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その部屋の白さは無垢によって形作られていた。
チェンバーの真空で熱された合材は空気に触れることなく運ばれ、力学と美術の境界を行き来しながら建築プリンターによって構造が形作られる。生まれるその時まで外の世界の物に、比喩でなく、一切触れることなく生み出されたそれは、この世界で最も清浄で、無垢なものだった。
その部屋の奥に設えられた白い祭壇では香が焚かれ、小さなろうそくの明かりが揺らいでいた。祭壇に祀られているのは白い人形。その面だけが中心に据えられ、蝋燭の明かりを柔らかく反射している。瞳にはめ込まれた瞳の硝子だけが煌めきを返し、それを見つめる者の心を見つめ返す。
対峙するのは、少女。アイカ・ドネリアード。人形と同じような白い肌で、短く切った髪も白い。着ている服は対照的に黒く、薄暗い部屋の闇に溶け込むようだった。瞳だけは青く、その表面が小さく蝋燭の光を反射していた。まるで祭壇に飾られた人形と生き写しのようだった。
「告げる」
合成された音声が祭壇の人形から発せられる。声は部屋全体から届く。まるで、世界そのものが震えるように。
「拝領いたします」
枯れ木の間を吹き抜ける風のように、感情のこもらぬ調子でアイカが答える。指先だけが、緊張したようにそっと伸ばされた。
「市井にたゆとう風は淡く、掴み捉える事はかなわず。見えるとあれど影はなく、その足音だけが聞こえる。困難は谷と山に満ち、追う足は十重に曲がり二十重に折れる。四辻が吠える。見た事のない現世が待つであろう」
人形の無機質な声が、室内に僅かに余韻を残す。二呼吸ほどの間を置いてアイカは頭を下げ、そして後ろを向いて部屋を出ていった。
香の香りが陽炎のように震え、部屋にはただ静寂だけが残された。
部屋から出たアイカは、そっとドアを閉めてから大きく息をついた。託宣AIからの拝領は毎度毎度気を遣う。ただロボットがしゃべっているだけだが、その背後には都市フレーム四十個分のサーバと演算装置が繋がっている。喋る内容は分かりにくいが、予知に似た機能は何度もこの都市の問題を解決している。
今回の託宣も同様だ。細かな解釈は天文省解析局が行ない、正式な通達は後になるが、ともかくさっきの内容が今回の託宣だった。
「ダサポエムに磨きがかかってるな。抽象さも。現世が待つって、何だその曖昧な言葉は」
アイカは託宣AIの事をダサポエム生成AIと呼んでいた。毎回意味不明な詩文を吐き出すからだ。後になってみれば確かに預言だったと気付くこともあるのだが、事が終わった後では遅い。特に、アイカの従事する職務においては。
祭壇の部屋から続く白い廊下を抜けると、そこからは普通のオフィスが広がる。クリーム色の壁に、灰色の廊下。一瞬暗くなったように感じるが、数度の瞬きで元に戻る。香の香りが残る鼻で息を吸うと、近くにある自販機からコーヒーの香りが漂ってくる。
いつも通りきっとそこにいるのだろうとアイカが歩いていくと、案の定ジルキス室長が自販機の前に立っていた。少しよれた感じの白い天文省の制服を着ていて、腕組みをしながら自販機を見つめている。黑いカソック(祭服)を着たアイカとは対照的だった。
ジルキスはアイカに気付くとちらりと視線を向け、組んでいた腕を解いて自販機のボタンを押した。中で機械の動く音がして、ガコンと飲み物が落ちてくる。イチゴ練乳のドリンクだった。
「ドネ、君はいつものでいいかい?」
缶のプルタブをあけながらジルキスが聞く。いつもの、まるでルーチンワークのようなやり取りだった。託宣の拝領の後は、ジルキスはいつもアイカに飲み物を奢っている。
「今日は……」
アイカが液晶に表示されたドリンクに視線を移す。先月と同じような陳列。変わっているものもあるようだが、四種類あるコーヒーはいつもの通りだった。
「微糖を」
「はいはい」
コーヒーの、とは言わなくてもジルキスには通じる。アイカはいつもコーヒーを頼むからだ。その時の気分でブラックやミルク入りを選ぶが、今日は微糖の気分だった。
出てきた缶コーヒーを取り、アイカもコーヒーに口をつける。合成甘味料の甘ったるさが舌の上に広がる。
