『ぼくが選んだウインウインストーリー』 見えないところで生きてきた僕の、ちょっとだけ報われた話
本作は、医療の現場で“ちょっと目立たない”職業、臨床工学技士(Clinical Engineer)を主人公にした短編です。
病院のすみっこで、ピーピー鳴る機械と命の間をつなぐ裏方。
そんな彼がAI時代に飛び出して、自分の選んだ“ウインウイン”な未来を描く、
静かで、ちょっと報われる物語になっています。
医療に関わる方も、そうでない方も、
誰かのために働く全ての人に、少しだけ届いたらうれしいです。
プロローグ
それは、ピーピーという小さな音から始まる。
病院という場所は、人の声より、機械の声のほうがよく通る。
心電図、モニター、人工呼吸器、透析装置。どれか一つでも調子を崩せば、すぐに何かを訴えてくる。
それは怒っているようで、泣いているようでもあって、でも一つだけ確かなのは――誰かが助けを必要としているということ。
医師は、診断を下す。
看護師は、ケアを行う。
そして、機械たちの声を聞くのが、ぼくら臨床工学技士だ。
でも、正直言って、医療ドラマに出てくることなんてまずない。
「え? 機械直す人?」って言われることにも慣れた。
それでも、手を止める理由にはならない。
なぜなら、そこに命があるから。
――って、カッコよく言ってみたけど、実際は地味で汗くさい現場だ。
そんな自分が、まさかパソコン一台で、世界中の医療現場に“声”を届けるようになるなんて。
こんな未来、誰が想像しただろう。
AIの時代?
職業がなくなる?
いやいや、違う。
ぼくらは、AIと一緒に、もっといい医療をつくっていく。
あの日、「やめとけ」と言われた選択が、誰かの命を救ったなら、それがすべての答えだ。
これは、医師でも看護師でもない、
臨床工学技士が時代の流れを逆手に取って、大切な“何か”を守った物語。
第1章 誰にも気づかれない仕事
ナースコールより先に鳴るのが、機械のアラームだ。
「ねぇ蒼井さん、また呼吸器、変な音してる!」
ナースステーションのカウンター越しに森さんが叫ぶ。いや、声量的にはほぼ怒鳴ってる。
“あんたの出番でしょ、これ”っていう視線が突き刺さる。名前呼ばれてないのに。
「はいはい、今いきまーす」
ペンとメモをポケットに突っ込み、工具バッグを肩にひっかけて向かう。
今日も相棒たちは元気に鳴いている。いや、元気じゃないから鳴いてるんだけど。
ICUの部屋に入ると、ピーピーというけたたましい音が響いていた。
患者の呼吸は安定してる。焦る必要はない。でも、機械は容赦ない。
「吸気圧高めですね……これ、水たまりですね。ドレン溜まってる」
ホースを外して、水を排出して再接続。パラメータを確認。
アラーム音がピタッと止まる。
その瞬間の静けさが、なんだか少し気持ちいい。
ああ、今日も機械と会話したな、って感じ。
「……すご。よく気づきましたね」
後ろで見ていた森さんが、素直に驚いている。
「いやいや、機械って正直なんですよ。だいたい顔に出てますから」
「顔? センサーの?」
「そう。“今日ちょっとダメです感”が出てる。まぁ、職業病ですね」
冗談で言ったつもりだったけど、森さんは真顔だった。
うん、ちょっと滑ったかも。
部屋を出ると、主任の根本さんが待っていた。
顔は穏やかだけど、なんか用件があるときの顔だ。
「蒼井くん、今週の木曜、AIの業者来るって知ってるか?」
「え、呼吸器の?」
「違う。院内全体のシステムにAI導入するんだとさ。患者データ、機器管理、オペ室スケジュール、自動最適化とかなんとか。今後の対応について、CEも一応聞いとけってさ」
「……はぁ。AIですか」
この手の話は、だいたい“やるだけやってうまくいかない”パターンが多い。
正直、あまり期待はしてない。だけど――なぜか少し引っかかった。
「俺たちの仕事、どんどん減っていくかもな」
根本さんは笑いながらそう言った。
でも、その笑顔の奥に、ほんの少しだけ寂しさが混ざっていた気がした。
「……逆に、増えるかもしれませんよ。やり方次第で」
そう言ったとき、我ながら変なこと言ったなと思った。
自分でも意味が分からない。でも口から出ていた。
医師のように診断するわけじゃない。
看護師のように患者と毎日向き合うわけでもない。
でも――このピーピー音の向こうには、確かに命がある。
それを守る手段が、新しい形に変わるとしても。
誰かがそれを、最初に“やってみる”必要がある。
「……まぁ、やってみないと分かりませんよね」
自分に言い聞かせるように、ぼくはそうつぶやいた。
第2章 AIがやってくれるなら
会議室の空気は、なんとなく重かった。
いつもの朝礼とは違う。今日の会議は「AI導入説明会」――本部が強制的に設定したらしく、医師・看護師・技師が一堂に会する珍しいパターンだった。
「それではこれより、医療AI統合システムの説明を始めます」
登壇したのは、スーツ姿の若い男性。どこかITベンチャーっぽい雰囲気を纏っていた。前髪、ちょっと長すぎないか? そんなことを考えながらも、ぼくは前列の端に座っていた。
プロジェクターが点き、スライドが映し出される。
“SmartMed CORE™ 〜院内業務をAIで再構築〜”
いや、なんかすごそうな名前だけど、どれくらい現場にフィットするのか。それが問題なんだよなぁ。
「本システムでは、電子カルテ、検査結果、医療機器の稼働ログ、患者のバイタル情報を統合し、AIが自動的にリスクを予測・警告します。これにより医療ミスを未然に防ぎ、効率化を実現します」
会場の一部が「へぇー」と軽くうなずいた。
でも、斜め後ろから聞こえたのは、あの根本主任の小声だった。
「……どーせ、あれだろ。音声入力で指示が通らないとか、バグだらけのやつだ」
完全に信用してない。
ただ、ぼくは逆に妙に惹かれていた。
自分の担当している機器たちが、つながって、話して、先回りしてくれる未来。
それって、もしうまくいけば、めちゃくちゃ面白いんじゃないか……?
