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小指

作者: 相木あづ

「自分がいる場所がわかるかい?」

 辺りを見渡してみても、そこは全く知らない場所だった。薄暗い中に果てしなく続く長い廊下。

 母親が微笑を湛えて佇んでいる。目が合うと、母親は頷いた。「それでいいのよ。それで。そのまま進みなさい」私も頷き返す。「これでいい。これで。このまま進んで私は焼け死ぬ。最期にあなたを悲しませることになるけど」

 しかし、母親はもうそこにはいない。誰かに、私の知らない誰かに背中を押され、私は歩くしかない。果てのない廊下の先は、小さな暗闇の中へ消えている。具体的な景色は何も見えない。結末だけが見えている。私は焼け死ぬ。

「馬鹿じゃないの?」

 彼女の声。私は彼女を知っている。ずっと前から彼女を知っているけれど、彼女がどこから来たのかは知らない。ある日突然、テレビの中から出て来た気がする。あまりに美しい容姿に、危うく服従を誓いそうになったことがあるような気がする。

「あんた、焼け死ぬよ」

「わかってる」

 私にはわかっている。わかっていても、抵抗する術がない。進みだしたすべてを止めることができない。それがどんなに愚かしくても。

「待ちなさい」

 彼女が私の腕をつかんだ。あたたかい少女の体温。接触した肌を通して、彼女がずるずると私の中に入ってくる。彼女と私は同一の人物となり、隅にうずくまるひとりの少女を見ていた。

 少女は泣いていた。少女の周りに、暗い陰が深い沼のように広がっている。その中心で、少女はひときわ白く、明るかった。沼の底からいろいろな影が立ち上がっては、少女に声を掛けて去ってゆく。

「どうしたの?」

「大丈夫?」

「安心して」

「あなたらしく」

「かわいいよ」

「こっちみて」

「もっと笑って」

「いいね、かわいい」

 最後に立ち上がった影は、長い髪の女性だった。もう若くはないが、年老いてもいない。影が少女に近づいてゆく、ひたひたという足音だけが、廊下にこだまする。影は少女の肩にそっと手を触れた。少女が初めて顔を上げた。

「お母さんはうれしい・・・・」

 私は少女に駆け寄って、キスをした。違う。私の中に入った彼女が、少女にキスをした。熱烈にキスをした。しかし、そこに表情はない。少女にも、私にも。涙の痕さえない。

 雨が降る。廊下も少女も消え失せ、星のない夜空が見える。雨はしとしとと降り注ぐ。

 足音がする。誰かが来た。

「ここがどこだかわかるかい?」

 私はそれを無視した。その誰かも、私が無視したことを無視した。

「あなたは覚えていない。すべては、長い時間をかけて、ゆっくりと起こったことだから。あなたが覚えているのは、昔と今のふたつだけ。その間をつなぐ線のことを、あなたは知らない」

 その誰かは、ここから遠くない場所を指さした。雨は一層激しくなり、稲妻が光った。それは、泥の上に落ちていた。彼女の身体。腐敗はしていない。華やかな服も着ている。しかし、それはすでに死んでいた。

 私は、私の中に彼女がずるずると侵入してきたときの感覚を思い出した。雨はいよいよ嵐に変わり、ときどき光る稲妻が、彼女の濡れた肌と濡れた髪を艶めかしく照らす。冷たく死んだ肌に張り付く、冷たく濡れた髪。降りしきる雨。

「馬鹿ね」

 私は濡れた泥の上に横たわっていた。全身が凍り付いたように冷たいのに、頭の下だけが燃えるように熱い。結末だけが見えていた。私は焼け死ぬ。

「どうしようもない馬鹿よ」

 私の頭は、燃えてはいなかった。そこにあったのは、私を焼く炎ではなく、彼女の太腿だった。焼却炉のような暴力的な熱さの中を注意深く探ると、確かに少女の太腿の心地よい柔らかさを感じた。しかし、それ以上の熱。暴力的な熱。彼女の身体のすべてがとてつもなく熱い。違う。私の身体がとてつもなく冷たい。

「馬鹿ね。馬鹿ね。あなたは馬鹿ね」

 彼女は私の頭を膝の上に乗せて歌うように囁き、私の身体のあちこちに触れた。炎のような彼女の手。炎は身体中を這いまわって私を焼いた。焼かれたところはすぐに雨で冷やされ、再びやってくる痛みを待つしかない。こんなことなら、あのとき廊下の先で焼け死んでしまった方がよかった。

