているのを少女は知っており
また、それを羨ましく感じていたのは彼女の家庭事情も背景にあった
「へえ・・・あなたのお母さん優しいのね。今度おうちにあそびに行ってもいい?」
少し俯きながら、小さい声で少女が尋ねる。人と話すのが得意でない彼女は自分と違ってクラスで友達が何人もいる元気な少年に向かって聞いた
「きみの家はだめなの?」
そう言うと、少女は悲しそうに小さく首を振る
少年は意味も分からず自分の言葉が彼女を悲しませたのだと思ってわざと明るい口調で答えた
「もちろん来てもいいよ!お菓子とか本とかもいっぱいあるからさ」
「空の街のことも教えてくれるの?」
「もちろんだよ!」
「連れてってくれるんだよね?」
「そ、それは・・・そうだよ!」
彼女の大きな、少し陰のある瞳に見つめられながらも少年は大きく頷いた。何の邪気も計算も無い純粋な笑顔が少女の顔に咲いた
少年も白い頬を朱色に染めて彼の喜びが伝染したように幼く丸い顔に笑顔を浮かべる。少し困ったように口元が浮ついていたが
その頃の二人にとって見れば世界は希望と未来に満ち溢れていた
昔の少年にとって大人とは敬遠なクリスチャンのように真面目な人種だと信じて疑わなかったし、少女から見ても親は有る意味で神のような存在だった
彼にとって世界は必ず自分の願いをかなえてくれるものだと信じていたし光り輝く宝石のような美しいものだと思っていた
だからこそ一人で本を読んで話したり遊んだりしない少女が不憫に思えてならなかったから少年は彼女に話しかけた
そうして幼い二人は笑いあい約束した。だが、その約束は少女の突然の引越しにより果たされることは無かった
少年はそれを悲しく思ったが、内心ほっとしていた。作り話である自分の嘘がばれて可愛い彼女に嫌われることを恐れたからだ
しかし時間と共に痛みは薄れていき、幼かった彼は過去の約束をすっかり忘れて時は流れてしまった
無邪気な頃、自分の空想を語った少年。そして空の町へ行くことを夢見た少女は互いのことろくに知らずそのまま別れる事となる
それから約束の果たされないまま、十年近い時間が流れた
「おい、戒。今日ボーリング行かないか?隣町で学生割引してるとこあるからさ」
背が小さく、少し焼けた活発そうな男子生徒が神城戒に提案した
教室の中は放課後特有の弛緩した空気。授業から開放された生徒たちの生気が溢れた空間にそぐわない一人の生徒
肌は同年代の男子と比べても白く、運動部などに所属しない内向的なタイプに見える
そういった面々は大概体系がやや肥満気味になったり、痩せすぎになったりするのだが少年はそのどちらにも属さず理想的な体系と比較的長身の体型の持ち主だ
病弱そうな細い線の顔はひそかに女子生徒から人気を得そうだったが、肝心の表情がどこか浮かなく頼りない感じに見える
愛想良くさえしていれば集団の中で性別に関わらず、友人が集まるようなそこはかとなく整った顔付きと、年の割りに抑えた雰囲気
しかし、それに反して瞳は気弱と判断するには眼光がやや強く孤高の雰囲気を漂わせ、見るものに冷ややかで不安なものを感じさせる
彼のようなタイプは、あまり友人を作らず集団行動を嫌うタイプに近いのだろう
「そこは電車で二つ先にある、桜町で新しく開いた所だろ?」
完全に声代わりする直前のやや低い声で少年―――神城戒が返す
男子生徒が話しかけるまで、冷たい印象を漂わせていた表情が幾分か柔らくあどけない感じになり、そうしてみると仲間と遊ぶ相談をする普通の男子生徒に見えなくもない
しかし瞳の奥の冷たい光はそのまま鈍い光を放っている。本心から笑っていないのは明らかだった
「康生も知ってたのかよ。まだあまり知らないやつが居るから穴場だと思ってたのになあ・・・」
「まあまあ落ち込むなよ。みんなで分け合ってこそ遊び場だろ、な?」
「それもそうか。で、戒はどうするんだ?」
三人の男子生徒が集まってきて、国語辞典とノートを並べてペンを握り締めた手を動かしている戒に言った
「悪い。みんなの申し出は悪いんだけどさ、今日俺はこれがあるから」
戒と呼ばれた少年は再度ぎこちない愛想笑いを浮かべながら、男子生徒たちに告げると彼らは途端に不満そうな表情になった