「AIがやってくれるなら、私たちの負担も減るってことですよね」
そう呟いたのは、隣の森さんだった。
彼女は看護師として有能で、どちらかというと合理的なタイプ。でも、ぼくとは違って、現場の“熱量”よりも“結果”を優先する傾向がある。
「まあ、負担は減るかもだけど……“仕事”も減るかもしれませんよ」
ぼくがそう返すと、森さんは少しだけ眉をひそめた。
「……蒼井さん、そういうとこ、ほんと職人気質よね。なんかAIにライバル心燃やしてない?」
「いやいや、燃やしてるわけじゃなくて……怖いんです、ちょっと。便利になるのはいいけど、それって、ぼくらの価値が“なくてもいいもの”になったらどうしようって」
自分でも意外なほど本音が出ていた。
会議が終わったあと、部屋の外に出ると、何人かの技師たちが集まっていた。
話題はもちろん、今のAI導入の話。
「AIがルート決めてくれるらしいけど、それ現場の都合知らなすぎでしょ」
「うちの透析、患者一人ひとり条件違うんだけどなー」
「これで“技士いらんくね?”とか言われたら、笑えないって」
やっぱり、みんな不安なのだ。
自分の代わりが“できる”存在が来たとき、人はどうやって立っていけばいいのか。
でも、なぜかぼくの心には、不安と同じくらい、期待も膨らんでいた。
もしかして――これ、ぼくらCEが“進化できる”チャンスなんじゃないか?
翌週、AIシステムの一部運用が試験的に始まった。
まずは透析センター。
患者ごとの体重、血圧、除水量などが自動で読み込まれ、条件に応じて透析装置の設定をAIが提案してくれるというシステムだ。
実際にやってみると……驚いた。
設定の精度はかなり高い。少なくとも、新人技士よりは確実に“分かってる”。
毎回細かく計算してたあの作業が、クリックひとつで済むのだ。
「……これ、もう自分いらない説ない?」
冗談めかして言ったつもりが、自分の声が少しだけ震えていた。
現場はというと、看護師や事務の人たちは「便利になった!」と素直に喜んでいる。
医師の中には「余計な提案が多すぎる」と文句を言う人もいたが、概ね好意的だ。
そして、うちの根本主任は――
「はぁ……やれやれ、俺たちはいずれ“確認するだけの人”になるな」
なんて言いながら、ちゃっかり一番早く使いこなしてるのがズルい。
蒼井は、一人、中央監視室に戻ると、呼吸器の点検リストを眺めた。
そこには、患者名、使用機種、装置稼働時間、異常履歴がズラリと並ぶ。
そのうち半分は、もうAIが事前に診断していた。
異常傾向の予測グラフも、自動生成の報告書も、丁寧すぎるくらい正確。
しかも、今朝アップデートされた新機能は、異常を色付きの顔マークで表すようになっていた。
「センサー疲れ気味」「過加湿気味」「配管チェック推奨」
……それぞれに添えられた小さな顔マークが、なぜかほんのりとした表情を浮かべていた。
疲れてます、ちょっと困ってます、まあまあ平気……って、なんで機械のクセに表情あるんだよ。
正直、ちょっとウザかわいい。ぼくより人気出そうで、複雑だ。
「蒼井さーん、AIくんからまた通知来てますよー」
森さんが明るく呼ぶ。
うーん、“AIくん”ってあだ名が定着するの、ちょっとモヤるな。
でも、その時、ふとあることを思いついた。
「……ねぇ森さん。AIの提案って、ログ残ってますよね?」
「うん、全記録取ってあるらしいよ」
「それってさ、見方によっては、すっごい“教材”になるんじゃないですか?」
「教材?」
「だって、今まで新人が経験で覚えてたミスとか、対処の仕方とか。それ、AIはもう全部記録してるわけですよね。なら、逆にAIのやり方を“学ぶ”こともできるんじゃないかなって」
その瞬間、自分の中で何かがピンとつながった。
“AIに奪われる”んじゃなくて、“AIから奪う”。
技術、ロジック、思考パターン――それらを丸ごと吸収して、自分の中に取り込んでやる。
……それができたら、もしかして。
「AIに勝てるわけじゃないけど、AIを“超える”方法はあるのかもな……」
「は? なんか厨二っぽいこと言ってますけど?」
「いや、違う違う、ちょっと面白いこと思いついちゃって」
ぼくは笑いながらそう言った。
AIの時代に、技士の価値がどうなるかなんて、誰にも分からない。
でも、“誰もやってないこと”をやった先にしか、希望はないのかもしれない。
その日、仕事を終えて家に戻ると、ぼくはパソコンを開いた。
YouTube。動画編集ソフト。プロンプトのテキストファイル。
AIくんと、本気で遊んでみようじゃないか。
第3章 僕らの居場所はどこ?
「これ、どう思う? ちょっと面白くない?」
自宅のデスクに肘をつきながら、蒼井はノートパソコンの画面をじっと見つめていた。
映っているのは、AIが書いた医療解説のスクリプト。
タイトルは《“ピーピー音”が教えてくれる命のサイン ~臨床工学技士が語る5つの現場トラブル~》
「……あー、やっぱ長いな。あと固い。もっとこう、パッと目を引く感じで……」
気づけば声に出して喋っていた。
ひとり暮らし歴10年。誰かに突っ込まれることもない。
数日前から、蒼井は“ある遊び”に没頭していた。
病院では「AI導入がどうの」と言ってるくせに、プライベートでは、
生成AIをフル活用して医療系YouTube動画を試作していたのだ。
スクリプトはAIが書く。
ナレーションは合成音声。
イラストもAI生成、BGMもフリー素材。
蒼井自身はほぼ“編集と構成”だけ。いや、それすらも、AIにだいぶ手伝ってもらってる。
投稿した動画の本数、3日で12本。
登録者数、まだ9人(うち身内3人)。
だが――なぜか楽しかった。
機械のことなら語れる。現場の裏話ならいくらでもある。
そして何より、「誰かに話を聞いてもらえる」場が、ネットにはあった。
「今日のアラーム音は、ちょっと元気な“ピーピー”でしたね。え? 元気なアラームってなに? いや、あるんですって。経験上、だいたい音に性格ありますから」
そんなセリフも、動画に盛り込んでみた。
“医療系だけど、ゆるくて、ちょっと変”。
自分にしかできないバランスが、そこにある気がした。
翌朝、病院に出勤すると、いつもと違う空気が漂っていた。
「ねぇねぇ、なんかAIのシステム、トラブってない?」
「昨日から提案表示が出ないって話、主任がバタバタしてたよ」
またか、と思いながら機器室へ向かうと、根本主任が額に汗を浮かべていた。
「あ、蒼井くん、ちょっと手伝って。データ連携止まってる。多分ローカル側の通信なんだけど……」
結局、AIは万能じゃない。
システムが不調なら、結局“人間の出番”なのだ。
「やっぱり、最終的に見るのは人間ってことですね」
「おい、それ皮肉か?」
主任は笑った。
でもその後に、ふとこぼした一言が、妙に引っかかった。
「……俺たち、どこまで必要とされ続けるかな」
その言葉に、返す言葉が見つからなかった。
必要とされてるうちはいい。
でも、その“うち”が、いつまで続くかなんて、誰にも分からない。
午後、人工呼吸器の保守点検をしていると、ふと、あることを思い出した。
学生時代、実習で初めて触った呼吸器。怖くて震えながらボタンを押したっけ。
それが今では、機械の顔色を見て、不調を“察する”ことすらできるようになった。
――成長してきたんだ。
だから、また新しい場所でも、きっとやれる。
その夜、投稿した動画に、見慣れない名前からコメントがついていた。
《夜勤中に見ました。笑いながら泣きました。CEの仕事、もっと知られてほしいです》
たった一行のコメント。
でも、その一行が、びっくりするほど嬉しかった。
ぼくらの仕事は、誰かに見られるためのものじゃない。
でも、誰かが見てくれたなら、それは“伝える”ことになる。
「……ちょっとずつ、行ってみようか」
パソコンの画面を閉じ、ぼくは小さくつぶやいた。
“AIに追い抜かれるかもしれない場所”じゃなく、
“誰もいない場所”に行ってみる。
それが、ぼくらの居場所になるかもしれないから。
第4章 はじめて“バズる”ということ
朝起きて、歯を磨きながらスマホを開いた。
動画投稿アプリの通知が、なんかすごいことになっていた。
《コメントが50件追加されました》
《再生数:前日比+28,000%》
《登録者数 1280人に到達しました!》
「……え?」
完全に寝ぼけているのかと思って、もう一回洗顔した。
けど、通知は変わってなかった。
昨夜寝る前に投稿した動画。
タイトルは《医療機器の“ピーピー音”が教えてくれる意外なメッセージ》。
内容は、ただの解説動画だった。
現場でよくあるトラブルと、その音が持つ“性格”について、
「ピーピーって鳴る音にも、実は種類があるんです」っていう、ちょっとした持論を語っただけ。
編集も5分でやっつけたし、最後にうっかり「ではご安全に!」とか言っちゃって、もう自己満の極みだと思ってたのに――
再生回数、13万回。
コメント欄には、
「夜勤中に見て泣いた」
「CEって初めて知ったけど、めちゃくちゃ大事な仕事じゃん」
「声は合成っぽいけど、それが逆に味ある」
「ドラマに出てほしい」
「むしろアニメ化希望」
……え、アニメ? なんで?
