3 東へ
「はあ…」
ため息をつき、繊細なレース生地をふんだんに使って豪華に作られた純白の婚礼衣装の裾を摘まむ。うっすらと視界を遮るのは頭に被せられた薄い紗のヴェールだ。
「なんで、こうなったのかしら…」
セレスティアは隣にすまし顔で座る男ーーーもとい、夫となる人物を見やって頭を抱えた。
「ところで、あなたの名前をまだ聞いてないんだけど」
風が吹きすさぶ塔の上で、手を取ったまま男に尋ねる。そういえば、散々話しておきながら彼のことを何一つ聞いていないことに気付いたのだ。セレスティアは確実に素性が割れているのに、自分は彼が他国の諜報だということ以外、仮にも命を預けた相手のことを何も知らない。
(いつもは気を付けてるのに)
「失礼、名乗るのがまだだったな。俺の名前はフェリクス・アルベールだ」
耳に心地いいアルトボイスが、流れるようにその名を紡ぐ。
「っ!?それって、貴方…」
思わず叫び声を出しかけたセレスティアの口を、突然フェリクスの大きな手ががバリと覆って柱の陰に体こと引っ張りこんだ。視界がフェリクスのまとっている黒いマントの漆黒だけになる。
「静かに。誰かが昇ってくる気配がする」
セレスティアにしか聞こえない小さな押し殺した声は、先ほどのよく響く低い声とは別人のようだった。数秒後、階段を上る音がかすかに聞こえてくる。恐らく巡回警備の兵だろう。
(姿の見えない遠くにいる人間の気配の察知に、見方が聞き取ることは出来てもそれ以外には聞こえないような声。どれも慣れていないと身につかないものだし、やっぱりこの人が優秀な諜報なのは間違いないわ。でもどうして…)
セレスティアが逡巡している間に、兵は問題ないと思ったのか戻っていった。階段を下りていく音が聞こえなくなってからようやくフェリクスが手を放してくれる。
「ぷはっ」
「突然すまなかった」
息苦しさから荒い呼吸を繰り返すセレスティアにフェリクスが言う。言葉の意味とは裏腹に全くそうとは思っていなさそうな感情のない口調だ。
「大丈夫。あなたと一緒にいるところが見つかったら私も困るもの」
乱れた息を必死に整えながら返す。
「フェリクス・アルベール様」
フェリクス・アルベール。その名前にセレスティアは聞き覚えがあった。
国の名前とは、普通王族の苗字を関するものだ。国中から疎まれているが一応はルリエーヴル王国の王女であるセレスティアも、フルネームはセレスティア・ブランシュ・ルリえーヴルを名乗っている。そして、フェリクスの苗字たるアルベールの名を関する国をセレスティアはよく知っている。いつも、戦っているから。
アルベール王国、通称東。一般的に東と呼ばれる所以はルリエーヴルと隣り合って東に呼ばれることだからだ。逆にルリエーヴルはアルベールで西と呼ばれている。
フェリクスの苗字がアルベールであることが意味するのはただ一つ、彼がアルベールの王族であることに他ならない。
セレスティアの記憶が間違っていなければ、フェリクス・アルベールはアルベール王国の王の長男で王位継承権一位を持つ王太子だ。
アルベール王国では王に次ぐ重要人物ともいえる彼が、敵国に単身で、しかも諜報として潜入しているなんて異常というほかない。
「どうして西の王城なんかに東の王太子様が潜り込んでるのよ」
セレスティアの動揺など知らないかのように、フェリクスは先ほど風で外れてしまったローブのフードを深くかぶりなおしている。何気ない動作の一つ一つも優雅で洗練されているのは、彼が高度な教育を受けた人物だからだろう。
「相手を知るためには、自分の目で見た方が早いと思ったから来たまでだが」
彼はそれが至極当然であるかのような顔で淡々と述べる。
(確かにそうだわ。大量の資料よりも、自分で得るもののほうがずっと価値が高い)
日々軍略を立てていたセレスティアには、彼の言葉の意味がよく理解できる。戦には必勝の戦い方というものは存在しないため、相手の出方を予測し戦場となる場所のあらゆる特徴を利用して勝つ作戦を練る、それが軍略だ。だからこそ、情報量は戦の勝敗を大きく左右する。
指揮官の下にある情報が多いほど計画の解像度は高くなり、最適解を導き出すことが可能となるのだ。セレスティアも見知らぬ戦場の地図とにらめっこしながら、何度「一目でも実際に見ることが出来たら」と思ったことか。
それでも多くの指揮官たちはその計画の選択を取らずに机上で作戦を立てるのは、余りにも危険が大きすぎるからだ。数の少ない指揮官の命を危険にさらすくらいなら大勢いて幾らでも替えの利く軍や諜報を切り捨てる、そういう判断である。一般的には決して間違ってはいないだろう。
だがフェリクスは今、敵国の心臓ともいえる場所の最上部に立っている。国一の防衛能力を誇る城の騎士団にしたから攻め込まれれば逃げ場なんてどこにもない、危険なこの塔に。
(傍から見ればこっちの方が私なんかよりよっぽど死にたがっているように見えるわね。文字通りの自殺行為)
「私の共犯者さんはよほど県に自信がおありのようね」
セレスティアの皮肉めいた言葉に、フェリクスが少しだけ右眉を上げた。
「何故そう思った?」
「左足。刃渡りが長めの剣をベルトで足に括り付けて隠しているでしょう?あなたはほかに武器を身に着けていないからそうなのかと思っただけだけれど、違ったかしら」
