ご主人には秘密がある
おまえの秘密を知っている。
ポストに投函されていた手紙にはそう書かれていたらしい。
「ただの悪戯では?」
私が言うと、ご主人は気難しい顔のまま「だといいが」とつぶやいた。
「しかしなあ……」
ご主人は頭を抱えながら手紙をジッと見つめる。そうしていれば手紙が消えるわけでも、書かれた文字が変わるというわけでもないのに。
まあ、ご主人が頭を抱えるのも無理はない。なぜなら秘密というものに心当たりが無いかと言われれば否であるからだ。
ご主人にはちょっとした特殊能力がある。
「それはそうとご主人。私のごはんの時間だ」
「おっとごめんよ」
ご主人はソファから立ち上がるとキッチンの戸棚を開け、キャットフードを取り出した。計量スプーンで救い上げトレイにこぼす。
「それとご主人。トイレを掃除しておいて欲しい」
「はいはい。お姫様」
「お姫様じゃない。私はヒメだ」
「分かってるよ。ヒメ」
肩をすくめ、にっこりとご主人は微笑む。その後、気難しい顔に戻ると、私のトイレの掃除を始めた。
ご主人にはちょっとした特殊能力がある。それは人でありながら猫の言葉が分かるというものだ。そして私にもちょっとした特殊能力がある。それは猫でありながら人の言葉が分かるというものだ。
私は光の束のような麗しき純白をその身に纏う猫である。雑種と言えばカッコ悪いが、究極のハイブリッドと言えば、いくらか聞こえはよくなるだろう。
「それにしても……困ったなあ……」
ご主人はまたもソファに座ると手紙を見つめた。その姿は何かの映像で見たことあると思ったら『考える人』のブロンズ像によく似ていた。
「悪戯かもしれぬ手紙に心配をめぐらすのも不毛だろう。この件はいったん様子見にしては?」
「悪戯でなかった場合はどうする?」
「それでもいいのでは? ご主人の能力など取るに足らぬものなのだから。ご主人のことをどうこうしてまで手にいれたいと思う力でもないだろう」
「取るに足らぬか。言ってくれるな」
「そうだと思うが? 猫の言うことが分かったところで、猫が人の言葉を分からないのだから」
「分かる猫もいる」
「私以外にか?」
ご主人は押し黙ると、手の甲に顎を乗せ俯いた。ご主人はついに完ぺきな『考える人』となった。
「そう考える猫好きがいても可笑しくない」
なんとも低い声で言う。
「そんな阿呆なやつはいない」
「知ってるか? 猫好きな人間は猫のことになれば、みな阿呆なんだよ」
「どんな阿呆だとしても、悪趣味な手紙を送りつけて、しめしめと楽しむのが関の山だろう」
「それはどうかな。猫好きの阿呆を舐めてはいけない」
ご主人は何かを決意した顔で立ち上がった。すると、うなじをつたう黒髪がサラサラと流れた。
「どうするのだ?」
「近いうちにここを引っ越そう。ヒメ。このままではおまえの身にも危険が及ぶかもしれない」
「こんなときにも自分のことより私の心配か。ご主人は相変わらずだな」
ご主人はもともと神経質なオスではあるが、私のこととなると過保護すぎるきらいがある。車が危ないからと外を散歩もさせてくれないし、足を滑らせたらたらいけないとベランダにすら入れない始末だ。困ったことに、猫好きの阿呆は一番近くにもいたらしい。
「今日はもう寝るから。夜中に暴れまわるなよ?」
「うむ」
素直に頷いた。意味も無く夜の一匹大運動会をお披露目してもいいが、翌日にこっぴどく叱られることは目に見えているのでやめておこう。
「ご主人。ちゃんとシャワーは浴びたか?」
「風呂は嫌いだ」
「また人間のメスに臭いと言われてしまうぞ?」
「それは困るな……」
全く猫じゃあるまいし。私はあきれ果てながら、とぼとぼと浴室に向かうご主人を見届けるのだった。
ご主人の朝は十発の猫パンチから始まる。
「ご主人ご主人ご主人ご主人ご主人ご主人ご主人ご主人ご主人ご主人。朝だ」
ご主人と唱えた数だけ頬を叩く。そうするとご主人は私の頭に手を置いて目覚めを知らせる。
「毎回思うんだが……9発多くないか?」
「しかし十発叩かないとご主人は起きない」
「そうなのか?」
「そうだ」