「やば……バズってる……」
言葉が漏れた。
けど、心の中はもっと複雑だった。
うれしい。でも、こわい。
こっそりやってたことが、人の目に触れるって、思ってた以上にプレッシャーだ。
病院に行けば、いつもの日常が待っている――はずだった。
でも、今日はちょっと違った。
「蒼井くん、なんか動画やってるでしょ?」
最初に声をかけてきたのは、検査技師の高瀬さんだった。
スマホの画面を見せながら、「これ、あんたでしょ」と笑う。
「え、なんで分かったんですか」
「CEで、“ピーピー音の性格”って言ってるやつ、他にいないでしょ」
完全にバレてた。
それどころか、午後になるころには、看護師の森さんまで寄ってきた。
「蒼井さん、昨日の動画、うちの新人に見せたんですけど、“これ分かりやすいです!”って言ってました」
「あ……あー……はい、ありがとうございます」
どうしていいか分からず、謎に深くお辞儀した。
主任には……言わないでおこう。
さすがに怒られそうだし。
けど、そう思っていた矢先――
「おい、蒼井。お前、“ピーピーくん”ってあだ名になってるらしいぞ」
廊下で根本主任に呼び止められた。
「……それ、誰が言ってました?」
「医局の若い先生。動画で説明してるやつが妙に良かったってさ。お前、あれ、お前だろ」
「いや、その……まぁ、たぶん……」
主任は一瞬だけニヤッとした。
「別に俺は止めねぇけどな。ただ、現場を忘れんなよ。現場があるから、お前の話は響くんだ」
それは、怒りでも呆れでもなく、“認めた上での忠告”だった。
その日の帰り道。
駅のホームで、夜風に当たりながら、スマホを見た。
再生数は20万を超えていた。
通知は止まらず、いろんな人が「ありがとう」とコメントしてくれている。
医師でも看護師でもない。
テレビにも、ドラマにも映らない。
でも――ぼくらがやってきた仕事は、ちゃんと人の役に立ってる。
それが、たとえ“ネットの向こうの誰か”だとしても。
ふと、ぼくは思った。
「……これ、もっと広げたら面白いかもな」
病院の枠に収まらず、AIの力も借りて、
“臨床工学技士”って仕事を、ちゃんと“伝える”ための場所。
自分の“居場所”は、もしかしたら病院だけじゃないかもしれない。
そう思えた夜だった。
第5章 それでも現場は回ってる
「おいおい、また動画上げてんのか? CE系YouTuberさんよ」
それは、休憩室でおにぎりをかじっていたときのことだった。
背後から声をかけてきたのは、放射線技師の長谷川さん。
悪気はない……のかもしれないけど、ちょっとニヤニヤしたその顔が、妙に引っかかる。
「いや、まぁ……上げてますけど」
「すごいじゃん、バズってるって噂になってるぞ。『現場の声、代弁してくれてる』って。うちの若いの、感動して泣いたって言ってたぞ」
「え、マジですか」
そんなふうに言ってくれる人がいるのは、正直うれしい。
でも、その直後――
「たださ、あんま目立つとさ、“他の仕事しながら現場おろそかにしてんじゃないの?”って思われるかもよ」
おにぎりが、のどにつまりそうになった。
その場では笑ってごまかしたけど、内心はざわついていた。
ぼくは、ちゃんと仕事してる。
当直もしてるし、点検も抜かしてない。トラブルにもすぐ対応してる。
……してる、はずなんだけど。
その日の午後、ICUの呼吸器アラームが鳴った。
駆けつけたぼくを見た森さんが、少しだけ言いにくそうな声で言った。
「蒼井さんって、今……動画の仕事とかで忙しいんですか?」
「えっ?」
「いや、別に悪く思ってるわけじゃないんです。ただ……なんか、前より少し、ぼーっとしてる時あるなって」
森さんは優しいから、気を遣って言葉を選んでくれていた。
でも、その優しさが逆にグサッと刺さる。
AI動画に夢中になって、どこかで“現場”がおろそかになってたのかもしれない。
その夜、自宅に戻っても、動画編集ソフトを開く気になれなかった。
コメント欄には「ありがとう」の言葉があふれていた。
でも、いま一番考えるべきは、“ありがとう”を直接言えない患者たちのことじゃないか。
翌朝、少し早めに出勤した。
人工呼吸器のフィルターをすべて交換。
記録簿を一枚ずつ見直し、ログを手書きで再確認した。
AIは正確だ。
でも、“それを信じていいかどうか”を判断するのは、人間の仕事だ。
それが、CEの仕事なんだ。
「……ちょっとやりすぎじゃない? フィルター、今週分まとめて変えてたら、予算飛ぶよ?」
根本主任が、いつものように半笑いで声をかけてきた。
「いや、最近ちょっと気が抜けてたんで。初心に戻ろうかと」
「ふーん……まぁ、いいことだな。派手にいくのもいいが、結局こういう地味なとこが、命守るんだぞ」
主任は背中を軽く叩いて去っていった。
やっぱりこの人、いちばん“現場”を分かってるのかもしれない。
その日、病棟を回っていると、一人の患者さんのご家族が話しかけてきた。
「呼吸器、今日すごく調子よさそうで……ありがとうございました。ずっと、機械の音が怖かったんです。でも、なんだか今日は安心できます」
ぼくは思わず一礼していた。
「ありがとうございます。実はあの音、性格あるんですよ。今日のは“落ち着いてます”って顔してます」
「え? 顔……?」
ご家族は笑った。
その笑顔を見て、ふっと肩の力が抜けた。
動画が広まっても、注目されても、批判されても――
この場所は、変わらない。
ピーピー音の向こうにある命。
それを支える、この手。この技術。この勘。
ぼくはCEだ。臨床工学技士。
AI時代に、ちょっとややこしい立場になったけど、まだまだここに居る。
――それでも、現場は回ってる。
そして、その“回してる”ひとりになれているなら、それで十分だ。
第6章 やめとけって言われたけど
「いや、それ、やめといたほうがいいと思うよ。マジで」
その言葉を聞いた瞬間、蒼井の心の中で、小さな何かがカチッと音を立てた。
言ったのは、大学時代の同期、谷口。
今は大手病院のCE主任で、堅実にキャリアを積んでいる男だ。
久しぶりに飲もうと誘われて、駅前の居酒屋で話をしていた。
お互い、現場の愚痴を言い合ったり、昔話に笑ったりしていたのに――
蒼井が「実はさ、ちょっと起業も視野に入れてるんだよね」と言った瞬間、空気が変わった。
「だって、病院ってさ。保証されてんだよ? 毎月給料出るし、夜勤手当も出るし、機器に囲まれて安定してるし。なんでわざわざ外に出るの?」
谷口の言葉は正論だった。
それも、極めて常識的で、優しさからくるアドバイスだって分かっていた。
でも、蒼井には、それが――どうしても引っかかった。