「宿題なんて明日やればいいじゃないか」
「そうだぜ。もう高校二年生なんだからいっぱい遊ばないと」
三人組の一人。康生が口を尖らせて言うのに続いて将兵が戒に畳み掛けるが、戒は整った顔に笑みを白い顔に相変わらず笑みを貼り付けて弁解する
表情が笑い、眦も笑みの形に歪んでいるが瞳の奥の眼光の鋭さは康生が話しかける寸前と変わっていない
「提出物は早めに出したいんだ。俺って忘れっぽいし、部活もあるからさ」
強情な戒を説得するのに疲れたのか、それとも遊びに浪費する時間が惜しいのか康生達はあっさりと戒を誘うことを諦めたようだった
「あ、そう。じゃあ一人で頑張っとけよ。行こうぜみんな」
「すまない。こんどどっかで奢る」
「まあ、せいぜい勉強頑張れよ。」
康生は少し機嫌を悪くしたように言うと鞄を掲げるようにして仲間の二人を連れ、教室の外に出て行った
戒は廊下の中で響く彼らの雑談の声が遠ざかるのを確認して、溜息を付いた
(好きでこんな付き合いをしたくないんだが・・・。)
昔に比べ、臆病な気質になってしまったものだと口元に自嘲の笑みを浮かべる
ある程度居にそぐわない連中であっても、円滑に学園生活を送るにはどこかのグループの庇護を得るのが手っ取り早い
それに戒自身は人と話すのがあまり好きではなく、一人の時間を大事にするタイプであることを自覚している。それが社会的な欠点になりうると承知していた
一年生のときにその節では難儀したのもまた事実である
(これだから、学生生活は面倒なんだ)
心の中で吐き捨てるように呟くと時点とノートを鞄の中に仕舞いこんで立ち上がる
教室にはまだ十人近くの生徒が残ってはいたが誰も彼に注目するものは居ない。戒にとってそれは慣れた事でもあった
立ち上がり入り口へ向かう。女子生徒たちの喧しい雑談をシャットアウトして教師との入り口を戒はくぐる寸前に窓の向こうに視線を投げる少女の存在に気付く
何故目に留めたのかは分からない。少女の雰囲気そのものが他の女子達と明らかに浮いていた
戒は、心の中で記憶の中で探り当てた彼女の名前を反芻する
(確か・・・宇都宮天音さんだったっけ?)
自然と窓際の少女に目が行ってしまう。彼女のほうに目が行ってしまったのは雰囲気だけではなく、宇都宮自身がそれなりに目を引くでであろう容姿をしていたかもしれない
真っ先に目が付くのは夜の闇を溶かしたような黒く、肩の下辺りまで伸ばした艶やかな髪
そして病人かと見間違うほどに白い肌、文庫本を手にしてはいるが窓の外を見つめたまま微動だにしない瞳、固く結ばれた桜色の唇がある種の近寄り難さを醸し出していた
なんとなく物の例えでは有るのが、雪の積もった真冬の夜にひっそりと聳え立つ季節外れの花が咲いた桜をなぜかイメージしてしまう
俗に言うただ暗いだけの女子とは違って、ある種の陰険な雰囲気が無くむしろ精錬とした存在感を見せている彼女の存在は異質と呼べるかもしれない
更に要因がいくつか絡み合い、宇都宮天音を他と断絶させるだけの空間を作り出すのには十分であり
彼女に浮世離れした奇妙な美しさを与えるのに十分貢献していた
(学校がつまらくても、もっと笑えばいいのに)
彼女の横顔を盗み見ながら、笑顔が似合う部活の先輩のことを思い浮かべ戒は思った
既に四月。二年生になったばかりのクラス替えで生徒の名前と顔が一致しない彼だったが、なぜか彼女の名前と容貌だけははっきりと思い浮かべることが出来た
もしかしたら以前に会っていたのかもしれないがよく思い出せない。もしくは思春期にありがちではあるが、気になる異性をひそかに意識する事に近いのかもしれない
どちらかといえば、清楚な印象を受ける天音は戒の好みのタイプであり。クラスの女子達とは頭二つほど抜けた容姿から康生達も度々話題に出していたような気がする
自分の中にそんな一面があったことにかすかに驚きつつも、戒は喧騒を置き去りにして廊下に出る
教室の外でも立ち話している生徒たちの脇を掻い潜るように彼は部室へと向かった
そして戒は気付かなかった。宇都宮天音が彼女が戒の呟きに反応したように、彼の消えた方向に一瞬だけ視線を投げかけていた事を