「託宣はどうだった」
これもいつもの質問だった。しかしその答えは、いつもと少し違っていた。
「奇妙なことを言われました」
「奇妙? いつも詩文のような内容だけれど……今日は普通だったとか?」
「いえ、いつもどおりはいつも通りなのですが……困難が待つ、今までにないものを見るだろうと……まるで忠告のような事を言われました」
そう答え、アイカは一口コーヒーを飲む。甘さと一緒に、託宣に感じた違和感を飲み込みながら、言葉を続ける。
「今までは何らかの事象に対する抽象的な言葉だけでしたが……記憶では今日のような、忠告のような文言は初めてです」
「そうか。忠告ね……」
ジルキスは缶を持ったまま腕を組み、視線を宙に動かす。
「詳細な見解は解析局待ちか。ふむ……変なことが起きなければいいけど」
そう言い、ジルキスは残っていたイチゴ練乳を飲み干し、缶をゴミ箱に捨てた。アイカはまだ七分目残っている微糖のコーヒーを舐めるように飲んだ。
「そうですね。何事もなければいいのですが……」
しかし、何事もないという事はほぼあり得ない事だった。地下都市では毎日のように事件が起こる。大半は通常の警察の案件だが、近年ではアイカ達の請け負う案件が増えている。
悪魔憑き。
その対処が、アイカ達の職務だった。
惑星プロテアに人類が入植してから四〇〇年ほどが経つ。悪魔憑きの事象は三七一年に端を発し、三七三年には祓魔室の前身である超常対策室が組織された。そして三八〇年には今の祓魔室に組織改編された。かつては一般の天文局職員が職務に従事していたが、現在では遺伝子改変と聖性処理により人造エクソシストが生み出され、直接的な祓魔、エクソシズムに従事している。アイカもその人造エクソシストの一人だった。肉体年齢は二〇才程だが、生み出されてからはまだ二年ほどしかたっていない。
「最近の祓魔案件は例年より多い。増加傾向にあります。その事とも何か関係あるのかもしれませんね」
「そうだね。ああ、やだやだ。仕事が増えたって給料は増えないのに。特に僕なんか管理職だから残業手当つかないしね。ドネだって大変だ」
「いえ、それが仕事ですから」
仕事、か。言いながら、アイカは自分の言葉に苦笑した。
人を守るための行為。祓魔、エクソシズム。
確かに自分は祓魔を行なっている。しかし実際に相手しているのは、軽度の精神疾患を発症した患者ばかりだ。異常な言動を行ない、時には狂暴化し、周囲の人間や、あるいは無関係の人たちに危害を加える症状。通常の傷害事件とは区別され、一定の異常水準を超えると判断されたものは祓魔の対象となる。
だが祓魔とは、当然のことながら悪魔憑きに対処するものだ。異常な言動はその予兆や直接的な症状と言えるが、精神的な疾患とは根本的に別ものだ。異常であればなんでも祓魔の対象になってしまう現状は、本来の祓魔室の目的からは外れるものだ。
それでも人を守り、救う職務である事に違いはない。そう思いながら、次第に自分の心から信仰が失われていることも感じていた。
生まれた時は、睡眠学習により強い信仰があった。この世界を作ったのは神であり、しかし問題ばかりが起きている。犯罪もそうだし、他所の地下都市との対立や、時には起きる領地戦争。貧困や差別の問題もある。つまるところ、かつて地球に住んでいた時から人類は進歩していなかった。
アイカの信じるキリスト教は、地球で生まれた宗教だ。しかし植民の過程でその信仰はほとんど失われ、消えゆく文化の一つとして辛うじてデータが残っていただけだ。
それが悪魔憑きという異常な現象が発生したために、託宣AIの預言と公王ダギウスの勅命が発せられた。そうして対処するためにキリスト教と祓魔室が必要とされたのだ。
これまでの超常対策室、祓魔室の対応した案件の中で、確かに悪魔憑きだと言える例は数件しかない。だがこの十年ほどは発生しておらず、実際の祓魔に従事していた人間は今の祓魔室にはいない。全ては遠い過去の事だった。
都市は概ね平和だった。しかしどうしても消えない闇がある。それは悪魔の仕業などではなく、人の業によるものだ。それを原罪と呼ぶのならそうなのだろう。だがそこに、悪魔の姿はない。