「……じゃあさ、CEって、何のためにいると思う?」
「は? 急に何?」
「いや、本気で。俺たちの仕事って、医師や看護師ができないことを、“代わりにやる”だけじゃないと思ってる。
本当は、“まだ誰もやってないこと”に手を出す余地、あるんじゃないかなって」
谷口は、ビールのジョッキを置いた。
「……そういうこと言い出すやつ、だいたい最終的に臨床現場戻ってくるからな。
外に出たら分かるって。俺たちの強みは“医療の中にいる”ってことなんだよ」
「かもね。でも、俺は――やってみたいんだよ」
その夜、蒼井は酔いも回らず、自宅に戻った。
パソコンを開き、今まで作った動画の一覧を眺める。
どれも、夜勤明けに眠い目をこすりながら作ったものばかりだ。
テロップの誤字も多い。音声も棒読み。
でも、どれも“本気”でつくった。
そして、何より――
「それで救われた」って、言ってくれた人がいた。
「……俺、やっぱりこれ、もっと本気でやりたい」
自分の中に、確かに火が灯っていた。
翌週、病院に正式に“副業届”を提出した。
内容欄には「医療機器関連コンテンツ制作および情報発信活動」と書いた。
多少ごまかし気味だが、ウソは書いていない。
案の定、総務の担当者が書類を持って首をかしげていた。
「……これ、収益化してるってことですよね?」
「はい。広告収入と、ちょっとだけスポンサー契約も」
「はぁ……で、それは病院の医療情報には関係ないと?」
「ありません。現場を特定したことも、患者情報を出したことも、一切ないです」
「……まぁ、通らないことはないと思いますけど……上から何か言われるかもですよ?」
「言われたら、また考えます」
正直、胃が痛かった。でも、もう止まれなかった。
その週末、蒼井はYouTubeのプロフィール欄を更新した。
《医療機器の声を“翻訳”する仕事、臨床工学技士(Clinical Engineer)です》
《AIの時代でも、命を守るために必要な“技術”と“感性”を伝えていきます》
そして、もう一歩踏み出すために――
“AIMED”という名前のプロジェクトを立ち上げた。
臨床工学技士とAIを掛け合わせた、在宅医療サポートの新サービス。
オンラインでの機器使用相談、AIによる異常予測アラート、遠隔点検の予約支援。
まだ誰もやっていない分野。
「それ、やめとけ」と言われる分野。
だけど、それはつまり――“やる意味がある”ってことだ。
第7章 AIMED、始動。
「じゃあ、このカメラ、もうちょっと引きで。コードとか見えない方が“それっぽい”から」
「いや、俺、医療技師なんだけど。なんで今、YouTuberっぽいことやってんの……?」
蒼井は、狭いマンションの一室で、ダンボールの上にカメラを固定しながらつぶやいた。
背景には、呼吸器の模型と、AI支援システムのデモ画面。
テーブルの上には、コーヒーの空き缶と、ひたすらメモの山。
AIMED――
蒼井が個人で立ち上げた、医療機器支援とAIを組み合わせた遠隔医療サポートサービス。
といっても、まだ会社でも団体でもなく、ただの「個人プロジェクト」にすぎない。
始動、とは言ってみたものの――
できることは限られていた。
夜勤明けの身体にムチを打って、簡易な説明動画を撮影。
無料の予約フォームを作り、相談用のメールアドレスを公開。
AIチャットボットを外部ツールで組み込み、トラブルシューティングを自動化。
地味だ。
地味すぎて、自分でも笑えてくる。
けど、不思議と苦じゃなかった。
動画のコメント欄には、意外にも多くの声が届いた。
「祖母が在宅で酸素使ってます。業者は週1しか来ないので、こういうサービスありがたいです」
「誰にも聞けなかったので、助かりました」
「AIって医療にも使えるんですね。もっと広がってほしい」
そして、その中に――
一通の、短い、でも重たいメッセージが届いた。
《家で透析をやっている父が、機械の音にすごく不安を感じていて……。遠隔で何か分かるならお願いできませんか?》
蒼井はすぐに返信した。
翌日、Zoomでご家族と面談。機器の型番、稼働状況、使用環境をヒアリングし、AIと一緒に異常傾向を分析。
機器自体に問題はなかったが、音のパターンが通常モードではなかったことが分かった。
「たぶん“警告モード”に入ってるだけで、危険なエラーではないです。設定で音量下げて、表示優先にしましょうか」
「あの……本当に、ありがとうございます。こんなこと、誰にも相談できなくて……」
画面越しに頭を下げるその姿に、蒼井は返す言葉を失った。
たった15分。
でも、その15分で誰かの不安が消えるなら――それが仕事になるんじゃないか。
夜、久しぶりに高瀬真紀に連絡を取った。
「なに、珍しいね。何かあった?」
「いや、ちょっと聞いてほしい話があって。うち、AI使って遠隔医療のサポート始めたんだ」
「え、病院じゃなくて?」
「個人で。最初はただの動画だったけど、今は相談も受けてる。でね……それが、けっこう手応えあるんだ」
電話越しの沈黙。数秒後、ため息。
「……あんた、やるとは思ってたよ。でもさ、ひとりで全部やってるの? バカじゃないの?」
「……おっしゃる通りです」
「しょうがないな。私、最近検査室のAI化で暇になってるし、手伝おうか?」
「えっ、本当に?」
「週末だけならね。給与は、おにぎり2個でいいよ」
思わず、電話越しに声をあげて笑った。
その週末、高瀬が本当にやって来た。
モニタリングデータの解析を手伝ってくれたり、AIの予測ロジックに突っ込みを入れたり。
やっぱり、現場を知ってる人間の勘は強い。蒼井ひとりでは見落としていた視点が、そこにはあった。
「……やっぱり、こういうの、好きなんでしょ?」
「うん。好き。
好きだけど、怖い。でも、だからやりたいんだよ」
プロジェクトはまだ芽が出たばかり。
利益は出ていないし、病院との立場だって微妙だ。
でも、たしかにそこには、“誰かの助けになっている”実感があった。
それは、病院では感じにくくなっていた感覚だった。
週末の部屋には、コードとケーブルと、高瀬の文句が転がっていた。
「えーと、これデータ多すぎ。しかも整理してない。
AIがまとめてくれるって、あんた言ってたじゃん」
「いや、それは“まとめられる可能性がある”ってだけで……」
「うわ、広告みたいな逃げ文句使ってる」
「しかもそれ俺の会社……いや、団体名だし……」
ふたりして笑った。
なんてことない会話。
でも、誰かと一緒に笑いながらこの部屋で“仕事”するのは、初めてだった。
「さ……これ、本当にやるの?」
ふと、高瀬がパソコン画面から目を離して言った。
「病院、辞めるんでしょ? 覚悟あるの?」