嘘だ。本当は3発もあれば十分だろうが、わざわざ毎朝の楽しみを自分で減らしてなるものか。
「なら仕方ないか。いつもありがとう」
ご主人はめっぽう朝が弱い。こうして私が起こさなければ仕事に遅刻した日は数知れないことだろう。人間であればまだ若い部類であるが、それでもご主人は立派に成熟した大人だ。寝坊で遅刻などしたら、なんとも情けない話である。
「もっと熟睡できる体になりたいものだ」
眠そうに目を擦りながら大きな欠伸をすると、ご主人は洗面台に向かった。
「ご主人はいつも眠そうにしている」
私は洗濯機の上に座り、ご主人が顔を洗うのを見守る。
「人間の生活は睡眠不足との戦いなんだよ」
わっはっは。あまりにも滑稽な言葉に私は思わず高笑いをしてしまう。
「それを猫の私の前で言うか。私の一日の睡眠時間を知っているだろう? 16時間だ」
「おまえはしっかりその時間眠れているじゃないか」
「うむ。だからご主人と違い寝不足ではない」
「羨ましい限りだ」
ご主人はスーツに着替えると、慌ただしく出かけて行った。自分の朝食は食べないくせに私のごはんはしっかりと忘れずに置いていく。毎日毎日忙しそうなのにご苦労なことだ。感謝はしておかなければならないと思いつつ、私はキャットフードを貪るのだった。
夕刻になるとご主人は返って来た。
昨日と同じようにソファに座り、またも何か怪しげな手紙と睨めっこしている。
「また届いていたのか?」
「ああ……。住所の記載は無いから、わざわざ直接ポストに投函しているんだろうな」
「今度は何と書いてある?」
ご主人は私をじっと見つめた。それから手紙に視線を戻し、おでこに皺ができるほど眉をひそめてから、また私を見た。
「『秘密をばらされたくなかったら、おまえの一番大切なものを差し出せ』そう書いてある」
ぞわぞわと尻尾に悪寒が走った。ご主人の一番大切なもの? 私ではないか!
「や、やっぱり悪戯だろう……! この手紙を投函している者はきっと他のポストにもたくさん同じ手紙をばらまいている愉快犯に違いない。そうに決まっている!」
「昨日と同じことをいうが、これが悪戯でなく本当だったらどうする。ヒメ。狙われているのはおまえなんだぞ?」
私はその場でぐるりと一周回ってからペタリと絨毯に座り、前足を舐めた。こういう時こそ大事なのは冷静さだろう。落ちつかねば。
「ご主人は私のことになると冷静に物事を考えられていない」
「そんなことないさ」
「なら答えてみて欲しい。一度も家の外に出たことの無い猫の存在を、ましてやその秘密を、どうやってご主人以外の人間が知れるというのだ?」
「それは……」
ご主人は回答に困っていた。それもそのはずだ。答えなどあるはずないのだから。
「ご主人。提案がある」
「却下だ」
「まだ何も言っていないぞ」
「どうせおまえは危険なことを言い出す」
ご主人の勘は当たらずも遠からずだ。
「きっとその愉快犯は明日も直接投函しに来るのだろう。ならば私がポストを見張ろう。そうすれば何者がどんな目的で投函しているか分かるかもしれない」
「駄目だ。危険すぎる。犯人にどうぞヒメをさらって下さいと言っているようなものだ」
「物陰から見張れば気付かれないだろう」
「気付かれたら?」
「逃げおおせるさ。猫の脚力に人が敵うものか」
「しかしなあ……」
慎重派のご主人はまだうんうんと悩んでいる。過保護もここまで行き過ぎると困りものだ。
「決断せよ。ご主人。敵が分からないままでは適切な対策は打てないのだから」
ご主人の褐色の瞳が私を見る。まだ渋い顔をしていたが、どうやら覚悟を決めたようである。
翌朝、私とご主人はマンションのエントランスにいた。初めて味わう住処の外の光景に、匂いに、不安こそあったけれど、それ以上に興奮が勝った。
「ここに入ってくれ」
ご主人はひそひそ声で言うと、家と同じ部屋番号表示のある宅配ボックスを開けた。私はぴょんと飛び跳ねてその中に入る。ご主人はキャットフードと水がそれぞれ入った二つのトレイを中に置くと、扉を閉めた。
「確かにここなら見つからなそうだ」
扉の隙間からは外の様子が覗け、ポストも近くにあるから誰かが投函しようものならその姿をしっかりと拝めるだろう。