アイカは神を信じていた。そう……信じていた。現在のアイカは揺れる自分の心を制御できないでいた。壊れた秤のように左右に揺れ動いている。大きく傾けるだけの信仰は心から失われつつあった。
だから、仕事、なのだ。かつては使命と考えていたが、当時とは考え方が変わってしまった。神の名の下に平穏をもたらす。そうであるはずなのに、実際に従事しているのは普通の人間への鎮静処理だ。社会に平穏をもたらす行為であっても、神の名からは遠い。自分の生まれて来た意味を疑ってしまうほどに、その遠さが心から信仰を失わせていた。
「明日は何も起きないといいけどね」
「そうですね」
コーヒーをすすりながらアイカは答える。甘ったるい味に舌が痺れそうだった。これでどこが微糖なのかといつも不思議に思う。しかし時々は飲みたくなるので、メーカーは商品開発に成功したという事なのだろう。
託宣の日は気が重い。今までの経験的に、翌日に何らかの事件が起きることが多いのだ。それはアイカの同僚が個人的に統計を取っていたが、優位に差があるとのことだった。
もっとも、だからこそ預言とも言える。いつも内容は詩文のようで意味がはっきりとはしないが、何らかの異常を予知しているのだ。託宣AIが口語で喋ってくれればどんなにかいい事だろう。だがアイカが言う所の、ダサポエムAIは作られた当初からあのままだ。
「今までにない困難と言うと、ドネ、何が思い浮かぶ?」
「困難ですか」
託宣についてジルキスから聞かれ、アイカは考える。
困難とは何だろうか。一般的な意味での難事件という意味か。それとも祓魔室としての困難だろうか。
託宣AIの預言が本物であれば、きっと後者なのだろう。今回の託宣は祓魔室用に生成されたものだ。その内容も祓魔に特化していると言っていい。ならば当然、今回の忠告も祓魔に関係するものであるべきだ。
では、祓魔に関する困難とは何だろうか。アイカは考える。しかし深く考えるまでもなく答えられる。困難とは、本当の祓魔、その事だろう。
そのくらいはジルキスにも思い浮かぶだろう。では、ジルキスは何を聞こうとしているのか。その意図をはかりかね、アイカは少し悩む。
「僕はねえ……多分、あれだよ」
「はい」
「宇宙人だな、きっと。宇宙人が攻めてきて、その対処を任されるんだ。今までにない困難と言うとそのくらいしか思い浮かばないよ」
「宇宙人、ですか」
阿保みたいな考えだとアイカは思った。ジルキスは大抵の場合は優秀な室長だが、時折素っ頓狂なことを言う。
「ほら、他の都市だとそんな報告もあったって言うじゃないか。テレビでもやってたし」
「普通の、祓魔じゃないんですか。うちでの実績も、もうずっと無い」
「普通の祓魔ね。普通……普通か。普通の祓魔ってのも不思議な表現だね。祓魔なんてどれも異常なはずなのに」
「我々は祓魔を経験していません」
「してるでしょ、一応。警察庁と天文省は祓魔と認めている」
「精神病患者の鎮静処理がですか。定義は何であれ、あれは祓魔ではないかと」
「ふむ……君は天文省の考えを否定するのかい? 過激だねえ、エクソシストなのに」
「私は神でなく人に造られましたからね。不完全なのでしょう、きっと」
「ひょっとして、まだ悩んでいるのかい」
ジルキスが小首をかしげながら聞く。心を覗き込むような視線で。
「悩みなどありませんよ。私は、人間とは違う」
そう、違う。違うはずなのだ。情動は抑えられ、悩みや苦悩することもない。そのはずなのだ。
「そんな君に降りかかる困難て、一体なんだろうねえ。興味深いなあ」
「仕事に個人的興味を持ち込まないでください」
「えぇ、だめぇ?」
眉間にしわを寄せ、困ったようにジルキスが言う。その様子に、アイカは溜息をつく。そしてまだ熱いコーヒーを一気に飲み干し、缶を捨てた。
「帰りましょう。またいつ、招集がかかるか分かりません」
「そうだねえ。メルディ君から連絡が来たら現場に直行しないといけなくなるからねえ。ああ、何もなければいいけれど」
あんたがそう言うと、余計に何かが起きそうだ。そんな言葉が脳裏をよぎるが、何も言わずアイカは歩き出す。ジルキスはいつものように微笑みを浮かべアイカの後ろをついていった。