「怖いよ。めちゃくちゃ。でも、やらない方が後悔するって分かってるから」
「……あんた、昔からバカみたいに正直だよね」
「誉め言葉として受け取っておく」
高瀬は黙って、マウスを握り直した。
「じゃあ、とりあえず、最初の100人までは付き合うよ。
それ以上バズったら、さすがに給与交渉するけど」
「いいよ。おにぎりから、カップ麺に昇給してあげる」
「……やっぱ辞めようかな」
AIMEDには、まだ看板も、場所もない。
でも、誰かがそこに“居てくれる”だけで、蒼井の世界は、確かに広がっていた。
その夜、メールボックスにもう一通、相談のメッセージが届いた。
《在宅のCPAP(睡眠時無呼吸治療機器)の使い方で困ってます。近くに相談できる人がいません》
蒼井は、即座に返信した。
《ご安心ください。こちらでログを確認し、状態を分析してみます。明日、Zoomでお話ししませんか?》
返事が来たのは30分後だった。
《ありがとうございます。実は、父が医療機器を怖がっていて、スイッチすら入れられないんです。
でも先生や病院に言うと“慣れです”って返されるだけで……誰にも話せませんでした》
蒼井は深く息をついた。
そうだ。これが、ぼくが“始めたかったこと”だった。
機械と人のあいだに、ひとりでもいい、寄り添える人間がいること。
それができるなら、肩書きなんて関係ない。場所だって関係ない。
「AIMEDって、さ……“AI+MED”の意味でつけたけど」
「ん?」
「本当は“間”って意味がいいなと思ってる。人と機械のあいだに立つ存在。それがCEで、これが新しい“医療の場所”」
高瀬はしばらく黙っていたが、静かにうなずいた。
「……いいじゃん、それ。
ちゃんと、バズりそうなセリフじゃん」
第8章 さよなら、白衣の背中
退職願を出したのは、雨が降った日の午後だった。
「……ほんとに、辞めるのか?」
根本主任が、書類に目を落としたまま、ぼくに言った。
いつもなら、皮肉のひとつでも飛んできそうなのに。
今日の主任は、やけに静かだった。
「はい。……自分で、やってみたくなりました」
「そうか。ま、止めろって言っても、聞くタイプじゃないもんな、お前は」
「いや……主任にだけは、言われたらちょっと揺れるかもって思ってました」
「今さら遅いだろ、それ」
ふたりして、ふっと笑った。
主任はしばらく黙っていた。
そして書類に判を押しながら、ぽつりと呟いた。
「俺はな……若いころ、人工心肺を専門にしてた。
“命を繋ぐ最後のライン”ってやつだ。責任も、誇りも、重かったよ」
「はい、主任の話、何度も聞いてます」
「うるせぇ。黙って聞け」
ぼくは姿勢を正した。
「俺の時代は、現場で“どう守るか”だけを考えていればよかった。
けど、お前らの時代は、“どう広げるか”も考えなきゃいけない。
医療のかたちは、変わる。変わっていい。……ただ、心だけは置いてくなよ」
その言葉が、胸に刺さった。
「ありがとうございます。……主任の背中、でっかかったです」
「は? 急に何、泣かせにきてんだ。……ずるいわ、お前」
書類を受け取る主任の手が、少しだけ震えていた。
退職の発表は、翌週のミーティングで行われた。
医師たちは軽く驚いた顔をして、「もったいないな」と呟いた。
看護師の中には「動画の方で成功したんですか?」と半笑いで聞いてくる人もいた。
でも、森さんは黙って、ただ頷いた。
「……蒼井さん、行くんですね。そっか。
なんか、“あの音に顔がある”って言ってたの、今でもちょっと信じてますよ」
そう言って、笑った。
「……ありがとう。現場で“ピーピー”聞くたびに、たぶん俺のこと思い出すでしょ?」
「いや、思い出したくないですけど?」
「うん、元気でいてください」
最終日、白衣を脱いでロッカーにしまったとき、不思議な感覚があった。
まるで“何か”が、背中から剥がれるような。
重かったけど、頼りにもしてた、その白衣。
それに、今日でサヨナラする。
帰り際、ICUの前を通ると、ちょうどアラーム音が鳴った。
ピッ、ピッ、ピーピー――
なつかしい音。慣れ親しんだ音。
つい、足が止まった。
中から出てきた後輩が、ぼくに気づいて言った。
「あ、もう対応しました! ドレン、溜まってただけっす」
「……おお、さすが」
「蒼井さんが言ってたじゃないですか。センサーの顔色見れば分かるって。あれ、マジで役立ってます」
ぼくは笑って頷いた。
もう、ぼくがいなくても、現場は回る。
それでいい。それがいい。
外に出ると、雨は上がっていた。
曇った空の向こうに、うっすらと光が差していた。
この道の先に、何があるのかは分からない。
でも、きっと――誰かが困ってる音が、聞こえてくる。
ぼくらCEの仕事は、“目立たないけど、なくてはならない”存在であり続ける。
そしてその役割は、病院の中だけじゃなく、
これからの世界の、どこにだって広げられる。
ぼくは、もう一度だけ、ロッカーの前に立って、こうつぶやいた。
「……ありがとう、白衣。
でも、もう行くね。こっちから、“現場”つくるから」
そうして、蒼井司は、医療の外へと一歩踏み出した。
ピーピー音のない世界に、
新しい“音”を響かせるために。
第9章 名前のない医療を届けに
「……で、このロゴ、AIが作ってくれたってのが、またイマドキだよね」
高瀬が苦笑しながら、AIMEDのウェブサイトを見つめていた。
背景は白。タイポグラフィはシンプル。
“医療とAIのあいだに、人を置く”というメッセージをこめたロゴには、静かな青いラインが一本走っている。
「なんか、真面目すぎる?」
「いや、いいと思う。“ちゃんとしたことしてる感”は出てる。……中身が伴えば、だけど」
「耳が痛い」
蒼井と高瀬は、都内の小さなシェアオフィスを借り、AIMEDの“現実的な立ち上げ”に取りかかっていた。
顧客対応、医療機器の使用相談、トラブルログの読み解き、遠隔点検のサポート――
サービス内容は、現場時代の延長線にある。
でも違うのは、“今、誰の看板も背負ってない”ということ。
病院という“安全地帯”を離れたことで、全ての結果がダイレクトに返ってくる。
クレームも、感謝も、数字も。
そして、もうひとつ大きな違いがあった。
それは、“制度に守られていない”という現実だ。
とある依頼が来たのは、サービス開始からまだ一ヶ月も経たない頃だった。
《呼吸器を使っている祖父が、退院後にトラブルを起こしてしまい、再入院。
病院では「在宅の管理ミス」と言われましたが、家族は何をどうすればよかったか分かりませんでした。
退院後のフォロー、手伝ってもらえませんか?》