「鍵のようなものが見受けられるが、鍵はかけてくれるなよ? ご主人」
「何を言っている。かけるに決まっているだろう。それが一番安全なんだ」
「恐ろしいことを言うな! そんなの新手の虐待ではないか!」
「おまえが望んだことだろう」
「箱の中に閉じ込めろなどとは言っていない!」
「分かってくれ。おまえのためだ」
なんとも都合のいい言葉ではないか。己の安堵のために自分を正当化しようとしているだけのくせに。住処の外に出た興奮もあったかもしれない。その言葉は私の毛を逆立てた。
「そんなことをしようものなら誰かに見つかるまで、ここでミャアミャアと鳴きわめいてやる! そうなれば私を見つけた者は動物虐待だと騒ぎ出すだろう! これは困ったなご主人! 愉快犯どころではなくなってしまう!」
「おい。頼むからあまり騒がないでくれ」
「お困りのようだなご主人! ならもっと騒いでやろう! ここで爪とぎをしてキィキィと不快な音まで奏でてみせよう!」
「分かった! 分かった! 鍵は閉めない!」
「本当だな?」
「本当だ」
扉の隙間から覗くご主人の瞳は嘘を憑いていないようだ。ならばこちらも心を鎮めようではないか。
「ならばよい」
「そうしたらこうしよう……」
ご主人はどこかへ姿を消すと直ぐに戻って来た。小さな段ボール箱を抱えている。それを宅配ボックスの手前に置くと「もし扉を開けられることがあったらこの後ろに隠れろ」と命じた。さすが慎重なオスである。
「絶対にここから出ないでくれよ?」
「無論だ」
不安そうな顔を残しつつ、ご主人はネクタイを締め直してから会社に出かけていった。
愉快犯が現れたのは私の体内時計を信じるならば昼頃だった。
それは、歳は四十の頃のオスに見えた。アロハシャツに短パンという愉快犯という蔑称に相応しい愉快な格好をしている。間違いなく宛名の無い一通の手紙をご主人のポストに投函していた。しかし、他の部屋のポストには何も入れていないようだ。これは少し雲行きが怪しくなってきた。このオスの狙いは本当に私ということなのだろうか。
愉快犯がエントランスを出ていったのを確認すると、私は勢いをつけ扉にタックルした。
扉は想像以上に簡単に開き、私は宅配ボックスの外に出ることに成功した。
絶対にここから出ない? フフフ、そんなわけがなかろう。
私は軽快に足を運び愉快犯の後を追いかけた。
愉快犯はマンションを出て間もなく、人気の無い裏路地に入った。奥は行き止まりで何もない。猫や鼠ならまだしも、人が通るには道とは言えない。
何をするつもりだろうか、と物陰から覗いていると、なんとも奇妙なことが起こった。
さっきまで人の姿だったはずのオスがぐにゃぐにゃと粘土のようにその姿を変えていったのだ。そして最終的にはキジトラ柄の猫となり建物の影に消えていった。
私は口をパクパクとさせながら帰路に着くのであった。
「人が猫に姿を変えたのだ。まるで粘土のように」
私はこの目で見た一部始終をご主人に伝えた。
「そうか……」
思いのほかご主人は驚いていなかった。ただの戯言だと受け止めているのだろうか。
「絶対に外に出るなと言ったのに」
そう言うと頭を抱え、机にうつむく。
「しかしご主人、その甲斐あって私は敵の尻尾を掴んだのだ。それに目の前の私を見ろ。無事ではないか」
「結果論だ。何かが間違えば死んでいたかもしれない」
「大袈裟だな」
毎度のことだが、よくもまあ悪い妄想ばかり浮かぶものだ。その豊かな想像力には感服する。
「いったいあれは何者なのだろうな?」
ご主人の返事は無い。
「今日の手紙にはなんと書いてあった?」
返事が無い。ただの屍のように。
「ご主人。なぜ黙る」
「ヒメ」
ご主人は私を持ち上げると、ふわりと胸に抱き寄せた。
「今夜はたくさん一緒に遊ぼう」
「愉快犯はどうする?」
「ただの愉快犯なら問題ない」
「粘土のように姿を変える者がただの愉快犯であってたまるか」
「俺達に危険があると決まったわけではない」
いったいどういうことだ。さっきまでと言っていることが全く真逆ではないか。連日の奇妙な手紙に精神がおかしくなってしまったのだろうか。