(ローブの隙間から見える左足の曲がりが、体格にしては妙に小さかった。怪我ではなく、何かに制限されているようなーーー骨折して添え木でもされているように)
自分の左腿にドレスのスカート越しに触れる。そこには、革のベルトで剣が括り付けられていた。もしもに備えていつも身に着けているものだが、セレスティアの剣は必要最低限の自衛が出来たらいいという基準で動きやすさを重視して選んでいるものなので短く、太腿の付け根から膝までの長さもないので少しの重さ以外足の動作に殆ど支障は出ない。しかし、フェリクスはローブで左足のよく見えない部分にかなり長い剣を括り付けているのだろう。関節、膝の部分にもそれが及んだせいで動作の妨げになり動きが不自然になったのだ。
「よく気付いたな、城の騎士は一人も気づかなかったから必要もなかったかと思ったが、まさか姫君に見破られるとは」
「多少は心得があるもので」
セレスティアは軍略を立てる机仕事が主となってからも鍛錬を続けていた。特に趣味もなかったセレスティアは仕事の空き時間を専ら鍛錬に費やしていたため、そこらの騎士よりは強い自信がある。
「騎士は俺が武器を隠し持っている東の人間であるどころか、城に潜り込んでいることすら気づかなかったぞ」
「我が国の騎士どもが侵入者に対する礼儀も持ち合わせていなかったようで申し訳ないわ」
(実際、西の騎士団や兵は弱い。ただ数が多いから持ち堪えているだけで、東と同じ数ずつ集めて戦わせたらひとたまりもないでしょうね)
母が死んで暫くしてから、父は国の軍事の基本方針を大きく変更した。これまでは適性を持つ者を選抜して集中的に訓練を行うという方針だったのを、質より量、つまり集まった大量の人員をろくに訓練も施さずに実戦に放り出すようになったのだ。確かに試験や訓練をしないことで大幅に数は跳ね上がったが、その分強い者は極端に少なくなっている。本来実力がある騎士がいるべき、国の防衛の最たる城に配属されてしまうほどに。
「別に謝る必要はない。確かにここまで腑抜けた敵国には驚いたが、代わりにいいものを見つけたからな」
フッ、と小さく笑ったフェリクスに思わず目を奪われる。美形もここまでくればまるで完璧に作られた芸術品だ。
「何よ、いいものって」
必死に平静を装いながら返すと、突然フェリクスがこちらに近づいてきた。そのまま、するりと頬を撫でられる。
「…っ!?」
頬に添えられているのとは逆の手で、セレスティアの肩にかかった長い髪に触れる。
「君と会えた。セレスティア」
そう言って風で乱れたセレスティアの髪を軽く梳き、耳にかける。
(っ…今までこんなことされたことをされたことがないのに…!)
虐げられ、避けられて育ったセレスティアには、ほかの令嬢のように恋人や婚約者がいた経験が全くない。
(いや、でも、この人が絶対に女慣れしてるってことだけは分かるわよ…すごく自然だったもの、さっきの動作。とにかく何か言って心臓に悪いこの状況を何とかしなきゃ…!)
そう思って口を開く。
「かっ、からかうのはやめて」
「別にからかってるわけじゃない。本当にそう思っているが」
(躱された…)
セレスティアの必死の抵抗など知らないかのように、フェリクスはセレスティアの髪をくるくると指に巻き付けて弄んでいる。背中側の髪でそうしているので、さっきよりもさらに距離が近づいてしまって半分抱き寄せられているかのような形になっている。頬に手も添えられたままだ。
(何とかするどころか余計に状況が悪化したわね…。こういう時はどうすれば…)
必死に考える。
(あっ!これよ)
「ねえ」
フェリクスに声をかける。
「なんだ?」
「巡回兵はこの塔に一刻に二回来るの。捕まりたくないならさっさと逃げなきゃ」
「…それもそうだな」
フェリクスは髪を弄るのをやめ、頬から手も離した。同時にセレスティアからも離れてローブの中をごそごそし始める。
(良かったわ…。何かに気を取られているときはもう一つが疎かになる。戦術の基本だけれど、普通の対人関係にも応用できるわね)
胸をなでおろす。取り敢えず、フェリクスを引き離すことには成功したようだ。
ローブを翻し、塔の際にある柵に近づいていく。その様子をじっと目で追っていると突然フェリクスがこちらを向いて
「行くぞ」
と一言言った。そのまま柵に跨る。丁度、さっきのセレスティアのように。
「…へえ、そっちから行くの?」
「巡回兵を撒きながら行くよりも早いだろう」
「やっぱり分からないわ。貴方、本当に王太子?諜報の中から選んだ身代わりとかじゃないの」
「お褒めの言葉、光栄だ」
「無駄口叩いてると巡回兵が来るわよ」
「それは大変だ」
クッと笑ってフェリクスが手を差し出してくるのに、同じように笑って今度は迷わず自分の手を重ねる。足をかけて登り、柵の上に座って目を開くと城下の景色が見えた。でも、もう死のうとは思わない。
(さようなら、ルリエーヴル)
そっと心の中で故郷に別れを告げる。愛することは今はもう出来ない、かつて愛したこの国に。
「行きましょうか」
目を合わせて一つ呼吸をして、そしてーーーーーー飛ぶ。