蒼井は、オンラインで話を聞いたあと、実際に自宅まで足を運んだ。
機器の設置環境、湿度、フィルター、アラーム履歴、全て確認。
結果、原因は小さな排水管の角度のズレだった。
たったそれだけで、肺炎のリスクが高まっていた。
でも、在宅支援の枠では、その“角度”を見に来る人はいなかった。
「……これ、病院だったら、5秒で気づいてましたよね」
「だな」
高瀬が苦々しい顔でうなずく。
「でも、家だと、それが“家族の責任”になる」
蒼井は、手帳にこう書いた。
在宅の医療機器管理に、“名前”がない。
誰が見るのか、何をどこまでやるのか。曖昧なまま、“誰か”が責任を取らされる。
だから、蒼井たちは、名前のない“あいだ”を埋めに行く。
それが、AIMEDの本当の仕事だと確信していた。
その夜、初めて売上が立った。
呼吸器調整とオンライン指導料、訪問費、レポート作成料。合わせて9,800円。
「……これ、利益ある?」
「ないよ」
「ないのかよ」
でも、ふたりして笑った。
「金額じゃないんだよな。今のところは」
「うん。“必要とされた”って感じがある。……久しぶりかも」
その日、高瀬がポツリとこんなことを言った。
「うちの親もね、実は在宅酸素、やってたの」
「え……マジで?」
「うん。でも、当時は何も分からなくてさ。ピーピー鳴ってるのに、止め方も分からなかった。……だから、手伝いたいって思ったんだよ」
蒼井は、言葉が出なかった。
医療現場にいたはずの彼女が、それでも“無力だった”と語るその事実に、胸が締めつけられた。
ぼくらの知識や経験は、まだ“外の世界”に届いていない。
だからこそ、それを届けることに意味がある。
名前のない仕事。
でも、確かに誰かが待ってる場所。
それが、AIMEDの“スタート地点”だった。
第10章 ピーピー音が聞こえない夜
「……これ、訴えられる可能性あるかもって言われた」
その言葉を聞いたとき、高瀬はモニターの前で固まった。
蒼井は、言葉を飲み込んだまま、何も言えなかった。
発端は、ある在宅の患者からの依頼だった。
酸素濃縮器とCPAP(無呼吸治療機器)の併用使用に関するトラブル。
家族は「機器が誤作動していて、音も鳴らなかった」と訴えていた。
実際、データログ上は“軽度の誤作動”が発生していたが、使用者に異常アラートが伝わらなかった。
患者は一時的に呼吸困難となり、救急搬送。
命は助かった。
でも、家族は混乱し、その中のひとりが、こう言ったという。
「AIMEDの人が“問題ない”って言ってたのに、なんでこんなことに……?」
蒼井の頭に、あのときの映像がよみがえった。
面談時、確かにこう言った。
「現時点でログ上の異常は軽微ですが、音の設定はもう少し大きくしておきましょうか。
ただ、深夜の使用に関しては、医師と相談された方が安心かと――」
曖昧だった。自信がなかった。
そして、それを家族は“OK”のように受け取っていた。
「……医療行為には当たらない。でも、限りなく“責任”が求められる行為なんだよね」
高瀬が言った。
「病院だったら、責任は組織にある。
でも、今の私たちって……全部、自分に跳ね返ってくる」
その夜、蒼井は眠れなかった。
これまでも、数えきれないほど、ピーピー音を聞いてきた。
不安な音。苦しさの音。命の音。
そして、そのどれにも、答える自分がいた。
でも今夜――
その“音”すら、聞こえなかった。
もしかしたら、自分の関わり方が、誰かの命を危険に晒したかもしれない。
たとえ善意でも。たとえ、救いたいと思っていたとしても。
翌朝、蒼井は何も言わず、早朝の電車に乗った。
向かった先は、あの患者の家だった。
謝罪をするためでも、言い訳をするためでもなかった。
ただ、もう一度、顔を見て、話したかった。
家族は驚いていたが、扉を開けてくれた。
「もう、問題はありません。あれから業者が来て、全部機器を入れ替えてくれました。
……でも、あの夜は、本当に怖かった」
蒼井は深く頭を下げた。
「言葉が足りなかったと思います。
ぼくたちは、“病院じゃない場所”で医療を支える方法を、まだ模索している最中で……
でも、それって患者さんにとっては関係ないことなんですよね。本当に、すみませんでした」
すると、家族の中のひとりが言った。
「でも……あなたが来てくれたとき、父は安心したって言ってたんです。
“あの人は、ちゃんと機械の話を聞いてくれる”って。
だから、うちが責めるのは違うって思ってます。……ただ、もっと、ちゃんとしててほしかった」
それは、責任というより“願い”だった。
その言葉に、蒼井の胸が熱くなった。
「はい。ちゃんとします。もっと、ちゃんとしたサービスにします。
安心して“頼れる”ものに……CEという存在を、そういう仕事にしていきます」
オフィスに戻った蒼井は、高瀬に報告した。
「怒られた。でも……信頼は、まだ、残ってた気がする」
「……じゃあ、やるしかないね」
その週から、AIMEDのサービスは全体的に見直された。
● AI診断の結果に対する“人間の解釈”を必ず添える
● 使用者家族への“理解度確認”をチェックリスト形式に
● トラブル時の一次連絡先を明確にし、医師との連携を取る体制構築
手間も増えた。人も足りない。
それでも、やる価値はあると信じられた。
そんな中、古い友人から一本の電話が入った。
「お前……本当にやってたんだな。動画も見た、活動も聞いた。……で、俺、今の病院辞めたくてさ。AIMED、手伝わせてもらえない?」
それは、あの谷口だった。
夜、蒼井は思った。
たぶん、これからも失敗はある。
誤解されることも、制度に突き返されることも、きっとある。
でも、そういう時にこそ、「音が鳴らなかった」ことの意味を、
誰かに伝えられるCEでありたいと思った。
ピーピー音が聞こえなかった夜。
でも、その静けさが、蒼井にとっては、新たな“始まりの音”だった。
第11章 ありがとうを聞いた日
蒼井がその名前を聞いたのは、ある在宅支援イベントの運営会議だった。
オンライン医療・福祉系スタートアップが主催するカンファレンス。
AIMEDも小規模ながら出展することになり、蒼井と高瀬は資料作成やブース準備に追われていた。
「午後の登壇者で、患者さん側から一人、話してもらう予定なんだけどさ」
主催の一人が言った。
「透析と呼吸器、両方使っててね。在宅医療の支援を受けながら今も生活してる方。すごく前向きで、応援メッセージもくれてる」
「へぇ。患者側の登壇って珍しいですね。お名前は?」
「確か、藤原さん……藤原徹さんって言ってたかな。あ、どこかで聞いたことある?」
その名前を聞いた瞬間、蒼井の背中に冷たいものが走った。