「ご主人の言っていることは変だ」
「ヒメ」
吐息の混じった声が私の白い毛をするすると縫っていき、肌をなぞる。ご主人に耳元で名を囁かれるのは嫌いではない。
「今だけは俺がおまえに甘えさせてくれ。明日はちゃんとするから。お願いだ」
甘え上手は猫の専売特許だと思っていたが、案外このオスも中々やるじゃないか。
「ご主人。この怪我は?」
ご主人の右腕に二本の細長い傷を見つけた。
「今日、転んで擦りむいたんだ」
転んで擦りむいた傷と言い張るには無理があった。たぶんご主人は何かを隠している。それを今訊くのは無粋というものだろう。
猫だからこそ分かる。甘えたくなる衝動というのは止められぬものだ。
いいだろう。いつも世話になっている恩をこの一夜に凝縮して返そうじゃないか。
「よかろう。今夜はご主人様の甘え力がいかほどか評価してやろう。心してかかれ」
クスクスと笑いながら、ご主人は会社での愚痴を語り出した。私はご主人の膝の上で丸くなり、相槌を打ち続けた。夜の一匹大運動会をお披露目してやった。私が部屋中をピョンピョンと飛び回るのを面白がり、ご主人までベッドの上で柄にもなく跳ね出したので、一人と一匹大運動会となった。その後はベッドで横になるご主人の体を私の肉球で踏み踏みとマッサージをしてやった。こんなにも幸福そうなご主人の顔を見たのは初めてだった。今後も偶にはしてやろうと思った。
気付けば朝になっていた。今日は猫パンチせずともご主人は起きている。
玄関に立つと振り返り、ご主人は言う。
「行ってくる」
いつも忙しそうなご主人はその言葉を背中で語っていた。しかし、今日ばかりは私の目を真っ直ぐに見つめて言う。何かがおかしいのは分かっていた。間違いなく、ご主人は何かを隠している。
「ご主人。私になにか言う事はないか」
「なにも」
よろしい。ならば飼い猫に出来るのはご主人の帰りをただ待つのみである。
だからこそ堂々と「うむ」と見送ったのだった。
ことが起こったのはご主人が住処を発ってから一時間ほど後のことだった。
こんこん、と窓を叩く音が聞こえた。窓に近づきカーテンを潜ると見知らぬ猫が二匹、ベランダにぽつりと座っていた。灰色の毛のオス猫と茶虎模様のメス猫だった。
出し抜けにオス猫は言った。
「猫神様。お出迎えにあがりました」
「猫違いだ。おまえらのことは知らぬ。勝手に出迎えるな」
沈黙が訪れた。オス猫は訳が分からぬという顔で髭を痙攣させているが、訳が分からぬのはこちらとて同じだ。
「弧太郎殿から何も聞いておられぬのですか?」
「何のことだ? そして弧太郎とはどこのオスのことだ?」
「まさか何も話していないとは……。しかし彼の心中を察すればこそ、気持ちは分からなくもない」
愉快犯からの手紙。昨夜のご主人の変わりよう。何かを隠しているご主人。それらのぼんやりとした違和感の群れが、このオス猫の話に繋がりそうな、そんな気がした。
「聞こう。私に全てを話してくれ」
オス猫は丁寧に頭を下げた。そして目線だけ上げると「窓を開けてくれませぬか?」と平身低頭して頼み込んだ。
「これは人工物を挟んでするような話ではありませぬ」
「馬鹿を言うな。猫にこの窓を開けられると思うか?」
「出来るはずです。あなたは我ら猫神一族、その当主様なのですから」
途端にオス猫の姿がみるみると形を変えていった。粘土のように、あの愉快犯のように。そしてオス猫は立派な白髭を貯えた老人に変わり果てた。
「なにが……」
「あなたにも同じことが出来るはずです」
「で、できるわけがなかろう! 私は産まれてこの方、人間になったことなど一度もない!」
「それはなろうと思ったことがないからです。あなた様であれば修練なくとも出来るでしょう。さあ、イメージしてみてください。人間のお姿になる自分を……」
そんなこといきなり言われたところでさっぱり分からない。空気を掴めと言われている気分だ。人間の姿になる自分をイメージするといっても何かコツとかはないのだろうか。
「お見事です」
「は?」