 しかし、私はわかっていた。

 雨は激しく降り続いた。彼女の死体の上に降り続いた。投げ出された彼女の手。まだまだ幼い彼女の手。私はそれを鼻の前に持ちあげ、彼女の匂いを吸い込もうとした。しかし、そこにあるのは雨と泥と死の匂いだけ。彼女の手をさらに近づけ、その指を口に含む。舌の上の冷たい異物。

 私は彼女の小指を噛み切った。さくり。胃袋の奥まで真っ直ぐに落ちてゆく小指。残った身体は、地面に埋めた。

 地の底へ、彼女は沈む。ずるずると沈む。

 口の中にまだ血の味が残っている。

 この鈍い鉄の味を、けっして忘れないと決めた。

 あとがきを書くのは私の癖です。

 以下、一意見ですので、興味のある方は参考までに。


  まず、登場人物は「私」「彼女」「誰か」「少女」「母親」。それぞれの表すものは以下の通りです。

 「私」。言うまでもなく、作者あるいはこれを読んでいるあなたです。敷かれたレール(ここでは「廊下」)を、誰にともなく従順に進みます。その先に待っているのが破滅的な結果、望まない結果だとわかっていても、それを拒めません。なぜなら、そのまま進むのが楽だからです。

 「彼女」。これは、幼いころに失ってしまった自由で本能的な自分です。登場時点では、「彼女」と「私」は別人として書かれます。これは、「私」が「彼女」を自分であると気づいていないから。あるいは、別人の中に自分を見ていることに気がつかないから。だから、「私」と「彼女」が一体であるという当然の状態を、「私」は「彼女が私の中に侵入した」と感じます。後半になり、「私」は「彼女」の死体を見つけます。「私」は気づかないうちに彼女を殺していました。つまり、生まれ持った自由を、自ら捨ててしまっていたということです。生まれ持った自由の象徴である彼女は「炎が全身を這いまわる」場面で、「私」に強く本能的に訴えかけます。「生きろ」と。「もっと自由に生きろ」と。

 そして「私はわかっていた」。「彼女」が失った自分自身であることをわかっていた。「彼女」を自分の中に受け入れなければならないことをわかっていた。そしてそれは、身を焼かれるように苦しいことをわかっていた。しかしそれこそが生きるということだとわかっていた。

 「私」が「彼女」を食べるのは、ここまで説明すれば当然のことです。本当は全身を食べさせたかったのだけれど、野蛮なのでやめました。しかし、結局ここに書かれているのは「私」の心なのだから、その地面に埋めるということは結局「私」の心に埋め込むということと同じで、実は、「彼女」を食べるというのとほとんど同じことを表します。

 そして、私は「けっして忘れないと決めた」。この時点では「彼女」の存在をもう決して手放さないと決意しています。しかし、どうでしょうね。案外すぐ忘れるのでしょうね。

 次に「誰か」。これは風景の一部で、つまり「私」の心の一部です。「私」より多くを知っていそうですが、「私」と全く同じです。

 「少女」これも当然ですが「私」です。どちらかというと「彼女」から見た「私」で、周囲に怯えて閉じこもり、自由を失っています。「彼女」からするとそれが悲しくて仕方がないのです。精一杯に彼女を解き放とうとします。

 ここで、廊下から夜の野外に場面転換です。「廊下」は「私」の知らない場所でした。ここに書いてあるのはすべて「私」の中の世界だから「私」が知らないのは少しおかしいことで、正確には、「私」が知ろうとしない場所です。あきらめや自暴自棄です。「彼女が私の中に入っている」つまり、生まれ持った自由を一時的に取り戻した状態で、自分(少女)を客観的に見たことが、「私」をともかく廊下から外に出しました。しかし、そこは雨の降る夜の野外。とても楽園ではありません。

 そして「母親」。言うまでもなく「私」に「廊下」を進むように圧力をかけ、「少女」に強いプレッシャーを与える存在です。本人は、そんなこと気がついてもいません。

 最後に、これはうやむやになって活かしきれていない設定ですが、「私」は「頭のいい人」を想定しています。理由も知らずに勉強し、理由も知らずに進学し、「気がついたら難関大に受かってた笑」という人を想定しています。だから「あなたは馬鹿ね」が強い意味を持つのですが・・・

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