藤原――
あの夜勤の記憶が、急に脳裏によみがえった。
数年前のある冬の夜、ICU勤務中、透析中に機器トラブルが発生した。
突然の警報。圧の異常。
夜勤看護師が慌てて呼びに来て、蒼井が対応した。
センサーの反応が微妙にズレていて、ラインの一本を交換してリセット。
その時、患者は半意識だったが、うっすらと目を開けていた。
蒼井は、ただ手を動かしながら、こんな言葉をかけた。
「もう大丈夫です。ちょっとトラブル起きただけ。……ちゃんと、直しましたから」
そのとき、患者が、ほんの少しだけ笑った。
その患者の名前を――
カルテで確認する余裕もなかった。
ただ、また“いつもの業務”として、その場を乗り切っただけ。
でも、あの時の“目”と“笑み”は、なぜか心に残っていた。
カンファレンス当日。
AIMEDの小さなブースに、思いがけない行列ができた。
「病院で教えてくれない“使い方のコツ”が分かるのが助かる」
「AIでアラート予測してくれるの、すごいですね」
「在宅透析の話、もっと聞きたいです!」
蒼井は対応に追われながらも、充実感に満ちていた。
自分たちの“届けたいもの”が、ちゃんと届いていると感じられた。
午後。登壇者紹介の時間が来た。
「それでは、患者当事者として、現在も在宅医療を受けながら生活されている藤原徹さんにお話しいただきます。どうぞ」
会場が拍手に包まれる。
ステージにゆっくり現れたのは、杖をつきながらもまっすぐ立つ、60代くらいの男性。
顔を見た瞬間――蒼井は確信した。
あの“目”だった。あの“笑み”だった。
「……数年前、私は集中治療室にいました。
夜中にトラブルが起きて、透析中に命が危ない状態になりました。
でも、機械を扱ってくれてた誰かが、その場を収めてくれたんです。
その人の名前は分からなかった。でも、あのとき、ぼくにこう言ってくれました」
会場が静まり返る。
「“ちゃんと、直しましたから”――そう言われたとき、不思議と安心したんです。
それまで、機械の音が怖くてたまらなかったのに。
“この人は、ちゃんと見てくれてる”って思えた」
蒼井は、立ち尽くしていた。
手が震えていた。
藤原さんは、ゆっくりとマイクを置き、会場を見渡して言った。
「今日、ぼくがこうして話せるのは、“名前も知らない技士さん”のおかげです。
もし、どこかにその方がいるなら――この場を借りて、言いたいんです。
ありがとうございました。あなたが、命を繋いでくれました」
高瀬が、横でそっとささやいた。
「……今、泣いていいよ」
蒼井はこらえきれず、顔を伏せた。
自分がやってきた仕事は、
誰かの心の中に、“ちゃんと”残っていた。
それは、給料でも、数字でもない。
“ありがとう”という、ただ一言の報酬だった。
カンファレンス終了後、蒼井は藤原さんに声をかけた。
「……あのとき、機械を調整した者です。
名前、名乗れなかったの、ずっと気になってて」
藤原さんは、驚いたような顔をして、すぐに笑った。
「やっぱり、あなたでしたか。……分かりました。目が」
「え?」
「“この人は、機械の音を聞ける人だ”って、あのとき思ったんです」
その言葉は、何よりもうれしかった。
音は、やっぱり届いていた。
誰にも知られず、誰にも注目されず、
でも、確かに“命に触れる”音を、ぼくらは聞いていた。
その夜、オフィスに戻って高瀬が言った。
「ねぇ、“AIにはできないこと”、分かった?」
「……ああ。“ありがとう”って、もらうには、“顔”が要るんだな」
医療機器の声を聞く仕事。
その声を、誰かに“伝える”仕事。
臨床工学技士(CE)という存在が、
“心と機械の間に立つ人間”である限り、
それは、AIにも、他の誰にも、奪えない。
そして蒼井は、もう迷わなかった。
この道は、間違っていなかった。
だって今、自分の“存在”が、ちゃんと届いたのだから。
第12章 世界に届くピーピー音
「なあ、“CE”って、日本にしかない職業名だったんだっけ?」
早朝のカフェで、高瀬がコーヒーをすすりながらつぶやいた。
窓の外には、まだ眠たそうな羽田空港の滑走路が見える。
「そう。“Clinical Engineer”って言っても、海外だとピンと来ないことが多い。
でも、ME(Medical Engineer)って言うと、工業寄りに思われる。微妙な立ち位置」
「でも、そろそろ“CE”で通じるようになるかもよ。あんたのおかげで」
「俺だけの功績じゃないよ。現場にいたみんなが、ずっとやってきたことだから」
AIMEDは、いま国際展開の準備に入っていた。
きっかけは、英語字幕付きで投稿したある動画。
「医療機器の音には“意味”がある――CEが命を救うとき」と題したその動画が、
海外の医療関係者や在宅看護のフォーラムで注目され始めたのだ。
「私たちの国にも、こういう仕事が必要だ」
「医師でも看護師でもない、でも命に近い場所にいる存在」
「その“間”をつなぐ役目は、AIにはできない」
蒼井は、もはや驚かなかった。
“誰かのあいだに立つこと”は、国境を越える。
それが“人間のするべきこと”なら、なおさらだ。
機内でタブレットを開くと、新しい相談が届いていた。
《マレーシアの地方部に住んでいます。
在宅で酸素療法をしていますが、支援が足りていません。機器はあるけど、使いこなせていないのが現状です》
言葉や距離は違っても、状況は同じだった。
“使える”と“使いこなせる”は違う。
医療機器を届けるだけでは、医療は届かない。
飛行機の中で、ふと蒼井は目を閉じた。
頭の中には、かつて病院で聞き慣れた“あの音”が浮かぶ。
ピッ、ピッ、ピーピー……
命がそこにある証拠。誰かが“守ってる”証。
それを、もう一度世界に届けたい。
音に意味を与える存在として。
そして、その意味を誰かの安心に変える存在として。
現地入りした翌日、現地医療スタッフに向けたセミナーの中で、蒼井はこう語った。
「私たち臨床工学技士、Clinical Engineerは、医師でも看護師でもありません。
でも、機械の音を“命の声”に変えることができる。
そして、AIがどれだけ進化しても、顔を見て、安心を与えることは、人にしかできない。
それが、ぼくらの仕事です」
通訳を通してその言葉が伝わるたび、
参加者の顔が少しずつ変わっていくのが分かった。
理解されていくこと。
それが“職業”をつくる。
それが“未来”になる。
帰国後、AIMEDのロゴが刷新された。
細い青いラインは、世界地図を横切るように配置された。
そして、その下に添えられた新しいタグライン。
“We connect life through sound.”