顔を上げると窓に見知らぬ少女が映っていた。子供ではないが大人になりきれていない、そんな少女が。
「これは私か……!」
「人間になられても、お美しいですな」
このオスは適当なことを言う。人間の容姿の良し悪しなど区別もつかぬくせに。
「ひとつ質問がある」
「なんなりと」
「おまえはしっかり服を着ているな」
「はい。これは人間の常識のようです」
「なぜ私は裸なんだ?」
「いくら猫神様とはいえ服まで変身するには修練がいるようですな」
「そうか」
私は窓を開けベランダに出た。メス猫が強い敵意で睨んできたが、今は無視した。その睥睨の意味は気にはなるが、オスの話を聞くことの方が最優先事項だ。
「これでいいだろう? 早く話を聞かせろ」
まさか私にもこんな能力が備わっていたなんて。なおさら話を聞かずにはいられない。
「どこから話せばいいか」
とオスは腕を組んだ。
「先に言ったとおり、あなた様は猫神様で、そして我らと弧太郎殿はあなた様の従者なのです」
「その猫神様とはなんだ?」
「あなた様もご体験したとおり、猫神一族のものは猫から人へ姿を化けることができるのです。そんな我ら猫神一族の当主を猫神様と、そうお呼びしています。先代猫神様はあなた様のお父上でした」
「父か……。顔も覚えておらぬな」
「はい。あなた様が産まれて間もなく、お父上は亡くなられておられますから。およそ一年前のことでした。その死が全ての悲劇の始まりだったのです」
オスはちらりと私の顔を窺った。私が悲しみに打ちひしがれるとでも思ったのだろうか。記憶の欠片もない父上に、感情移入のしかたなど分からぬというのに。
「続けろ」
「先代猫神様は……いえ猫神様は代々、人間との共存を望んでおられました。しかし、それを快く思わぬ派閥もいるのです。人間を出し抜き、従えさせようという過激派の者どもが。あなた様のお父上の死は、そんな彼らに火を灯した事件でした」
「なにがあった?」
「車というものを知っていますか?」
「知っている」
「それに轢かれたのです。それはつまり、人間が猫神様を殺したということ。共存を誰よりも望んでいた猫神様を」
車が危ないからという理由で、ご主人は私を外に出さなかった。詭弁のひとつだと思っていたが、あながちそうでもなかったらしい。
「過激派の者は黙っていないだろうな」
「仰るとおりです。この一件から過激派の勢いは増していきました。その勢力は我ら保守派も優に凌ぐほどでした」
「保守派?」
「代々の猫神様の意思を継ぎ、これまでどおり人間との共存を望むが保守派です。我ら保守派の拠り所は情けないことに、生後三日で猫神様となられたあなた様でした」
「さぞ無力だったろうな。私は」
「そんなことはございませぬ。我ら一族を支えてきた猫神様という名自体に強い威光がございます。しかし、その強い光も盲目となった過激派の目には映らなかったようです。そうして見境の無くした過激派はついに行きつくところまでいきました」
そこでオスは目を伏せた。皺だらけのその顔がより悲壮感を増長させる。
「保守派の象徴であるあなた様を殺すべきだと……」
「そういうことか」
ばらばらだった点と点が繋がっていく。
「ここは私の隠れ蓑だったということか。だからご主人は家の外に私を出したがらなかった」
「はい。過激派の勢いを止められなかった我々が、何とかあなた様の命だけはお守りしようと努めたのがこの現状なのです」
「すると愉快犯は過激派の者で、ご主人は弧太郎という者のことか」
「いかにも」
グルグルと唸る声が聞こえた。それはメス猫から発せられた憎悪にまみれた音だった。
「おい! やめぬか! 猫神様になんて無礼な態度を!」
オスが叱りつけるが、メス猫は息を荒くするだけだった。
「申し訳ございませぬ。これめは弧太郎殿に妹のように可愛がられていたゆえ、あなた様に思うところもあるのでしょう」
「分からぬな。それがどうして私に怒る理由になる?」
「それがこれからの話に繋がるのです……」
嫌な予感がした。そんな予感を振り払おうと努力した。しかし同時に分かっていた。嫌な予感というものは当たるものだ。
「話してみろ」
「過激派の者どもはついにあなた様の居所を突き止めました。どうやってかは分かりませぬ。窓辺に座るあなた様を偶然見つけただけなのかもしれません。いずれにせよ突き止めたのです。あの手紙は脅迫文でした。大人しく猫神様を差し出せという。当初はここからさらに逃亡することも考えました。しかし、者どもの執念の凄まじさを考えれば、逃亡は延命にしかならないと我らは結論づけました」
「ならばどうするのだ?」
「昨日、弧太郎殿は過激派のねぐらに赴き、とある交渉をしにいきました。そこで何があったかは、弧太郎殿は多くは語ってくれませんでした。しかし交渉事は上手くいったようです」
「その交渉とは?」
「猫神様の代わりに弧太郎殿の命を差し出すのです」
鈍器で殴られたような衝撃が頭に走った。その後に、ありとあらゆる負の感情が、頭からつま先にかけて血のようにどろどろ沈殿していく。
「道理が通らない! なぜご主人の命を差し出せばよいという話になる! やつらの狙いは私なのだろう!?」
「一年前とは状況が違うのです。今や我ら保守派の勢力は指球で数えられるほどしか残っていないのです。そんな状況になるまで一年間隠れ続けただけの猫神様より、猫神様を一年間守り通した弧太郎殿の方が脅威と見られたのでしょう。そう思わせるために我々が誘導したのもありますが……」
「つまりご主人は今日、私を守るために死地に向かったということだな!?」
「左様です」
行ってくる。朝のご主人の言葉が鮮明に蘇った。様子がおかしいのには気づいていた。なぜあの時、私はご主人を呼び止めなかった! 真実を追求しなかった!
「なぜ……。ご主人はなぜ私にそんなことを隠していたのだ……! 真実を言ってくれなかったのだ……!」
「それを伝えようとすれば全部話せばなりませぬ。あなた様の父上のことも。今日という日のことも。それが辛かったのでしょう……」
「阿呆め……」
阿呆だ。ご主人は阿呆だ。今世紀最大の阿呆だ。言ってくれさえすれば、私は全力で止められたのに。
「あなたのせいです!」
メス猫の声が響いた。ご主人と同じ褐色の瞳が、私を睨んでいる。
「あなたがこんなところに隠れて何も知らずに、のうのうと生きて来たから兄上は死ぬのです。あなたの代わりに死ぬのです! どうして従者一匹も守れぬのですか!? あなたは猫神様なのに!」
「黙らぬか! よりにもよって猫神様を責めるなど――」
「黙るのはおまえだ!」
私はオスの顎を掴んだ。何にも気づけなかった愚かしい自分に苛立ち、手が震える。
「そのメスの言っていることは正しい。私のためにご主人は死んではならない。まだ間に合うかもしれない。ご主人がどこに向かったか言え」
オスは固く口を閉じ、首を振った。
「絶対に言えませぬ。あなた様さえ生きていれば、我ら一族は再び光の道を歩めるはずです……! あなた様は死なせない! 弧太郎殿と最後に交わした約束なのです!」
「言え!」
「言いませぬ……!」
「北西に……」
メス猫が切り出すと「やめぬか! やめろ!」とオスは騒ぐので、その口を塞いでやった。
「北西に見える山に向かえば一本道の山道があります! その山道の突き当りにある禰古末神社がやつらの拠点です!」
「恩に着る」
そう言い切るより前に、私はベランダから飛び降りた。「お待ちを!」とオスの声を背中で受け止めるが振り返ることもしなかった。下には少年がいた。恍惚とした顔で私を見上げている。私が裸の人間のメスから猫の姿に戻ると、その顔を恐怖のものへと変貌させた。
私はアスファルトに着地すると、呆然とする少年の股の間をくぐり抜け、ご主人のもとへと駆けて行った。
阿呆だ。私は阿呆だ。昨夜のご主人の様子はおかしかった。なのに、どうして理由を追求しなかったのか。どうしてご主人はずっと傍にいてくれるのだと思いこんでいたのか。当たり前に一緒にいてくれるのだと思いこんでいたのか。
走れ。走れ私。この肉球が血みどろになろうとも。足が千切れようとも。肺が弾けようとも。とにかく走れ。きっとまだ、間に合う。
待っていろ。勝手に死なせるものか。
ご主人……! ご主人……! ご主人……! ご主人……! ご主人……!