――音で命をつなぐ。
ある日、蒼井は久しぶりに元いた病院を訪ねた。
主任はもう定年退職し、静かな技士室に若手の声が響いていた。
「おー、伝説のYouTuberが来たぞー!」
「いや、もうそれやめてくださいって言ったじゃないですか……」
冗談を交わしながら、ふとICUの機器が鳴いた。
ピーピー……
「あ、この音、“湿度過多”のやつじゃない?」
若手の技士が、すぐさま調整を始めた。
蒼井は、ふと笑った。
ちゃんと、音は受け継がれていた。
帰り際、病院の玄関で、蒼井は空を見上げた。
誰にも気づかれなかった仕事。
それが今、たしかに世界に届こうとしている。
ピーピーという音の向こうにある命。
そのすぐそばに、誰かが立っていること。
そして、そこに立てることを、誇りに思える時代が来ている。
白衣のない背中でも、
病院の外でも、
どこにいても、ぼくらは“命を守る現場”に立てる。
CEという言葉が、世界中の誰かの口から自然に出るその日まで。
そしてそれが、当たり前になる未来まで。
蒼井は、歩き続ける。
人と機械の、その“あいだ”を照らす音を携えて。
エピローグ それでも、音は響いている
光が差し込む窓から、東京湾がゆるやかに広がっていた。
背の高いガラス越しに見える景色は、まるで一枚の静かな絵画のようだった。
ここは、AIMED本社の最上階――
と言っても、いわゆる“成金風”のキラキラしたオフィスではない。
白と淡いグレーを基調にしたシンプルな空間。
デスクの上に置かれているのは、PCと最新の在宅機器のデモ機。
そして、一冊の古びたノート――学生時代から使い続けている、メモ帳。
蒼井司、35歳。
今ではAIMEDグループCEO。社員数は100名を超え、
日本全国と数カ国で、在宅医療×AI支援を展開している。
でも、本人はというと――
「今日のピーピー音、ちょっとご機嫌ナナメだな」
そう呟きながら、試作品の人工呼吸器にイヤホンをあてている。
社長室のソファではなく、機器ラボの床に座り込んで。
あいかわらず、社長らしさゼロだった。
住まいは、東京と沖縄の二拠点。
都心の高層マンションと、海の見える平屋の別荘。
朝は自分でコーヒーを淹れ、夜はAIにその日の相談メールを読み上げてもらいながら寝る。
高級車は一台あるが、ほぼ乗らない。
移動は電車か、たまに電動自転車。
誰かに見せびらかすための“成功”ではない。
ただ、自分が納得して生きられる“選択肢”を手に入れたというだけだ。
画面越しに、ひとりの若手技士が映った。
「蒼井さん、CEになって本当に良かったって思える瞬間、ありますか?」
蒼井は少しだけ考えてから、答えた。
「うーん……あ、今。
こうして“それを聞いてくれる人”がいるってだけで、もう十分かも」
午後のスケジュールには、海外の医療系大学との共同研究の会議。
そのあとは、地方自治体との在宅医療支援モデルの打ち合わせ。
でも、最後の枠だけは毎週ブロックしてある。
“現場復帰デー”――
月に一度、自らが地域の在宅現場に出て、実際の患者と向き合う時間。
呼吸器の調整、酸素濃縮器の設置、時には不安を抱えた家族の話を聞く。
その日も、ある年配の患者宅で、機器の音がかすかに鳴っていた。
ピッ、ピッ、ピーピー……
「この音……なんか、優しい音に聞こえませんか?」
「へぇ、そうですかね?」
「うん。今日は、機械が“がんばってるけど、安心して”って言ってるように聞こえます」
患者は笑った。
蒼井も、自然と笑っていた。
AIがあっても、人間の温度があってこそ。
それを知ってる技士たちが、今、全国に増えている。
帰り道、夕焼けが町を包んでいた。
蒼井は、手帳にそっと書き足した。
“成功”ってきっと、他人にすごいと思われることじゃない。
自分が納得して、笑えて、誰かに「ありがとう」と言ってもらえることだ。
今日もどこかで、誰かのベッドのそばで、
機械が静かに音を鳴らしている。
そして、その音に耳を傾けている誰かが、きっといる。
それが、臨床工学技士という仕事。
それが、未来に残していきたい“あいだのプロフェッショナル”。
ピーピー音は、まだ鳴り続けている。
世界のどこかで、命が動いている証として。
蒼井司は、それを聞き逃さない。
これまでも、これからも。
完結
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
ぼく自身、医療職ではありませんが、
医療現場の“見えないプロフェッショナル”である臨床工学技士の方々と出会い、
彼らの存在の大きさを知って、どうしても物語にしたくなりました。
この作品はフィクションですが、
実際に、医療の外で新しい価値を届けている方々へのリスペクトをこめています。
「誰にも知られなかった仕事が、
気づいたら誰かを救っていた」
そんなことが、きっとこれからもっと増えていくはずです。
また次の物語でお会いできたらうれしいです。
感想、レビュー、お気軽にお待ちしています!