ご主人……! ご主人……! ご主人……! ご主人……! ごしゅ――。
十字路に差し掛かったところだった。不意に黒い大きな物体が真横に現れて、私の体を吹き飛ばした。
激痛が走り、意識がくらりと遠のいた。
恐らく地面に横たわっているのだろう。意識が朦朧としているせいで確信が持てない。
「びっくりさせんな! 糞猫が!」
人間のオスが野次を飛ばしてきた。ぐるぐると揺れる視界の中でオスが私の横を通り過ぎるのが見えた。車に衝突したかと思ったが違ったらしい。確かあれは、自転車と言ったか……。
行かねば。走らねば。ご主人……!
私は立ち上がると、ふらふらと、力なく走り出すのだった。
徐々に道を狭めていく山道の最後には石段があった。ぐねぐねと森の奥深くに続いている。
自転車と衝突したことにより右前脚は腫れ、酷い痛みがあった。
カラスが何匹も私の上空を旋回していた。私が弱りきったところを狙っているのだろう。
ここでくたばってなるものか……! なるものか!
私は石段を駆け上がった。止まれば、もう体が動かなくなってしまうと思った。だから走り続けた。上空のカラスはさらに数を増していく。それでもただひたすらに走り続けた。
石段を上がりきると、まず白い鳥居が目に入った。その奥に、こじんまりとした神社が構えている。神社の屋根に猫がたむろしていた。その群れの先頭に黒い猫がいた。前脚に二本の細長い傷を見つけた。
「ご主人!」
私が叫ぶと、猫の群れは鳥居の真下にいる私を見つけ出した。
「どうして……ここに……」
先頭の黒猫が言う。間違いない。やはりご主人だ。ご主人の首は縄で括られていて、今まさに屋根から吊るされるところだったのだろう。なんとも惨たらしいことをする。
「なぜ驚く。飼い主を助けたいと思うのは当然のことだろう」
「私はあなた様の飼い主などでは……。お引き返し下さい……! 今すぐに!」
「断る!」
猫神様だ! 猫の群れは目を光らせ、一斉にざわめきだした。
本物か?
あの雅な純白の毛。間違いない!
殺せ!
しかし約束が……。
関係ない。殺せ!
やつさえも消えれば、我らに仇なす者はいないも同義。
弱っているぞ!
殺せ! 今殺せ!
醜悪な言葉が飛び交っている。それでもやつらは自分達が正義だと思っているから、たちが悪い。
「いかにも。私は猫神だ! そこの黒猫を死なせてはならん! 私に差し出せ!」
殺せ! 殺せ! 殺せ! そればかりが飛び交う。もはや言葉は通じなかった。真っ当な正義を見失った者達は、かくも盲目に、こうも聞く耳を持たなくなってしまうものなのか。
「よろしい! ならば力づくだ!」
私が叫び、猫の群れに突っ込んだ時、カラス達が一斉に頭上から降りて来た。獲物を奪われると思ったのかもしれない。どんな理由にしろ、私には追い風となった。私を狙うカラスもいたが、猫の群れに襲いかかるカラスもいたからだ。
猫の群れは途端に混乱に陥った。カラスと格闘する猫もいれば、森の中に逃げていく猫も多くいた。
私はカラスの猛襲を避けながら神社の屋根に飛び乗ると、人に姿を変え、ご主人の首に括られた縄を解こうと努めた。
「どうしてここに来てしまったのですか!」
「ご主人の身が危険だったからだ」
「私よりあなた様の身を案じてください! 私を置いて早く逃げるのです!」
私は答えなかった。襲ってくるカラスを払いながら縄をほどき続けた。
「傷だらけではないですか……!」
「うむ。さっき転んで擦りむいた」
「なぜ嘘をつくのです……!」
「こっちの台詞だ!」
なぜだろう。感情が高ぶるほど目に水が溜まっていく。人間の体というのは困ったものだ。これでは縄をほどきにくいではないか。
「嘘は嫌いだ! 隠しごとも、私のために死のうとするご主人も。全部嫌いだ!」
目に溜まった水は重力に負けて私の頬を伝った。そうか、これが涙か。
「ご主人。もっと私を頼って欲しかった……! 信じて欲しかった……! 自分の知らぬ場所で、唐突に、愛する者が死ぬことほど恐ろしいことはないぞ!」
ご主人の首から縄がほどけた。
「場は混乱している。今の内に逃げるぞ。ご主人」
「どこに逃げるつもりなのですか」
「知らぬ。どこかだ」
私は猫の姿に戻ると、神社の屋根から降りた。「ご主人!」私が叫ぶと、ご主人はようやく腹を括った顔を見せ、私のあとに続いた。
「猫神様! 後ろを!」
鳥居をくぐろうとした時に一羽のカラスが後方から襲いかかってきた。
避けたつもりだったが、脚に力が入らず、ふらついただけだった。
カラスの足が私の横腹を蹴った。衝撃で飛んだ体は石段を転がっていく。
感覚は麻痺していて、痛みさえ無くなっていた。
ただただ意識が遠のいていき、やがて、ぷつりと途絶えたのだった。
波の音と、毛先に触れる潮風のこそばゆさに目が覚めた。そこは防波堤で目の前には海と空ばかりが広がっていた。隣には黒猫が座っていた。まるで銅像のような綺麗な姿勢で水平線を眺めている。そうだ思い出した。これがご主人の真の姿だ。
「どうやら逃げられたみたいだな。ご主人が運んでくれたのか?」
起き上がることもせず、私は言った。
ご主人は、私が目を覚ましたのに気づくと、ほっと息をはいた。
「はい。なんとか」
水平線の上には豆粒大の渡り鳥が空をわが物のように飛んでいる。
「あなた様が気を失っている間に、獣医に怪我を診て貰いました。幸い見た目ほど酷くは無いようで、安静にしてれば一ヶ月で完治するようです」
「ご主人が私に敬語を使うのは気持ち悪いな」
「今までが変だったのです。これが本来あるべき姿です。それと……」
猫神様。とひどくかしこまって言う。
「私のことをご主人と呼ぶはおやめください。もうその必要はないのですから」
「ならばご主人も私にかしこまるのをやめてくれないか?」
「それは出来ません」
「ご主人は我が儘だ」
「我が儘なのは貴方様です」
「ならば、ご主人はご主人だ」
ご主人は深い溜息をこぼした。尻尾を地面に擦り付けながら、たっぷりと悩んだ後に「分かった。かしこまるのはやめよう」と頷いた。
「弧太郎。行きたい場所がある」
「行きたい場所? 初耳だな」
「今思いついた」
広大な海にポツンと浮かぶ島がある。
あそこは楽園だろうか。それともここと変わらぬ浮世だろうか。
「悪くないな」
私の視線の先を追ったのだろう。ご主人は言う。
「過激派の者どもといえ、孤島まで手を回してくるのはずっと先のことになるだろう。南の船着き場のフェリーに乗りこめば行けそうだ」
ご主人は腰を上げると、私の前に立った。海と空がご主人の黒い毛に隠れた。
「そうと決まれば直ぐに発とう。今にやつらが追ってくるかもしれない」
相変わらずご主人は心配性だ。
「力が出ない。立てない」
「そんなはずはない。歩く分には問題ないと獣医は言っていた」
「力が出ない。決して疲れたとか、甘えたいとか、そういうことではない」
はあ。とご主人は長い息をはくと、人の姿になった。
私を胸に抱き上げると、歩き出した。
ご主人の心臓の鼓動が、温もりがそこにある。
「はいはい。お姫様」
「お姫様じゃない。私はヒメだ」